予算本線の下り列車が宇多津を出て間もなくすると左前方の小高い山の頂にそびえる丸亀城のが見えてくる。ここで城シリーズの間が空いたので年をとっても頭脳聡明な諸兄には失礼であるがおさらいをさせていただく。快速つくばねさんからも詳細なご説明があったとおりが日本の残存天守は20あり、そのうち四国には4カ所ある。高知、松山、宇和島そして今回の丸亀である。
丸亀城は生駒、山崎、京極氏と三氏にわたって築かれ自然の山をうまく利用した城である。豊臣系の生駒氏はお家騒動で出羽矢島に転封され、山崎家治が寛永18(1641)年に入封し、この頃に現在の丸亀城は完成したと言われる。山崎氏も不運な城主で三代で絶家となり以降近江佐々木源氏の末裔京極氏の時代となり明治まで続いた。
版籍奉還後は多くの櫓などが取り壊されたが、旧藩士の必死の嘆願により天守や御門などは破却をまぬがれて、現在は重要文化財に指定されている。
三層の天守は、小藩であったため遠慮したのか、旧藩時代には櫓と称していて目の前に見る天守は小さい。しかしここから見る眼下の街や瀬戸内海は見事である。以下撮影は1998.5.3 ▼
丸亀城大手多聞渡り櫓 ▼
丸亀城大手多聞渡り櫓大入母屋から天守を望む ▼
お堀端から見た天守。下から見上げる天守の方が威風堂々とした感じである。この辺りの石垣は野面積みである。 ▼
朝、松山で伊予鉄を撮った後、伊予西条、新居浜、伊予三島、川之江-箕浦、観音寺で降りたり、乗ったりし、16時過ぎに丸亀の手前多度津で撮ったのが、この2枚。最初は側線に留置中のキハ542。普通列車に使われていたのだろう。▼
多度津駅と思われるが、1998年3月の時刻表には「いしづち」は高松-松山間で岡山-松山間の「しおかぜ」と連結される列車が多い。夜の松山-新居浜間「いしづち24号」が気動車として残っているくらいである。どうしてこの時期に気動車特急の「いしずち」が多度津にいたのか不思議である。キハ185-25 ▼
準特急様、
鉄道をお城と絡めて撮影というのがご主旨だったと思いますが、残念ながらご主旨どおりの写真は、以前にコメントさせていただいた伊賀上野城しかありませんでした。ご主旨に反し、お叱りを受けることも覚悟のうえで鉄道写真を撮影後、「回れ右!」をしたときの丸亀城を貼付いたします(1985年1月3日撮影)。左側の写真は旧宇多津駅に向かう126レで、塩田跡の工事中の高架橋の奥が現在の宇多津駅となります。
また気動車の「いしづち」ですが、多客期は「しおかぜ」の基本、附属編成ともに岡山発着の「しおかぜ」となりますので、高松~多度津間(上り多度津~宇多津間は回送)に「しおかぜリレー」的な特急「いしづち」が運転されます。今春の運転状況ですが、
https://www.jr-shikoku.co.jp/03_news/press/2023%2002%2017%2003.pdf
のP4~8をご参照ください。
四方誠様
お城もその街のシンボル的な存在で探せば遠方からも含めて列車を入れることはできると思いますが、高松や福山、そして最近の熊本などのようにはいかないですね。そんな中で宇多津に向う126列車の「回れ右!」の俯瞰撮影はよろしいですね。丸亀城は遠くで見ると名城です。昔、高校の臨海学校で関西汽船で高松に渡り、DF50の列車に乗った後に丸亀あたりから舟に乗り塩田を見たような記憶があります。この時は岡山から神戸まで汽車に乗り、岡山駅でC59を撮っています。いしづち号については内容がよく理解できました。ありがとうございます。
準特急様、
77-タツ様のコメントから、現状では不可能なことなのかと思い、ストリートビューで近辺を探してみましたが、線路が高架、かつ防音壁と障害が多すぎ、ほぼ不可能ですね。丸亀駅北側のビルにでも上がれば可能そうですが、昨今では建造物侵入で刑法犯扱いされそうです。
その際1枚だけ、土器川のガーダーの下に覗く丸亀城の写真を見つけました。小さく、しかも天守の上がガーダーに被り、とても見ていただけるような代物でもありませんが、ご笑覧ください。
