旅の終わりは周防大島です。なぜ周防大島を訪れたかというと 私が敬愛する民俗学者 宮本常一氏の生まれ故郷であり、氏が全国各地で撮り集めた約9万枚の写真が 周防大島文化交流センターでデータベース化され その他の文献、資料類とともに集約、保管されているからです。宮本常一氏のフィールドワークについては 最近多くの写真集や、全集が発行されていますので ここでは触れないことにします。さて 周防大島と言えば宮島や仁方・堀江航路と並んで大畠・小松間に大島航路という国鉄連絡船で結ばれていた島です。昭和51年に大島大橋が開通し、同年にこの航路は廃止されています。宮島は一大観光地として連絡船があるのは納得できるのですが、特別な観光地もない大島になぜ国鉄連絡船が就航していたのか ずっと不思議に思っていました。それもあって一度は大畠に降り立って 大島に行こうと考えていました。
大畠駅から大島大橋を望む
大畠駅はすぐ海に面していて、大畠瀬戸の渦巻く急流に抗して進む船を間近に望むことができます。かつての連絡船乗り場がどこにあったのか形跡がなく 聞いてみると 今は商工会館になっているあたりが桟橋だったとのこと。昭和36年の時刻表を見ると、大畠駅には赤帽さんもいたようです。さて桟橋のことはそれ以上詮索するのはやめて バスで島に向かうことにしました。通称 周防大島、正式には屋代島は淡路島、小豆島についで瀬戸内海では3番目に広い島で島内の足は防長バスが担っています。今は防長バスですが、かつては国鉄バスが走っていました。なぜ国鉄バスが走るようになったか その経緯については調べていませんが、全国でただひとつ国鉄バスが走る島だったそうです。連絡船もかつては県営だったようですが、島の国鉄バスとの連絡運輸ということで、連絡船も県営から国鉄連絡船になったようです。このあたりのことは どなたか薀蓄をご披露頂ければありがたい。国鉄バスが走っていたことを裏付けるように 主要なバス停には今も○○駅という立派な建物があります。道の駅ならぬ バスの駅です。そう言えば 京都市北部の周山などでも国鉄バスの駅があったような・・・・。
かつては島の浦々は発動機船(ポンポン船)で結ばれていて、「瀬戸の花嫁」の世界でしたが、今は道路も整備されバスが足になっています。とは言え 本数は少なく、路線も経路が複雑だし、休校日ダイヤなど細かく設定されているので よく調べて行かないと足止めをくらうことになります。そんなバスを利用し、一部区間は歩いて島の風情を楽しみました。目的の文化交流センターの隣には やはり大島出身の作詞家 星野哲郎氏を記念する星野哲郎記念館が開館していて ここを訪ねるのも楽しみだったので 目的をかなえて 満足して島をあとにしました。
昔お世話になった均一周遊券に代わって 青春18きっぷを初めて利用して短い旅をしてきましたが、これに味をしめて また次のコースを計画しようと思っています。
コメントにもなりませんが、
1962年の8月に海岸線で写真を撮った帰りの大畠駅近くで、飾り窓にC62やD52の牽く列車写真を並べた写真館に遭遇しました。そのときは大畠駅待合室に大島連絡線時刻表も掲げられていて便数の多いのにびっくり、今回グーグルで見ても可成り大きな島でしかも近いことが初めて判りました。脇目もふらず線路だけを目的に歩き回ったガキ時代の思い出です。
村樫様
コメントありがとうございます。1962年当時の時刻表を見てみますと、大畠あたりでは 九州各地とを結ぶ急行阿蘇、雲仙、高千穂、天草・日向、桜島、霧島などは上り、下りとも深夜に通過し、早朝の下り特急さくらに始まりあさかぜ、はやぶさが南下してゆくのが撮れたのではないでしょうか。昼間の優等列車は意外と少なく 特急かもめと急行筑紫ぐらい? いずれにせよ客貨とも大型蒸機の独壇場の周防路だったのでしょう。ちなみに宮島航路は30円、大島航路が40円、関門航路が50円の時代です。
西村さん、岩日線の近況ありがとう。1982年3月、伯父の死の連絡を受け田舎へ行きました。従兄に連絡して錦町の駅に迎えに来てもらいました。錦町は省営バスの時代は「広瀬」と言っていました。木炭バス時代、と言ってもこの時代に乗っていたのですが、木炭詰め直しガスの再発生をした駅ですから長時間停車をしました。バスは京都では見られないロングボデイで、「千代田」とか「五十鈴」と言っていた国産車だったと思います。出合橋からしばらく川沿いですが、現在のトンネルの地の手前から峠道です。一度エンストとなり、大人は下車して押してあがるのに遭遇しました。西岩国の駅舎、素晴らしいですね。3年前、錦帯橋に行った時、同行者全員の記念写真のバックに使いました。伯父は岩日線が六日市に伸びる日が待ち遠しいと言っていましたが、実現しませんでした。国道にトンネルが出来、国鉄バスがなくなり、広島のバスセンターから石見交通となり便利になりましたが、中国道完成でバスの経路は変わったようですね。父の田舎は今も奈良交通バスですが、六日市の方は、4年前の叔母の葬式では従兄妹と広島駅で待ち合わせ、自家用車で直通と、錦川渓流線とは無縁になってしまいました。