最近は新しい試みとして、デジ青の予約投稿機能を活用しています。書きたいときに書いて、見せたいときに見せられる、なかなか使い勝手の良い機能だと思っています。
私の駅名データベースは未完成です。世界遺産のサグラダ・ファミリアは2026年に完成予定とのことですが、データベースはいつまで経っても完成しないことでしょう。誕生する駅名がある一方、廃駅により消滅する駅名もあるからです。
廃駅名とはいえ、駅名として存在していた事実は消えることはありません。世の乗換検索アプリからは消えた廃駅名を、データベースには残していきたいと思い、最近は廃駅名も少しずつ打ち込み始めています。
さて、今回は江若鉄道です。よろしくお願いいたします。
江若鉄道の駅名の一部は京阪石山坂本線と湖西線に残っています。廃駅と現存駅間の距離を無視した上でまとめてみました。
浜大津(はまおおつ) びわ湖浜大津(京阪石山坂本線、京津線)
三井寺下(みいでらした) 三井寺(京阪石山坂本線)
競輪場前(けいりんじょうまえ)
滋賀(しが) 南滋賀(京阪石山坂本線) 滋賀里(京阪石山坂本線)距離はだいぶと離れているが駅名としては一部残る。
叡山(えいざん)
日吉(ひよし) 駅跡は現在の比叡山坂本(湖西線)とほぼ一致するとのこと。
雄琴温泉(おごとおんせん) おごと温泉(湖西線)
堅田(かたた) 堅田(湖西線)
真野(まの)
和邇(わに) 和邇(湖西線)
蓬莱(ほうらい) 蓬莱(湖西線) びわ湖バレイ(旧サンケイバレイ)のカーレータは乗り心地が悪かったのでしょうか。筆者は今も須磨浦山上遊園に残るカーレータに興味を抱いています。
近江木戸(おうみきど) 駅跡は志賀(湖西線)とほぼ一致。
青柳ヶ浜(あおやぎがはま)
比良(ひら) 比良(湖西線)
近江舞子南口(おうみまいこみなみぐち):江若鉄道で最も長い駅名です。
近江舞子(おうみまいこ) 近江舞子(湖西線)
北小松(きたこまつ) 北小松(湖西線)
白髭(しらひげ)
白髭浜(しらひげはま)
高島町(たかしまちょう) 近江高島(湖西線)
水尾(みずお)
安曇川(あどがわ) 安曇川(湖西線)
新旭(しんあさひ) 新旭(湖西線)
饗庭(あいば) :難読駅名です。「饗」自体の読みを知らなければ読めません。
北饗庭(きたあいば) :上記と同様。
近江今津(おうみいまづ) 近江今津(湖西線)
江若鉄道の懐かしい名前が出てきました。
江若の駅名は開通当時の名前と変わったものがいくつかあります。例えば近江舞子は当初雄松、高島町は大溝と呼ばれていました。三井寺下駅も開業当時は三井寺駅でした。ここで京阪石坂線(開業当時は大津電車)三井寺との関係で気になることがありました。江若鉄道は大正10年3月に三井寺-叡山間が開通し、三井寺駅ができました。大津電車の浜大津-三井寺が開通したのはその後の大正11年5月でこちらも同じ三井寺駅と命名されました。その後江若鉄道が新浜大津まで延長した時の認可申請にも駅名は三井寺となっています。その後いつの時期か江若の駅名は三井寺下と変わりました。江若の方が古く、また三井寺との距離も若干近いにもかかわらず、江若側が遠慮したのでしょうか?ところが昭和11年の観光地図には両社とも三井寺下という名前になっていました。単なる間違いなのか、駅名には気になることが多いですね。
大津の86様
コメントありがとうございます。駅名ミステリーですね。
今回参考にさせていただいた「江若鉄道の思い出 ありし日の沿線風景 大津市歴史博物館編 サンライズ出版 (2015年2月15日発行) 」には、「大正14年に『三井寺下』に改められた」との記述がありました。
奈良の駅名研究家様
江若鉄道が出てくるとは思っていませんでした。私が初めて鉄道に接したのは4歳11か月の時で江若鉄道に乗車した時でした。当時の今津町やマキノ町に親戚があり、その後、年に何回も乗車することになりましたが、江若鉄道は、市町村の合併により自治体名が変更されると比較的柔軟に駅名を変更していました。雄琴(雄琴温泉)、雄松(近江舞子)、大溝(高島町)、安曇(安曇川)、新儀(新旭)などですが、大人たちは旧駅名で話をすることが多く、子供にはどの駅の話か解りませんでしたが、いずれも歴史的に由緒ある駅名でした。