1981年2月27日の126レで、牽引機はDF50 19号です。本機はこのあと127レを牽引、3月1日高松到着の176レで運用離脱、3月10日付で用途廃止となりました。
四方誠様
お見事!よく撮れましたね。御礼にDF50の19号を過去に撮っていないか探しましたが、撮っていませんでした。16、17、18号はあるのですが、でも有難うございました。
四方誠様
1970年代前半は、予讃線で汽車通学をしていました。ただ周辺で撮影したことは無いため、写っている車両後方の風景しか記憶にありませんが、もし記録をしていたらこんな感じだったのかと思いながら、懐かしく写真をみせていただきました。どうもありがとうございました。
77-タツ様、
コメント、ありがとうございます。
地元四国情報、期待しております。
準特急様
このシリーズで、地元の丸亀城の発表がある前に、どこかで鉄道と絡めて撮影できないかと撮影場所を探しているうちに、丸亀城が登場してしまい、残念ながら、写真は発表できません。
多度津駅のキハ185系「いしづち」については、四方様のコメントのとおりかと思います。直近では、昨年のシルバーウィークに185系
「いしづち」が登場しましたので、その時の記録を貼り付けさせていただきます。
2023・9・23 坂出駅
失礼しました。
2022年です。
77-タツ様
四国のスターは電車特急の「しおかぜ」と気動車特急「南風」ということがわかりました。残存天守はあと三つです。他にテーマもありますのでゆっくりやっていきます。丸亀の翌日、すなわち1998.5.4に香西-鬼無間で撮った失敗作ですが特急「瀬戸」高松行きです。城とは関係ありません。
準特急様、
13両フル編成の「瀬戸」、いいですね。瀬戸大橋開業から暫くは、JR四国に電気機関士がいなかったものですからJR貨物さんに委託していました。逆に島内の貨物列車はJR貨物から委託されたJR四国のDE10と乗務員で運行していましたが、電化が完成しEF65となった機会にJR四国にも電気機関士が誕生することとなり、「瀬戸」のJR貨物への委託も終了したようです。
また島内貨物列車の委託の解消も徐々に進み、昨年完全に解消したようです。
長々と書きましたが、来年運転される「THE ROYAL EXPRESS」のJR西日本とJR四国の関わり方が、EF210で全区間牽引するのであれば線路を貸しただけのような形となるので、もしかすると多度津・琴平以東はJR西日本のEF65で、乗務員もJR西日本とJR四国の乗務員が担当することになるのでは、と密かに思っています。(これなら、JR貨物の入線実績のない多度津~琴平もクリアとなるので)
貼付は、「瀬戸」のお写真とほぼ同じ場所のDF50牽引の120レです。(1981年9月13日撮影)
四方誠様
これの方が堂々としていいですね。
準特急様、
お褒めに預かり、恐縮です。
本人的にも悪くはないとは思っているのですが、構図がオーソドックス過ぎるのが難点でしょうか。
四方誠様
「鉄道写真というものは本人がいいと思うものがいい」とは鉄道写真界第一人者と言われている広田尚敬さんが大井川鉄道撮影時のテレビの中で言われた言葉で、多くの先生と言われる方からも同じことを聞いたことがあります。私もそう思います。私は人間が極めて凡人でしてオーソドックスな写真が好きです。毎回同じことばかり言っていますが、単線、片ポール、順光が好きです。有名撮影地はしゃーないから行くことはありますが、誰が撮っても同じで感動は呼びません。矛盾しているようですが、そんな気持ちです。四方さんのDF50列車は順光で客車が9両とはいいじゃないですか。それに電化前なのでうるさい架線もなくすっきりしています。右手の柱がうるさいのがちょっと気になりますが、シャッターもグッドタイミングと思います。最初に見た時に私のEF65よりもずっといいと思いました。またどこかで傑作(DRFC用語ではこんなんあるで!)を見せてください。失礼しました。
