大分運転所(3) D60
つぎは久大本線で客貨列車を牽いていたD60です。D60と言うと、どうしても筑豊で石炭列車を牽く姿をイメージしますが、久大本線とD60の歴史は深く、後期の機では、昭和29年に、D50から改造後、すぐに大分区に配属され、一生を大分で終えた機もありました。穏やかで、やさしい風景が続く久大本線は大好きな路線のひとつですが、一ヵ月前の豪雨で、鉄橋が流出したり、土砂が流入したりして、いまも向之原~日田が運転見合わせです。
D60
余剰気味だったD50の従台車を二軸に改造して軸重を軽くし、乙線から丙線へも転用を可能にした。昭和26年から浜松工場などで78両がD50から改造された。久大本線でも、旅客の8620、貨物の9600を置き替えた。運転台の下の従台車が二軸になったため、乗り心地が向上し、乗務員から歓迎されたと言う。▲由布岳を望んで、水分峠への25‰勾配を上る、大分区D60の代表的なシーンだった。由布院の駅から、ひたすら歩いて、峠のトンネルの手前まで来て、大分発鳥栖行き638レを写した。由布院~野矢 昭和44年3月
▲いちばんの若番号のD60 2 大分区で憩う。昭和35年に大分に来た。昭和43年には休廃車になっている。大分の扇形庫は、すべて尻を見せているので、逆に外側から狙うことに。昭和42年3月▲ 昭和43年に津和野から転属してきたD60 3、K-7形デフに換装され、パイプ煙突、前照灯もシールドビームで、大分区のD60では異色のスタイル。鳥栖 昭和42年3月▲夕暮れの由布院に近づくD60 21の牽く列車。パイプ煙突にK-7デフを装備している。まだ当時の由布院は鄙びた温泉郷の印象だった。昭和44年3月▲大分駅に進入する、D60 57の牽く列車。同機は昭和30年に大分へ、昭和45年に直方へ転属している。鳥栖発大分行き627レ 昭和44年3月▲朝焼け雲をバックにしたD60 58の牽く列車。前年に郡山区から来たが、すっかり久大本線の風土になじんでいる感じだった。久留米方にも朝は多くの客車列車が設定されていた。筑後吉井 昭和45年9月▲この時、初めて久大本線の走りを撮るため、本数の稼げる久留米方で下車。由布院発鳥栖行きの628レを写す。D60 60は、K-7形デフ、化粧煙突を装備の大分区D60の代表的スタイル 田主丸~筑後大石 昭和44年3月▲久大本線の中枢、日田駅に到着のD60 61 昭和29年にD50から改造後すぐに大分区へ来た。大分発鳥栖行き636レ 左は豊後森区の8620の牽く貨物。昭和44年3月▲大分区でロッドを下ろしたD60 61を撮ることができた。若松区へ転属後、休廃車となったが、現在、福岡県芦屋町の公園で保存展示中。昭和42年3月▲玖珠川を渡るたびに渓谷美が深まって行く。左手には滝も見える。鳥栖発豊後森行き635レ D60 62が牽く。杉河内~北山田 昭和45年9月▲鳥栖に到着、D60 63の牽く628レ。現在、久大本線の列車は、文字どおり、久留米までの運転だが、当時は、機関区設備のある鳥栖まで乗り入れしていた。 昭和42年3月▲筑後大石でD60 64の牽く鳥栖発大分行き639レと交換する。“旅客列車を牽く蒸機同士の交換が見られたのも久大本線の魅力だった”のキャプションで、この写真を鉄道雑誌の扉として使ったのだが、大胆なトリミングをし過ぎて、ボケが生じてしまい、デザイン意図がはっきりしなかった。昭和44年3月▲筑後大石で交換待ちする豊後森行635レ、D60 65が牽く。ここまで挙げたように、D60は、60から65まで連番でそろっていた。昭和44年3月▲日田に停車中のD60 65の牽く列車 朝の通勤列車だが、客車を7両も連結している。昭和45年9月▲ラストナンバーに近いD60 71 生え抜きが多いなかで、この機は、池田、郡山を経て大分に来た。さらに直方へ転属している。ここまで紹介のように、ほとんどが化粧煙突を付けた、美しい大分区のD60だったが、昭和45年10月改正で、客貨ともDE10に置き替えられた。 昭和43年3月