四条西洞院
四条烏丸を発車して、市電は西へ向かいますが、祇園祭のとき、市電のすぐ横に函谷鉾が立っていました。市民でも鉾へ上がることができて、四条通のほぼ中央を見下ろす風景は、鉾ならでは独自の眺めでした。室町通を過ぎても、四条通りには、月鉾、郭巨山など、何基かの山鉾が立っていて、市電は鉾のすぐ横をすり抜けて行きます。付近は、繁華街から少しずつ離れ、商業施設に代わって、繊維関係の会社・店舗が見られるようになりました。京都の代表的な繊維街である「室町」近くを走ることを実感します。
▲「四条西洞院」の西行き電停から見た四条線、架線も片持ち式ではなくなり、電柱、看板が林立する雑然とした風景に。
▲▲左上の「住友生命」を定点に現在の同地点。電停跡からの定点対比は、現在では困難が伴うが、Googleのストリートビューがうまく叶えてくれた。
▲四条通を行く1号系統の1800形、横断歩道のところが、新町通、その向こうに四条西洞院の電停が見える。ということは、この写真、上掲の「住友生命」のビルから見下ろして写したようだが、どうも記憶がない。四条通の店舗は、間口が狭く、奥行きの深い、京都独特の鰻の寝床式が多いことが分かる。現在ではビル、最近はホテルなどに姿を変えているが、敷地を継承しているため、細長い建物になっている。
▲まもなく四条西洞院に到着する。昭和36年7月までは、市電北野線が分岐していた。西洞院通を北上してきた北野線は、ここで左折し、四条線と合流し、四条堀川で北へ分岐していた。西洞院~堀川は、たいへん珍しい狭軌、標準軌共用の三線式軌条になっていた。架線は共用で、四条線に対して中央となるため、北野線のポール集電は少し片寄っていた。
私のN電時代の四条西洞院の記憶として、北野から京都駅方面に向かって、ポイントを曲がる時、ポールが外れてしまい、車内に“グォーン”という大音響と衝撃が走って、小学生の私はびっくりしたことを覚えている。車掌はあわてることもなく、平然とポールを架線に戻して、再び京都駅に向かって行ったのだった。かすかな記憶は残るものの、もちろん写真は一切ない。そこで、先達が撮られた、とくに印象に残る、四条西洞院の写真を載せた。▲前回、クローバー会写真展「昭和の関西、鉄道のある風景」に、乙訓の長老が出品された四条西洞院、昭和33年前後の撮影と思われる。市電2両の位置も絶妙だが、実用自転車の二人、室町の営業マンの定番スタイルだろう。背後の家並み、看板にも眼がいく。大型の四条線市電と北野線の四輪単車が仲良く並んだのが四条西洞院だった。▲以前、一緒に写真展を行ったHさんの撮影。撮影日は昭和36年7月31日、そう、北野線の最終日だ。真夏の陽か落ちて、街の灯が灯る頃、別れを惜しむ市民が集まり、満員のN電に乗ろうとしている。
木造二階建ての商店が軒を連ねていた風景、懐かしく拝見しました。室町を過ぎるとビル街になり、渋滞で市電がノロノロ運転になったことを思い出します。
四条西洞院はN電時代の撮影名所で、多くの画像を見る機会があります。しかし、その後となると総本家様の写真が唯一といっても良いほどです。私自身も車中から撮ったものが2枚あるだけで、前後のコマから場所を推察するだけです。住友生命ビルからの俯瞰撮影は、街の様子がよくわかります。左端にわずかに見えるのは、池坊の門でしょうか?
四条線の廃止前、ビルの屋上に「太平住宅」の大きな看板が目立ってましたが、乙訓の長老様の写真を見て「ああ、なるほど」と思った次第です。ストリートビューの右側に写る茶色いビルは、「太平住宅」の看板があったビルのように見えます。探してみると、他にも半世紀前の建物が見つかりました。
ところで、私は500形に乗った記憶がほとんど無く、1600・1800形が浮かんできます。壬生の800・1000にも乗ってるはずですが、思い出せません。
とりとめもないことを書き並べ、失礼しました。
総本家青信号特派員様
久しぶりでコメントさせて頂きます。
四条西洞院は小生にも脳裏に焼き付いた思い出があります。
N電の終焉が迫り、暑い中を追い立てられる様に追っかけ回した記憶が蘇ります。
小生の撮った「ソックリ写真」と「チョット珍しい?凸凹写真」を見て下さい。
写真ー2を追送します。