準特急様
キハ185-25についてネットで調べてみると、キロ185-1868に改造されて、「志国土佐 時代の夜明けのものがたり」の2号車になっていました。2021.5.3 土讃線 岡花駅付近にて撮影
よく教えていただき有難うございます。ということはまだ現役ですね。もう少し、情報を得るようにピクを読むとかスマホをいじくるとか日頃の姿勢に努力したいところですが、何せ、活動しているだけでも大したもんだと自分を励ましているところです。投稿だけは続けようと思っておりますが、そのうちにボロが出ますがその時はご勘弁願います。
準特急様
ローカルネタしかなくて申し訳ありません。
このシリーズだけでなく、単発ものや、様々なコメント、貴重な写真の披露など、いつも楽しませていただいております。益々の投稿を期待してお待ちしております。
準特急様
丸亀城と直接関係がありませんが、昔から国鉄時代の予讃本線の基幹駅「坂出」と「丸亀」に挟まれた小駅「宇多津」に関心を持っていました。所在地も両市に吸収されずに綾歌郡宇多津町として孤高を保っており、宇高連絡船の最終便に接続し、昭和40年ごろの両線の始発となるDF50の牽く予讃線121列車や土讃線221列車も通過していました。
この駅が本四備讃線(瀬戸大橋線)の開通により大きく変貌を遂げました。現在では一部を除く特急列車が停車し、高松方面と岡山方面への列車の分割・併合が行われています。過去四国では「多度津」での松山方面と高知方面の分割・併合が一般的でしたが、隔世の感があります。最近話題に上がっている四国新幹線用のホームの用地も駅北側に確保されており、駅名が「宇多津」で頑張れるのか、「坂出・丸亀」となってしまうのか将来のことは分かりません。いずれにしても「宇多津」も徳島県の美馬市脇町のように「卯建(うだつ)」をあげました。
2010.8.9「宇多津」での「しまんと6号」と「南風20号」の分割です。
快速つくばね様、
宇多津駅は、仰るとおり瀬戸大橋開業で駅は立派になりました。それまでは、相対式2面2線(1番が本屋側で本線、2番が副本線、いずれも上下の区別なし)で、跨線橋も地下道もなく2番のりばへは構内通路でした。
宇多津駅で思い出すのは、1983年9月25日運転の上り「さよならDF50土佐路号」(9208レ)でしょうか。対向となる153Dを着発線変更すれば済むところ、乗降客の安全に配慮してか所定(1番線)のまま、9208レを2番とし意味もなく30秒停車としていました(当時副本線は通過させられない)。
1980年頃では221レは停車扱いでしたが、快速列車で通過する列車は他にも何列車かありました。
また官舎が近くにあったのか、高松運輸長と高知運輸長の各管内の人事交流のような駅(高知運輸長管内は18きっぷポスターの西佐川駅)でもありました。
宇多津駅について思いつくままの乱筆乱文にて失礼いたしました。
四方誠様
コメントへの返信ありがとうございます。
大阪からの均一周遊券の学割が2020円と最も安く、仁堀航路を使うと呉線の撮影も可能なので学生時代、四国が好きでよく旅行していました。
初めて四国に渡ったのは、準特急様は高校の臨海学校だったとのことですが、私は1年生になってから友人と土讃本線の「豊永」から梶が森に登った時でした。大阪20:50発の鷲羽号のアルバイト運用の153系の普通電車で「宇野」まで乗車し、「高松」からは123列車に乗車しました。宇高連絡船から乗り換えた「高松」は暗かったのですが、発車して直ぐに見えた高松客貨車区(高松運転所)の構内の明るさにびっくりしました。徳島県に入ると夜が明け、「箸蔵」を過ぎ四国山地を下りながら『吉野川橋梁』を渡り「佃」へ大きくUカーブする線形に目を奪われました。この雄大な光景を間近で見たくなり帰路「佃」で途中下車をして、河原で暫く寝そべっていました。駅に戻ると「佃」の駅長さんから今晩泊っても良いよとお誘いを受けたのも良き思い出です。
