▲日本最初の立体交差駅と言われ、昭和の香りを残した駅周辺も魅力的だった折尾駅、駅舎は大正5年竣工の二代目で、辰野金吾の設計との説もある(上)。2006年から始まった周辺の連続立体交差事業は、付近の地形を変えてしまうほどの大規模なものだったが、2022年3月改正で、全面高架化が完成し、営業を開始した(下)。Y字型の駅の中央にある駅舎は、旧駅舎を曳家して移築したのかと思っていたら、旧駅舎を忠実に再現した新築だった。
思い出探しの旅、行くことが叶わなかった九州の鉄道のなかで、連続立体化された折尾駅は、ぜひこの眼で確かめたいものでした。しつこく言いますが、高校二年生の九州旅行、鹿児島本線から降りて、折尾駅の複雑な通路を通って、筑豊本線ホームで若松行きの列車に乗り換えました。牽引機は初めて見るC55でした。動輪の間近に寄って見ると、なんとスポーク動輪を通じて、向こう側の景色がよく見えるではありませんか。これぞスポーク動輪、これぞC55だと大いに感激しました。試しにデジ青で折尾駅を検索すると、同じような内容ばかり書いていることが分かりました。さらに上塗りする記事となりますが、私の思い出の駅として、ご容赦ください。
▲折尾駅ホームは、筑豊本線が地上、鹿児島本線が高架にあり、十字に交差していた。明治24年、筑豊本線の前身である筑豊興業鉄道が開業、半年遅れで、鹿児島本線の前身である九州鉄道が開業した。当初は別のところに駅が設置されたが、明治28年に現在地に共同駅が設けられた。▲C55が走っていた時代の筑豊本線下りホーム、背後を横切っているのが高架の鹿児島線ホーム(昭和43年)。
▲3点とも筑豊本線上りホームでの対比。C55が貨物を牽く光景も見られたが、蒸機がなくなり、旅客は40系DCに。そして折尾以南が電化、電車が出入りするようになる。
▲こちらは、鹿児島本線ホームの対比。以前は二面三線の構造だったが、短絡線(黒崎~中間)を含む三面五線、それに少し離れて若松方面への一面二線の巨大な駅となった。
▲昭和と言うより、終戦後のような雰囲気を持っていた駅前広場も、きれいに整備された。▲鹿児島本線下り電車から見た折尾駅。付近には大学、高校が多く、北九州の学園地区として、JR九州第5位の乗降数となり、狭いホームは混雑していた。(以下、2010年11月)
▲2010年11月、最期の折尾駅を撮るべく訪れた。駅前左手には西鉄軌道線の折尾駅が発着し、西鉄バス、市営バスも発着していた。
▲筑豊本線下り方の駅本屋(左)、改札を出ると複雑な通路があり、開業当時の雰囲気をよく残していた(右上)。
▲鹿児島本線上り方へは煉瓦のアーチをくぐって(左)、迷路のような通路が続き(右上)、各所に案内図が設置されていた。
▲新駅は、従来の鹿児島本線ホームの北側に平行して造られた。大変だったのは、筑豊本線との統合で、若松方面はY字型に離れた箇所に設けられ、直方方面からは、西へ迂回してトンネルを掘り、トンネル内で、黒崎~中間の“短絡線”(複線)と、若松方面(単線)を分岐した。▲▲若松方面行きホームは、鹿児島本線ホームから分かれた位置に設けられた。発着するのは“DENCHA”。
▲コンコースには旧筑豊本線のレールと煉瓦積みが保存され、ガラスで覆われて見学できる。▲▲「日本最初の立体交差」の説明板も。
▲コンコースでは東筑軒の「かしわ弁当」の立ち売りが。▲▲一角には“駅ピアノ”も。
折尾駅が新しくなったとは知っておりましたが、あまりの変わりように簡単には全容がつかめませんでした。総本家様の説明を拝見し、ストリートビューで確認してようやく理解した次第です。
新しくきれいになりましたが、乗り換えは難しそうですね。迷ってしまいそうです。
さて、私も2000年の正月に「思い出探しの旅」で折尾へ行っています。蒸機がいたころと変わらぬ駅舎のたたずまい、ホームの様子などをカメラに収めております。筑豊本線下りホームに立つと、懐かしい駅名がありました。
紫の1863さま
懐かしい写真、ありがとうございます。下り筑豊本線ホームですね。「直方」「新飯塚」の駅名を見ると、いよいよ筑豊へ足を踏み入れるのだ、と言う感慨がありました。「飯塚」ではなく、乗降の多い「新飯塚」を方面表示にしているのですね。
