若松機関区(2) C55つづき
▲冷水峠に挑むC55 46 原田行き729レを牽く。冷水峠は筑前内野~筑前山家10.2kmにある峠で、サミットの冷水トンネルに向けて両側から25‰の上り勾配が続いた。ここまで来ると、さすがの筑豊本線も列車本数が減って、旅客列車は16往復だが、特急「いそかぜ」、急行「天草」も通っていた。うちC55の牽く普通列車は8往復、中間にトンネルがあるので、両側へ交互移動できず、どちらかの側に専念せざるを得なかった。まだ篠栗線が全通していなかったため、飯塚~博多の列車移動は、この冷水峠、原田経由しかなかった(以下特記以外、昭和43年3月)。▲若松機関区の全景 ここには扇形庫はなく、木造の矩形庫が二つあったほか、側線に蒸機が留置されていた。
▲飯塚に到着の1735レ 標準デフのC55 19が牽く(昭和44年3月)。▲折尾に停車中のC55 19 ランボードに沿って暖房管がフロントデッキまで伸びているのが分かる。助士側のみの設置で、機関士側にはない。これは、ときどきバック運転をすることがあり、前部に客車を連結した際の暖房管のようだ。▲筑豊の“山科”を行くC55 46 以前の“デジ青”でも発表済みだが、このカーブはホント絵になった。中間~筑前垣生▲若松を発車、左手に大きくカーブする地点でC55 46牽引の733レをとらえる。▲左手奥の冷水トンネルを抜け、筑前内野側の下り勾配に掛かる1734レ C55 46はやや大型の切取り式デフを装備していた。▲広々とした4線区間を快走する C55 46は廃車後、大分市の公園に保存展示されているが、ナンバーはC55 53のものを流用して取付けている(昭和44年3月)。▲標準的な切取り式デフのC55 51 昭和43年に宮崎区から、51、52、53の3機が揃って若松区に転属した。▲冷水峠の筑前山家側の大築堤を行く。C55 51の牽く門司港行き1734レ▲折尾~中間の4線区間には、途中に立体交差があって、方向別運転、線路別運転を切り替えている。その交差の築堤上をスポーク動輪も誇らしげに737レを牽くC55 51が通り過ぎる(昭和44年3月)。▲やや大型のK-6型の切取式デフを付けたC55 52 同機は吉松、鹿児島へ転出し、廃車後は吉松駅前に保存展示されている(右写真)。国鉄OBの手で定期的に整備されていて、50年前と変わらない美しさを保っていた(2018年1月)。
▲新飯塚に到着、728レを牽くC55 53 飯塚と新飯塚があるが、官公庁、バスターミナルに近い新飯塚のほうが乗降が多かった。▲折尾~中間の立体交差付近に掛かる。736レ牽引のC55 57(昭和44年3月)▲C55 57が736レを牽き、折尾~中間の複々線区間を行く。前掲と同じ年月、同じ列車だが、日が違う。九州へ行くと何度もこの区間へ行ったものだ。とにかく蒸機の本数が多くて途中でイヤになるほどで、撮り方も雑になってしまった(昭和44年3月)。▲C55 57が冷水峠で733レを牽く 同機は昭和50年まで吉松機関区に残っていた。▲C55はこんな小貨物を牽くこともあった。C55 57が折尾駅特有の低いホームを通過して鹿児島本線を潜って行く。C55 57は前記のように吉松へ移り、昭和50年3月に日豊線無煙化記念のさよなら列車を牽いて廃車となったが、昭和50年代まで生き延びた最後のC55だった。なお、井原さんは、同機の履歴簿と、あのIMON製の1/87模型まで所有されている(ほかにもあると仄聞)。
1969年3月、筑前内野駅で降りると、待合室の腰掛に総本家青信号特派員さんの大きなリュックが置いてありました。何時間か撮影して戻るとまだ置いてあり、その日は結局会えませんでしたが、どこかのYHでは一緒に風呂に入りましたね。
C55はいいですね。好きです。C55 57だけでなく、C55 52の履歴簿と模型も所蔵しています。C55 52は吉松で大切に保存されていますので、履歴簿を寄贈して機関車と一緒に保存してもらおうと少し前から考えていました。宅配便で送るだけでは嫌ですので、はやく新型コロナが収まって持って行けるようになってほしいものです。
井原様
さっそく最後までお読みいただき、ありがとうございます。再度、探しますと、筑前内野で写した写真に、井原さんが客車から身体を乗り出し、DRFC流の歓迎をしてくれた写真が出てきましたょ。前後のコマを見ますと、夜行で着いて、朝一番から筑前内野で写していました。駅間で写すときは、いつもリュックは駅のベンチに置いたままですので、それを見られた訳ですか。この旅行は、日豊線でも一緒に写していました。
C5552は、吉松駅前でキレイに保存されています。“終活”としては、やはり、ゆかりのあるところで保管してもらうのが一番ですね。
これは総本家さんを探して身体を乗り出していたのに違いありません。
井原様
なるほど、結局この日は会えなかった訳ですね。身を乗り出しているのは、「撮影者を見つけたら、窓から身体を乗り出し、新聞紙を振って、撮影の邪魔をする」と言うDRFCの掟に従ったものかと思いました。
総本家青信号特派員様
大分市内の若草公園のC5553を11年前に撮っていました。屋根はあるものの、いたずら防止の為なのか無粋な防護金網が取り付けられ、何のための保存なのかガッカリした覚えがあります。53号機と思っていたのが実は46号機だったとは知りませんでした。キャブに取付けられた三菱神戸造船所製を示す銘板は製番No.200で53号機の製番でしたから、ナンバープレートと共にメーカーズプレートも付け替えて53号機に仕立てたということですね。傍にある説明看板も53号機の記録が刻まれていました。確かに門デフの形が53号機ではなく46号機ですね。素人には判らないだろうと、偽物を本物に仕立てるのは許せませんね。
西村様
さっそく保存後のC55の写真を見せていただき、ありがとうございます。保存機もよく撮っておられていますね。車体は46号なのに、プレートは53になっている理由は、保存団体が、かつて大分に配属のあった蒸機と強硬に言い張ったため、ナンバーだけ大分にいた53にすげ替えたと聞きました。
総本家青信号特派員様、素晴らしい九州の躍動する日本国有鉄道の蒸気機関車の写真と紀行文、拝読させて頂いています。数年前に初めて直方駅に行きましたが、日本国有鉄道の蒸気機関車が溢れていた時代の面影もほとんど無く、折尾駅も改造されてしまい、改めて若松や折尾や直方に本物の蒸気機関車が活躍していた時代に行ってみたかったと写真を拝見して思いました。耐え難い閉塞感の日々が続いていますが、総本家青信号特派員様の写真と紀行文で癒されました。ありがとうございます。
松本哲也さま
おはようございます。すっかりご無沙汰状態が続いていますね。いかがお過ごしでしょうか。私は、家に閉じ籠もって、こんなことばかりしています。少しでも、癒しになれば嬉しいです。直方、折尾、若松も変わりました。収束が見えて、自由に府県を越えて行けるようになれば、真っ先に北九州へ行って、その変貌を再確認したいです。