1965.7.15高松行128列車です。
快速つくばね様、
吉野川橋梁のお写真を見せていただき、ありがとうございます。右岸からの写真は初めてみました。
豊永駅や佃駅は、私もいくつか想い出があります。四国の職員さんは、皆さん親切に接していただきました。
写真は、上側は豊永駅3番線停車中の224レ(1980年3月7日撮影)、下側は佃駅で見せていただいた「四鉄家庭だより」(職員の家庭向け広報誌)に掲載されたDF50の引退に関する記事です(1983年3月4日撮影)。
四方誠様
懐かしい写真と貴重な資料有難うございます。同じ1965.7.15ですが「豊永」で下り準急「南風」が通過する写真を撮っていました。3番線には下り普通列車が退避しています。この頃のダイヤでは昼間しばらくの間上り貨物列車が3番線に停車していました、牽引機はDF911の限定運用でした。
四方誠様
続いて1967.12.28の高知機関区のDF911です。この機関車は試作機関車として1955年に神戸の川崎車輌兵庫工場でDF401として製造され、のちにDF911に改番されています。土讃本線での運用実績からDF50形500番台が誕生しました。準特急様、申し訳ありません。丸亀から高知まで乗り越してしまいました。
快速つくばね様
矢立峠のC61に続いて今回のコメント有難うございます。大変驚きました。綾歌郡と聞きまして私の学生時代の友人を思い出したのです。彼は同じゼミで台湾にも一緒に行っておりますが、綾歌郡綾上町に昔から住んでおり高松琴平電鉄琴平線の羽床の近くです。毎年年賀状のやり取りをしていますので綾歌郡は知っておりましたが、宇多津も綾歌郡(宇多津町)だったのですね。丸亀市と坂出市が綾歌郡を引き裂いた形に見え市町村の編入でもあったのでしょうがどちらかが飛び地に見えます。今度友人に聞いてみようと思いますが今は残念なことに病の床にあります。多度津の存在が大きかったからかもしれませんが本四分岐駅は宇多津ということを恥ずかしながら始めて知りました。添付のお写真でもよくわかりました。
準特急様
以前予讃線乗車中に、丸亀駅で一瞬お城が見えた覚えがありましたので、梅雨晴れの昨日、夕方に丸亀駅に行ってみました。
ホームでビルの谷間からワンチャンスお城が見える所がありましたので、写してきました。
夕方から高松〜多度津間単独運転(多度津駅で「しおかぜ」と併結運転)となる入線中の「いしづち21号」と丸亀城です。
とりあえず日本一小さい天守と一緒に写しただけの写真ですが、ご笑覧ください。
2023・7・6 予讃線 丸亀駅
77-タツ様
暑い中をよく撮りに行かれ「いしづち」号を待って入れていただきました。名城の一角が見えますが、普通の人が見たらわからないかもしれませんね。これだけの努力は今後のお城撮影におおいに参考にさせていただきます。有難うございました。
準特急様
あたたかいおほめのコメントどうもありがとうございます。これからもくじけずに、くらいついていく様に努めたいと思います。
どうもありがとうございます。
あの山科の人間国宝さんも、昔から四国ファンで、昭和30年から撮影に行かれています。このたび、ある鉄道誌に写真を寄稿されて、9月に発売されます。ネタバレになりますので、多くは語れませんが、人間国宝さんならではの貴重な写真ばかりです。
総本家青信号特派員様
1年ほど前に発表いただいた「これが65年前 昭和30年の多度津・琴平」でお披露目いただいた写真がとても興味深く、撮影地はどこだろうかと探しているうちに、1年経過してしまいました。
最近は、目が悪くなり、本を読む機会が減り、また父母の遺品整理の際も難儀しましたので、書物は増やさないように、ほとんど購入もしなくなっていましたが、少し気をつけて見張っておくようにします。楽しみな情報、どうもありがとうございました。
快速つくばね様、
豊永駅のお写真を見せていただき、ありがとうございます。
