お城と電車(25)彦根城

徳川家康の命により、関ケ原で戦功のあった上州高崎の井伊直政が近江に封ぜられ慶長8(1603)年頃に築城に着手し元和8(1622)年に全体の完成がなされた。彦根城はその普請に際して近縁の諸城から門や櫓など多くの建物を移建したとも伝えられ、石垣も運ばれたという。大津城、安土城、長浜城、小谷城などがその対象となったようである。

2023.8.29 彦根城 三層三階の天守に石垣は牛蒡積み(野面積みでも奥行きのある胴長石を用いる)▼

2023.8.29 本丸太鼓門 ▼

2023.8.29  彦根駅の3475M近江塩津発新快速姫路行きクモハ224-104 ▼

彦根城は車を運転していた頃近江八幡城や安土城訪問後に行こうとしたがテントを張って工事中のため諦めた経緯がある。今回の訪問で日本の残存天守のある城は全て行ったことになる。猛暑の中、彦根駅からは徒歩でも行けるが往復タクシーを利用した。タクシーを降りてからが大変で長い階段状の道を歩き、天守へは急な階段を登り一苦労で会った。電車からは遠くに彦根城を見ることができたが、線路端を歩き城を入れて電車を撮る気力はなかった。湖国に聳える国宝彦根城を最後に「お城と電車」シリーズは終了とさせていただく。

 

お城と電車(25)彦根城」への9件のフィードバック

  1. いよいよ彦根城が出てきましたが、これが最終回とは残念です。彦根城は準特急さんが書かれているように大津城の天守閣の一部が移築されました。大津城は詳しい構造がわかるものがなく彦根城の修理の折の調査を元に推定の図面が作られました。望楼型の5階4重の天守で琵琶湖に飛び出るように建てられていて、この図面をもとに10年ほど前に成安造形大学が3DCGで復元を試みました。どことなく彦根城と似ているのではないでしょうか?彦根城から大津城の話になってしまいましたが、旧大津城の外堀と言われる石垣の横が最近の私の仕事場ですのでつい思い入れがあり失礼しました。

    • 大津の86様
      コメントがなくて落ち込んでいる中、本当に有難うございます。今日は阪神戦を見に早くから神宮球場に行ってましたが土砂降りで18時半に中止。孫にはかわいそうなことをしましたが天候のことを言ってもしょうがないですね。彦根城もその孫と行ってきましたが足腰が弱っているので大変でした。この城は複雑な格好をしていますが櫓や門などにはいろいろな城の部材が使われているそうです。井伊直政は最初石田三成の佐和山城に入ったそうですよ。

  2. 準特急様
    前回の姫路城でコメントしようと思っていましたが、時間がたってしまいました。可能な範囲をGoogleEarthで確認しましたところ、鉄道を前景にして姫路城が遠望できるのは山陽新幹線の市川東岸と手柄山中央公園の展望台、播但線は高架の京口駅のホームが見つかりました。高架線の車窓からお城が見える場所は多いですが、必ずしも写真が撮れる場所ではないのが難しいところですね。
    姫路から新快速に乗車すると2時間25分で彦根に到着します。滋賀県の生まれですので、滋賀県で唯一保存されている彦根城には特段の思い入れがあります。鉄道とは直接関連はありませんが、第2の県民の歌といわれる1917年に高島市今津町で誕生した『琵琶湖周航の歌』の歌の第五節に「矢の根は深く埋もれて 夏草繁き堀の跡 古城にひとり佇めば 比良も伊吹も夢のごと」と詠われており、通常3節まで歌われる場合が多く、彦根城の節があまり出てこないのは残念です。
    よく似た歌に1941年に琵琶湖でボート練習中に突風のため転覆した事故(琵琶湖遭難事故)を詠った『琵琶湖哀歌』があり、こちらは第一節に「遠くかすむは彥根城 波に暮れ行く竹生島……」と詠われています。この歌は1910年に成立した『真白き富士の根』(七里ヶ浜の哀歌)の二番煎じで、歌手の東海林太郎と小笠原美都子が歌い、レコードが発売されたのもまだ遭難者の捜索が続いていた最中だったようです。戦時中という時節柄にせよ安易な作詞の発想とメロディの半分ほどを『琵琶湖周航の歌』を借用したことなど現在では許されないことだと思います。

  3. 快速つくばね様
    示唆に富んだ、また、貴重な情報を有難うございます。「琵琶湖周航の歌」は旧制三高のボート部の歌と勝手に思い込んでいましたが曲が素晴らしくよく歌ったり聞いたりしたものです。滋賀県だけでなく全国で親しまれていると思います。「琵琶湖哀歌」はよく知りません。「真白き富士の根」もいい曲ですが逗子開成中学の生徒のボートの転覆による遭難のことが歌詞にあり悲しくて歌う気にはなれません。姫路城ですが人によっては播但線京口であたりで見えると聞いたことがあります。高架なら難しそうですね。確認してみましょう。1956(昭和31)年小学5年生の遠足で姫路城に行った時の写真です。手柄山にも行きましたがそこからは山陽本線のD52の貨物列車が見えた様な記憶があります。

    • 「琵琶湖周航の歌」は旧制三高のボート部の歌で間違いありません。三高のボート部、当時は水上部の部員であった小口太郎が発案した歌詞を周航中に今津の宿で部員に披露したもので、当時三高で流行していた「ひつじぐさ」の歌のメロディにのせて歌われたものです。その後に6番までの歌詞が完成し、三高の寮歌・学生歌として定着しました。なお「ひつじぐさ」の作曲者は吉田千秋という方であることが近年の調査で明らかになっていますが、「琵琶湖周航の歌」は口承で伝えられてきたため、現在のメロディは原曲とはかけ離れたものになっているそうです。

    • 準特急様
      乙訓の老人の甥様
      説明不足だったので補足します。『琵琶湖周航の歌』の歌は第三高等学校(三高。現在の京都大学)の歌で間違いありません。琵琶湖周航の途中、部員の小口太郎さんが当時の滋賀県高島郡今津町で作曲しました。誕生地としての歌碑は今津港観光船乗り場脇に立っていて、近くには「琵琶湖周航の歌資料館」があります。
      一方、『琵琶湖哀歌』で歌われた遭難した漕艇部員は、第四高等学校(四高。現在の金沢大学)の学生で、この歌に関連した碑文が高島市勝野の萩の浜に「四高桜」の碑として残されています。

      • 四高生により『四高漕艇班遭難追悼歌』が作られており、萩の浜の「四高桜」の碑には『琵琶湖哀歌』ではなく『四高漕艇班遭難追悼歌』の歌詞が刻まれています。

        • 乙訓の老人の甥様
          ご指摘ありがとうございます、小口太郎さんは、作詞家です。推敲せずに送信してしまいました。「四高桜」の碑はこの事故が契機となって製作されたものでこの歌の歌碑ではありません。遭難日は1941年4月6日ですので原因は比良八荒(講)(比良颪・ひらおろし)であったといわれています。湖西線が運休になる原因のひとつです。

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