市電が走った街 京都を歩く 四条線⑨

四条烏丸

途中で中断したり、寄り道ばかりで、連載ものが続きませんが、また京都市電に戻ります。前回「四条堺町」を発車し、四条通りを西へ向かい、烏丸通が見えてくると、もう次の停留場「四条烏丸」に到着です。この間300m、市電でもっとも短い区間に属しています。電停は、西行きが烏丸通の手前、東行きが烏丸通の向こうに設けられていました。四条烏丸と言えば、当時よく言われたのが「京都の金融街」の形容だ。事実、交差点の四隅は銀行の建物が占めていた。写真の南東角が三菱銀行、右回りに住友信託銀行、三和銀行、三井銀行、すべて都市銀行の京都支店が占めていたのは、その形容に恥じない交差点の風景だった。しかもそれぞれが特徴ある建築様式で、建築学的に見ても興味深いものだった。当時の写真を見ると、その続きの四条通、烏丸通にも、今では見られない金融機関の看板がずらりと続いていた。

「四条烏丸」から西を望む。その後、銀行は、金融再編の波に飲まれて、吸収合併を繰り返し、何度も行名が変わった。特徴あった建物も、すべて建て替えられた。写真の三和銀行も、商業施設の入る複合ビルになって、銀行は中に取り込まれてしまった。四条烏丸は、金融街に代わって、四条通の延長線上の繁華街として、新たなショッピング施設が誕生する一角となった。

 

 

 

 

大丸前を行く1号系統、市電の歴史で見ると、京都に市営電車(広軌路線)が開業したのが、明治45年で、四条線、烏丸線、千本線、丸太町線の一部であり、四条烏丸は最初の交差点となり、市営交通においても、京都の中心をなしていた。 

 

もうひとつ、四条烏丸で忘れられないのは、7月17日の祇園祭の山鉾巡行だろう。四条通に並ぶ長刀鉾、函谷鉾、月鉾をはじめ、山鉾が四条烏丸西に集結し巡行が始まる。もちろん四条線は運転休止となり、電停には、「祇園祭のため」の看板が出る。四条通の架線は片持ち式のため、高さ30mの鉾は難なく東行車線を通れるが、交差する烏丸線は、架線に阻まれて鉾は横断できない。

 

 

そこで当日の朝、烏丸線の架線を数十mにわたり切断して鉾を通す荒業を行なっていた。手前で加速を付けた電車は、惰力で切断区間を渡って行く。ビューゲルは、乗り込んだ係員が紐で支えていた。ところが急な横断があって制動が掛かったり、惰力が足りず切断区間で停車してしまうことがあった。その時に備えて、付近で待機していた関係者が市電を取り囲み、一斉に押し出すのだ。沖中忠順著「京都市電が走った街今昔」のコラムで、私は“鉾の代わりに、市電をエンヤラヤー”と書いたが、実は私はそのシーンを見たことはなかった。その後、四条烏丸で写された、まさに“市電をエンヤラヤー”の写真を、お知り合いから見せてもらったり、デジ青コメントにも目撃談が載せられた。写真を見ると、市電の周りに蟻がたかるように数十人が市電を押している。服装を見ると警察官が多かったようだ。

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