CTC化前の通票閉塞時代、貨物営業もあり、さぞかし賑わっていたのではないでしょうか。私の知っている頃は、出ヅラ1名の駅で、事務室も広く感じられたものでした。山腹崩壊の被害のあった繁藤駅は、被災当時既に無人駅でしたから、それを考えれば、まだよかったのかもしれませんが。
準急右側のヤネ2Bが留置されている線路は、貨物の積み下ろし線の先端部だったのでしょうが、材料線のようになっていました。1983年3月14日夕方、大歩危~土佐岩原間で土砂崩れがあり、282レが豊永駅で運転打ち切りとなり、列車ごと当材料線に留置されていた写真を友人に見せてもらったことがあります。知らない人が見ればただの駅撮り写真なのですが、私には衝撃的でした。282レは翌朝280レとして多度津へ向かいました(従って、高知~豊永間の280レはウヤ)。
貼付写真は、豊永駅北側の豊永大橋から撮影したDF50 59号牽引の281レ(1983年2月21日)です。ストリートビューで確認しますと、木々の繁茂が激しく、線路があるかどうかさえわからない状況です。
四方誠様
前回記述を忘れましたが、「四国の職員さんは、皆さん親切に接していただきました」は、私も同感で根底に『お接待の』文化が息づいているからだと思います。
きりがありませんが青春時代にお世話になった「豊永」が懐かしく、2010.8.7に高知旅行の時に「南風11号」の車内から前面を撮影しました。「豊永」南側で左側の橋が駅前道路から国道32号に出る道です。運転士が「豊永」通過時刻の確認をしていますが、JR四国の車両は他社ほど派手さがないですが、前面の展望がよく「乗り鉄」フアンとしては1番の会社です。
快速つくばね様、
2000系の前面展望、私も一度あります。この先のカーブをこの速度で突っ込むの?なんて考えたら、恐怖以外の何物でもなかったです。カーブだけでなく坪尻駅の通過なども、片分岐の直線に変更されたとは聞いていても、実際に見るまではシーサースクロスの制限35km/hの記憶が書き換えられない石頭ですので、恐怖でした。
現在では高松駅の予讃下り線と高徳線は分離されているので問題ないのですが、分離されていない時代がこびりついているので、2列車同時に発車されると「エッ!」となります。貼付写真は、このとき確認した4番線の入信です(2022年2月27日)。3番線から高徳線3023Dが発車し、4番線から入換車両がほぼ同時に発車していきました。入換車両は何事もなかったように発車していきましたので故障ではないようです。入信3灯点灯の意味をご存知でしたら、ご教示願います。
四方誠様
私も入換信号機が3灯点灯しているのを初めて見せていただきました。信号関係は疎い方ですので理由はよく分かりません。「入換信号機識別標識」が点灯しているので「入換標識」でなく「入換信号機」として現示しているのですね。4番線の予讃線の車両はこの「入換信号機」の現示を確認し、3番線の高徳線の列車は別の「出発信号機」の現示を見て発車したのですね。
国鉄時代の「運転取扱基準規程」第4章「鉄道信号」第2節「常置信号機」の一部です。
快速つくばね様、
DF91 1号のお写真もありがとうございます。私は、残念ながらDF91には間に合いませんでした。
この機関車があったからこそ、DF50はF級初のB-B-Bとなりました。1号機の投入の2ヶ月後に、ゆれまくらリンクの長さ(短、長2種)と上下揺れマクラの連結リンク有無2種の組み合わせの計4ケースで、小歩危~大歩危間において輪軸負荷の測定を行っています。この結果は、「日本機械学会論文集(第1部)25巻151号(昭34-3)」に掲載されていますが、結果は想定どおりではなかったとみえ、「値としては大差なく、あまり有意義な差であるとは言い難い。」と片付け、最悪だったケースCが8号機以降で採用されました。恐らくDT21やDT22なども、この方向で設計されたものと思われます。1号機の竣工が約2ヶ月遅れ、試験日程もズレたため、おざなりにされたような印象です。