現地へ行くと、各ホームが1階のコンコースで結ばれていて、たいへん渡りやすい駅構造ですが、駅の改良過程はその分複雑で、短い文章ではうまく説明ができませんね。
画像の添付を忘れました。
60年前の1963年3月27日折尾駅鹿児島本線上りのC59です。臨時か回送かわかりませんが電化した本線をC59がやって来たので夢中で撮りました。このC59109[鳥栖]は翌日下り[天草]を牽引していましたが、この年の11月5日付で廃車になっております。C59撮影後は下にある筑豊線ホームから出発する若松行き8620牽引の418列車やキハ55の2連の快速を見送り、完璧なC51281[若松]が牽引する723列車のスハフ32108に乗り込みました。好きな機関車ばかりに気を取られフィルム代のこともあり、他の車両や駅を取り巻く風景の写真は全くありません。折尾-若松間は未だに乗ったことがありません。こんなことは真似しないよう!と言いたいところですが、デジカメの無い貧乏学生の時代でした。
準特急さま
60年前の折尾駅には、まだC59や、完璧のC51が走っていたのですか。私にとっては、夢のような時代です。この場所、思い出しました。上りホームの東端で、端がスロープになっていて、例の複雑な階段と繋がっていたと思います。周囲の光景もこのようなものだったのですね。私も高校生の頃は、車両だけを写すのに必死で、周囲の環境、人物や建物には、全く関心がありませんでした。
ちょうど半世紀前の1973年に北九州市に大分県から戻ってきて、中2で鉄道写真撮影の遠出を初めて行った先が筑豊でした。同級生に引率してもらい。その時に折尾駅で東筑軒のかしわ飯の駅弁を買ったり、何から何まで初体験。折尾駅は明治時代の香りのする古い構造の乗り換え駅の印象が残っています。
今回皆さんより一週早く北九州に来訪して、直方を訪ねるに小倉から直通に乗らず、折尾で乗り換えて、駅の構造が一変したことに驚きました。
高架のホームから見えた旧の駅の遺構をまず貼っておきます。
半世紀前の撮影行デビューの記事は2年前に投稿しています。
https://drfc-ob.com/wp/archives/125659
それにしても折尾駅も変わりました。折尾の変貌には福岡市に一番近い北九州市内の駅として、今後はベッドタウン化する可能性が高く、黒崎や八幡を置いてJR九州が意欲的に駅を近代化して周囲の住宅事情を博多ライクに持って行こうとする意図が見えるような気がします。
K.H.生さま
遅れましたが、ひと足早く北九州を回られて、ホームから撮られた折尾駅舎や堀川運河沿いの飲食店の写真を、個人的に見せていただいていました。これを見て、ぜひ下車しなければと思い、当日、下車して回った次第です。
いま折尾駅に降りると、とにかく高校生が多いのに驚きました。高校、大学の多い学園駅でもあるのですが、福岡圏からいちばん近い北九州市の駅として、住宅地としても人気なのでしょうか。北九州市、福岡市、両市の立ち位置かよく分かる一例ですね。
立体交差時代の折尾駅で、思い出したことがひとつあります。
それはこの駅のスタンプで、絵のほかに面白い詩が書かれており、それが印象に残ったからでした。
絵は高架上の鹿児島本線を485系?特急が、下の筑豊本線をD51?牽引の客車列車が描かれており、ここまでならどうということもありませんが、その脇に「上もゆくゆく下も行く 一度おいでよ折尾駅」「なんぼ別れがつらいとも 別れりゃならない上と下」の文字が添えられており、思わず苦笑したものでした。「DISCOVER→JAPAN」のキャンペーンロゴが入っていますが、キャンペーン以前からロゴのない同図案のスタンプがあったのかもしれません。
日付が入ってないのが残念ですが、山陽新幹線の全通後の春休みに北九州各線を乗り歩きしていた際、折尾に立ち寄った記憶がありますので、1975(昭和50)年の3月下旬のことです。
まほろばの鉄趣味住人さま
折尾駅のスタンプ、ありがとうございます。私もたしか押していたはずと、探してみました。鉄趣味住人さんが紹介された、DISCOVER JAPAN時代のものもありましたが、もう一点、こんなものもありました。なんと、上の鹿児島本線も“非電化”で、上下とも蒸機が交差しています。押したのは、昭和42年と思いますが、まだ蒸機時代のスタンプがおかれていたのですね。