▲前夜に門司港を出た1121レが大畑のループで朝を迎える。煙をまとった編成が朝の光線に浮かび上がった。鹿児島本線、肥薩線、吉都線と九州を横断する1121レ最高の舞台だった(昭和46年12月)。
肥薩線が人吉から進路を南に向けると、そこには熊本・宮崎・鹿児島3県境にまたがる九州山地の山塊が待ち受けていた。明治時代、鉄道技術者は、長大トンネル、ループ線、スイッチバックで難所に挑んだ。明治42年に最後の矢岳第一トンネルの完成を待って全通、この時、日本を縦貫する幹線鉄道網ができた。肥薩線は、昭和2年の鹿児島本線の全通まで、九州を縦貫する幹線の一部だった。
▲築堤からは、眼下に大畑駅のスイッチバックに入線する1121レが眺められる。約10分後、ループ線を回った列車は眼前を通過する(昭和46年12月)。
1121レは、この山線区間で唯一の客車の長大編成だ。走行中も撮りたいが、その場合は、人吉で前泊となる。人吉6時46分発の始発列車に乗れば、晴れていれば絶好の光線状態の中で1121レを迎えることになる。人吉には愛用のユースホステルは無く、球磨川沿いの国民宿舎に泊まり、昼食用のおにぎりを作ってもらって、薄暗いうちから駅へ急いだものだ。▲せっかく始発列車に乗って来たのに、この日は曇り空、朝の陽光は期待できない。しかし、D51のドラフトと汽笛は、高く、低く、幾重にも重なって山ひだに響いた(昭和46年12月)。
▲ループ線を見渡す64キロポスト付近で1121レ迎え撃つ。いったん遠ざかったブラストが再び近づき、豪快に峠に向かって走り去った(昭和46年12月)。
1121レは、大畑という最高の舞台を、煙と蒸気で編成を包み込み、稜線の大ループをゆっくり横切って行った。地響きにも似たD51の汽笛は、遠くの山襞に木霊した。さらに勾配は続く。乗ってよし、撮ってよしの矢岳越えの1121レであった。そのあと吉松からは、進行方向が変わって吉都線へ入る。矢岳越えを終えた身には、さしたる難所はない。勤めを果たした1121レは、軽快な足取りで、わずかな乗客を乗せて終点の都城へ急ぐ。▲吉松からは方向が逆になり、当時はC55の牽引だった。この列車で5度目の牽引機となった(昭和44年3月)。
いっぽうの上り列車、都城発門司行きの1122レの矢岳越えの頃は、漆黒の闇の中だ。D51の規則正しいドラフトだけが、山野に響いていた。乗車率を見ると、さらに空いているのが常で、ワンボックスを一人で占有しても、まだ空席が見られた。ただ、博多からはハザ2輌が増結され、北九州方面への通勤輸送の色彩を濃くしている。
▲上り1122レは深夜の走行となる。闇の中を走り続けて、矢岳ではゆっくり停車、人吉へ向かう(昭和45年9月)。
“夜汽車”の言葉が似合った、九州島内の普通夜行列車だったが、郷愁だけで生き延びることはできなかった。1972年3月改正で、11211レ・1122レは、人知れずひっそりと消えていった。事前に喧伝されることもなく、改正後初めて知ったような事態だった。残り2本、日豊本線の521レ・522レ格上げの「みやざき」は、1975年3月改正で急行「日南」として継承されたものの、1993年3月改正で特急「ドリームにちりん」となる。「ながさき」は、旧型客車も連結された希少な夜行普通列車として、意外に頑張りを見せたが、1982年11月改正でついに廃止されている。
▲ホームの駅名標だけが唯一の語り部のように立っていた(昭和45年9月)。
▲大畑駅の1122レ門司行き。白熱灯のほのかな光が、漆黒の闇夜に流れていた(昭和45年9月)。
RailMagazine2013年1月号「われらが青春「周遊列車」1121列車」を編集・再録
日豊線の下り夜行列車は、鹿児島交通探訪旅行で何度か乗りました。
殆ど眠れずに夜明け前の宮崎に着き、ここでDF50にバトンタッチ。
この頃(1977年)は「日南」の時代ですが、客室部分の先頭車はいつも茶色いオハニ36でした。中学時代以来の友人と鉄道で鹿児島に行った最後の頃です。
総本家青信号特派員様
夜行列車の旅を満喫させてもらっています。残念ながら1121レ、1122レに乗る機会がありませんでしたが、「ながさき」号のハネに乗ったことがあります。社会人になってから長崎への出張があり、丁度金曜日に仕事が終わったので これ幸いと長崎で1泊して、翌日の土曜日にはスーツ姿で島原鉄道を訪ね、その夜「ながさき」のハネで小倉まで行き、三原に帰ったことがありました。寝台車の形式や機関車が何だったか等全く記憶にありませんが、ゆったりとした時間を過ごした思い出があります。「ながさき」号は1982年11月に廃止されたそうですが、その4年前 昭和53年(1978)のことでした。勿論国鉄時代です。
西村様、ご無沙汰しています。1979年度生の弘津です。
同志社に進む前年、北九州で浪人していた時代ですが、禁欲すぎるのも如何と、昭和53(1978)年夏のある日に、門司港まで写真を撮りに行き、留置線で昼寝中の「ながさき」の各客車を写しています。1号車の1両だけのハネはスハネ16だったようです。
これは昭和56年の春期旅行で、故郷に錦は飾りませんが大威張りで、案内をしました。
門司港駅を発車する数分前の421列車です。
牽引機はED76が早岐まで牽いて、大村線回りのためにラストはDD51でした。
門司港駅の夜景写真の続きで、ラスト近く午前5時台の諫早駅で、門司や小倉で積み込んだ朝刊を下ろして行く風景です。もう牽引機はDD51に代わっています。
その後私が新聞社に進んで、深夜勤務はざらのようにこなしていたことは、不思議な偶然です。
夜行列車の旅、思い出しますね~。特に普通の夜行列車は旅館替わりにしたことがあります。上下列車が交換する一つ手前の駅で降りて、反対側の列車に乗り換えて、戻っていくという技です。山陰線と日豊線の普通夜行列車でこんなアホなことをやって楽しんでいました。気ままな旅は面白かったです。どちらも連れがいました。ところが戻ってどこへ行ったか覚えていません。均一周遊券があったからできたことです。あっ、青函連絡船でも青森から函館へ、そして乗って来た船で青森へ戻ったことがあります。青函連絡船に乗ったのはこれっきりでした。