ちなみに、ケースA:ゆれまくらリンクの長さ短(470mm)、連結リンク有
ケースB:ゆれまくらリンクの長さ短(470mm)、連結リンク無
ケースC:ゆれまくらリンクの長さ長(600mm)、連結リンク有
ケースD:ゆれまくらリンクの長さ長(600mm)、連結リンク無
です。この結果のグラフを貼付しておきます。
快速つくばね様、
運転取扱基準規程を見せていただき、ありがとうございます。疑問に思いつつも答えが見いだせていない、個人的な疑問を一つ思い出しました。
それは遠方信号機なのですが、土讃線高知以西では通票閉塞時代、遠方信号機はお見せいただいた4位の色燈式でしたが、それ以外の場内、出発、通過の信号機は腕木式でした。遠方信号機には減速信号も現示されていましたが、その現示条件が不明のまま現在に至っています。同規程の第314~316条あたりを確認しても場内信号機は3位以上の色燈式が前提のようで埒が明きません。場内が腕木式の場合の遠方は、本来「進行」か「注意」のいずれかですが、出発も絡めて「場内=進行」かつ「出発=停止」の場合に、遠方に「減速」を現示していたのではないかと考えています。場内併設の「通過=注意」と併せ、「出発=停止」を2度も知らせるようなクドイことになるのですが。もし、何かご存知でしたら、ご教示ください。
四方誠様
通過信号機は出発信号機を中継していますが、従属信号機なので防護区間はありません。「遠方=減速」(従属信号機)、「場内=進行」(主信号機)、「通過=注意」場内併設(従属信号機)、「出発=停止」(主信号機)となった場合ですが、制限速度が「遠方」(65または75km/h)、「通過」(45または55km/h)「出発」(進入禁止)となるようです。この場合、主信号機は防護区間への進入の可否、従属信号機は制限速度を現示しています。
忘れていましたが土讃線(当時は土讃本線)の多度津-高知間は、1967年に新幹線に次いで日本で初めて在来線でCTC化された線区でしたね。この時「阿波池田」に電子CTCセンターが設けられ、この建物は現在でも使用されているようです。1986年には「高知」にセンターが設けられ高知-窪川間もCTC化されましたが、単線自動閉塞式と特殊自動閉塞式(電子符号照査式)と制御方式に差があるようですが、素人には高知までは閉塞信号のある3現示の信号機、高知からは2現示の信号機位の見た目の違いしか分かりません。
快速つくばね様、
解説、ありがとうございます。私も色々調べてみたのですが、色燈式の遠方と腕木式の場内の組み合わせについて書かれているものは見つけられませんでした。もしかすると、単線自動閉塞の遠方信号機の減速現示とごっちゃにしているのではないかと、少し不安になってきました。
電子閉塞、キハ32,54,185等と同様JR化への手切金みたいなものでしたが、現在では単線自動閉塞(特殊)に切り替えられています。ホストはわかりませんが、端末はV30を搭載したNEC製のPC-9801(UV?、3.5″FDDを2基搭載したタイプ)でした。こんなので、出ヅラ1名/日で計3名×駅数の人数分の仕事ができるのか?と思ったものです。また、基本的には出発要求の早いもの勝ちなので、ダイヤ乱れの時にどうなるのか不安でした。現在でも使っているところがあるやに聞いていますが、WINDOWS系(IBM PC-AT互換機)のパソコンではソフトウェアの書き換えが必須なので、どうなっているのか見に行ってみるのも一考かな、と思っています。
また高知~窪川間の運転番線は、電子閉塞化の際に、上り方に向かって右から1番線、2番線、3番線・・・、と統一されました。気がついたのが4~5年前だったでしょうか、未だしっくりときません。
ロンブー田村淳さんが「丸亀城名誉大使」に任命され、7/11に委嘱式があったそうで、タイムリーかと思い、地元ローカル紙の記事を貼り付けさせていただきます。