今でも思い出すのは、1959年(昭和34年)に今津町に住んでいた祖母が自衛隊の饗庭野演習場でボーイスカウトの第2回日本ジャンボリー開催され、皇太子(現、上皇陛下)がお見えになると楽しみにしていたことです。後で知ったのですが8月9日に宿泊された「琵琶湖ホテル」の最寄りの競輪場前(臨)-近江今津間に御乗用列車が運転されました。特別列車はDD1351の牽引で国鉄宮原客車区から借用した特急「はと」の予備車の青大将色のスハニ356+ナロ102+マイテ491の3両編成だったようです。翌年の1960年6月から「はと」は「つばめ」と統合され、車両も二等特別席車「パーラーカー」を連結した151系電車に置き換えられました。
残りの湖西線との駅所在地の対応ですが、ちょっと無理がありますが大津京は三井寺下と競輪場前(臨:廃線5年前の1964年に廃止)の間、唐崎は滋賀と叡山の間、小野は真野の山側となります。写真は1964.8.15の近江今津です。
快速つくばね様
毎度のご来店ありがとうございます。たまに廃駅名シリーズをやっていこうと思います。
快速つくばねさんの幼少期の思い出は、江若鉄道にあったのですね。
正直に申し上げて、古い鉄道には今まで興味を抱けなかったのですが、駅名を調べていくうちに由緒ある駅名が廃駅名に多いと分かり、「温故知新」の大切さに気付かされたのでした。
江若鉄道は、我々世代にとっては、思い入れが深く、「全学封鎖」「試験はレポート」を幸いに、足繫く撮影に通い、会社の方とも親しくなり、バス専業になってからも東京都民になるまでお付き合いさせて頂きました。
「雄琴温泉」の駅名板は「をごとおんせん」になっていました。
「近江」は、駅により「おうみ」と「おおみ」が混在していました。
東京都民になり、初めて小湊鉄道に乗った時、「上総」が「かずさ」と「かづさ」が混在しており、思わず江若鉄道を思い出しました。
駅名標の「おおみ」と「おうみ」の混在、よくありましたね。面白いのは、近江舞子は「おうみ」、近江舞子南口は「おおみ」と、同じ近江舞子でも表記が違っていました。
昭和44年10月31日(通常営業最終日)、北小松駅に到着した近江今津行です。
お別れ撮影会が行われ、浜大津からこの列車で北小松宿舎に向かいました。特派員さん手作りのヘッドマークがついています。
当日の夜、駅で勝手に開催した「お別れイベント」で大声を出し、宿泊されていた松本運転士からお叱りを受けたことも思い出の一コマです。
昭和44年10月12日、近江今津駅です。
駅舎は、昨年まで残っていましたが、惜しくも解体されてしまいました。
藤本哲男様
いつもご覧いただきましてありがとうございます。
駅舎の保存には多大な維持コストがかかるのは分かりますが、無くなるのはやはり寂しいものです。
以下、JR四国の駅舎のお話です。
https://news.yahoo.co.jp/articles/c979990b86d44c7223accc57488b0ca2992ec872
懐かしい! われわれ団塊世代には、忘れられない鉄道です。「江若鉄道の思い出」の本も、よく所蔵していただきました。表紙の下の写真は日吉駅の改札口で、最終日に写したものです。最終列車の見送りで近隣の古老が座り、嘱託駅員として最終日も改札口に立つ奥村四郎さんです。奥村さんは江若鉄道の最長老の職員として有名でした。
江若鉄道の時代は、コンピュータとは無縁の手書きの時代ですから、「おおみ」「おうみ」に限らず、駅名表記にも揺れがありました。
たとえば「和邇」は、異字体(簡体字、俗字)の「迩」が駅名標にも使われていました。ややこしいのは「蓬莱」で、いまの駅名標、時刻表の表記は、「人」が二つの「萊」になっています。両者は新字、旧字の関係に当たり、人名漢字として使えるのは、旧字の「萊」だけだそうです。駅名がなぜ旧字を採用したのかは不明です。
なお、本文の「南滋賀」「滋賀里」はこせいせんではなく、京阪石坂線です。.
総本家青信号特派員様
ご指摘ありがとうございました。修正いたしました。
江若鉄道を知ったのもクローバー会がきっかけです。知見が拡がる素晴らしいOB会だと思いますね。
江若鉄道の話題になるとキリがないのですが、昭和44年11月1日の最終日、北小松駅に進入する「さよなら運転」の列車です。
参加者全員この列車に乗り、日吉駅で下車しました。この後、特派員さんのコメントに繋がります。
当日は無料でしたが、列車毎に乗車整理券が発行され、それを持っている人のみが乗車できました。当日20名近くの参加者があったと思いますが、人数分の乗車整理券を入手するのに結構苦労した記憶があります。