市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑮

たいへんな状況が続いています。われわれにとっては「外での活動こそ、日常生活を送るうえで必要欠くべからずの行動」と叫んでみても、もう通用しなくなりました。良識あるクローバー会会員にあっては、Stay Home、粛々の日々とは思います。こんな時こそ、唯一の活動の場となった“デジ青”こそ活発化して、元気の証明にしたいと思います。すでに事務局からの勧めもあって、多くの投稿、コメントが寄せられており、何よりです。私も参加して、“懐古もの”に焦点を当てて、私の元気を表現したいと思います。

棒鼻

“ぼうばな”という一風変わった停留場名の由来は、竹田街道沿いの宿場のはずれに、支配境を示す棒杭が立っていて、これを棒端(ぼうばな)と呼んだところから来たと言われています。江戸時代、棒鼻は伏見領と竹田村の境であり、交通、物資輸送の結節点でした。それを示すように、停留場の横には、竹田街道に敷かれていた車石が今でも保存されています。
ここまでは、国道24号と言われた竹田街道上を走っていた伏見線ですが、近鉄京都線を潜ると、国道24号は、この棒鼻で東に向いて分かれ、本来の竹田街道は細い街路となって南下し、伏見の街へと入って行きます。伏見線も、竹田街道の西100mほどを専用軌道となって、並行しながら、南下をしていきます。

今回も先輩のMさんの貴重な写真も貸していただいて掲載しました。厚く御礼申し上げます。

竹田街道の併用区間とは分かれて、専用軌道に入ったところに棒鼻の停留場があった。伏見線においても、棒鼻は結節点であり、渡りポイントもあってラッシュ時などは「臨」の棒鼻行きもあった。

【昭和・平成・令和 三代対比 ①】

棒鼻の北で近鉄京都線を潜っていた。京電の開業時は、奈良鉄道であり、京電とは平面交差していた。開業早々、奈良鉄道と衝突事故を起こしたと「チンチン電車ものがたり」に詳述されている。三代対比してみても、周囲はほとんど変化がない。

いまも棒鼻のバス停横には多くの車石が保存されている。ほかにも竹田街道沿い民家の石垣にも、溝のできた車石が多く見られる。この溝、あらかじめ彫られたものではなく、牛車・荷車の轍で自然に彫られていった。

【昭和・平成・令和 三代対比 ②】

写真右手の街並みを対比すると、市電時代、「平岡の靴」はじめ、多くの商店が連なっていた。平成の時代も、その光景は変わらないものの、令和になると、すっかり街並みが変わってしまったが、「平岡の靴」だけは社名を変えて健在。

棒鼻から南へは専用軌道となるが、廃止後にバス専用道路とするために、伏見線は単線化されていた。右手の電柱に、真新しい閉塞信号の裏側が見えている。棒鼻で交換して、単線区間に行く。今までは複線で自由に交換していたものを、急に単線化されたため、ラッシュ時の本数が削減された。単線化区間に入ると、ところどころに田圃がまだ残っていた。伏見線が疏水放水路を越える北側に、警報器、遮断機付きの「津知橋踏切」があった。レッキとした踏切で、市電が通り過ぎるまで、クルマ・人は待っていた。今でも覚えているのは、ここで電車の通過を待っていると、近くの民家から大音量でラジオのニュースが聞こえてきた。内容はよく理解できなかったが、たいへんな事件が起こったようだった。これが「よど号ハイジャック事件」のはじまりだった。昭和45年3月31日、伏見線の最終日だった。

【MEMO】伏見線の単線化

上記のように、棒鼻から、丹波橋、肥後町までの複線区間が、昭和44年11月から、廃止後の代替バス化準備のため、部分的に単線化工事が進められていた。新聞は、その着手を伝える紙面。

 

市電のすぐ横で工事が進められた。市電廃止後、撤去部分が北行きの代替バスの専用道路となり、左手の軌道も廃止後に整備されて、のちにほかのクルマも走る、一般道となった。

 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑮」への4件のフィードバック

  1. 紹介した「車石」については、車石・車道研究会の皆さんが熱心に研究されており、私も何回か参加して、竹田街道沿いの車石ウォッチングをしたことがあります。とくに棒鼻から竹田街道を南下すると、民家の石塀、石垣に多数の溝のある車石が見られました。石というものは重たいですから、廃棄されても、また同じ場所で再利用されるものです。

  2. 伏見線の単線化に関するところにはちょっと興味と疑問点があります。
    それは、専用軌道の道路化があったために単線化したと言うことですが、棒鼻電停の先で単線になるところに↑と×の信号機が設置されていますが、なぜかその左側には烏丸今出川等で見られた方向信号機もあることです。
    たぶん、この先にあった踏切の作動と関連があるのかな? と思います。つまり、棒鼻での折り返し運転と中書島まで行く運転とを仕分ける必要からかと推察します。(その選択は軌道回路式?) 丹波橋電停の北側専用軌道になる付近にも↑と×の信号機があったと思います(選択方法は?)し、伏見線のもう一つの単線化した区間の豪川橋上も、単線区間手前にトロコン式による↑と×の信号機現示があったように思います。
    いずれの場所で撮影された方がおられたら、一度お写真を拝見させて頂ければと思います。
    そして、現在個人的に最大の謎で知りたいのが、これら区間の万が一時の保安方式です。現存する単線区間を持つ鉄道は、大抵が信号機でのやり取りをしてはいますが、信号機の故障等が起こった時に行う方式を別に必ず準備して(原始的ではあっも、通票式〈タブレット交換〉などがあります)いますが、市電の場合はどのようになっていたのか? と言うことです。実施期間は伏見線廃止までの5ヶ月間でしたが、豪川橋で単線となる起終点がバッチリ視界に入るのでさほど問題はないと思うものの、棒鼻〜丹波橋 間の場合はこれを準備しておかないといけない筈ですが、一体どのようになっていたのか興味津々です。何か調べる手立てでもあれば有難いのですが…。

    • シナイセンの“オチケン”さま
      いつも細かいところまで観察いただき、ありがとうございます。以前にいただきました、信号・保安に関する市電の資料は大事に保管させてもらい、本稿でも参考にさせてもらっていますが、お尋ねの疑問点は載っていないですね。一時的な単線化とは言え、信号・保安は規格に則ったものであり、また万一に備えて、次善の方式も用意する必要がありますね。新聞を改めて読みますと、“警報機の併設も計画”と書かれています。これは踏切に連動した警報機のことなのでしょうか。

  3. “警報機の併設も計画”と書かれている内容云々のことは当方では「?/謎」の域を超えませんが、個人的な見解として、棒鼻から中書島方へ進む専用軌道上には踏切が何ヶ所かあり、これらの警報機や遮断機の動作との関係があるのでしょうね。
    確か棒鼻より京都駅方面への折り返し電車が存在した(ただし、その運転本数は当方は分からず。)から、単線区間入ってすぐで折り返す列車を認識して、警報機や遮断機を動作させない必要があったものと思います。
    いずれにしても、単線区間の運行方式に関心が高まったのは、最近の調査・研究の対象である伊予鉄道松山市内線の存在が大きいと思います。

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