タイムリーさを身上とするデジ青投稿も、こちらの怠慢で、なかなか進みません。“アレ”が“ソレ”になる前に、甲子園線を最後に載せます。今回は、甲子園線の下半分、甲子園球場を除いた甲子園~浜甲子園です。昭和50年の廃止時、終点は浜甲子園でしたが、阪神本線の出屋敷と今津を「コ」の字に結ぶ、今津出屋敷線の計画の一部を、甲子園線の延伸として充当する形で、浜甲子園から直角に西に曲がって、海岸沿いの中津浜までの0.8kmが1930年(昭和5)7月に開業しました。しかし戦争激化により、1945年(昭和20)1月に休止され、そのまま廃止となり、海岸線に直角に突っ込む形で、浜甲子園が終点となっていました。
▲甲子園線は、“女子高生”の輸送も担っていた。「甲子園九番町」の近くに、武庫川女子大、付属中高があって、登下校時、停留所付近は、車道までも“女子高生”で埋め尽くされる。
▲こちらは、本線と接続する「甲子園」、下校時ともなると、ここでも“女子高生”が疾走して乗り換える。▲こちらは休日午後の「甲子園」、行楽帰りの家族連れが中心。▲変わって夜の「甲子園」、ナイターが無ければ、甲子園団地への帰宅の足として賑わいを見せる。
▲高架上を本線の電車が発着する甲子園駅。▲▲廃止直後の同一地点。いまは、本線の甲子園駅が拡幅、一新されて、廃線跡も道路に飲み込まれてしまい、面影は残っていない。
▲甲子園球場の向かいにあった甲子園阪神パーク。「レオポン」で名を売ったが、のちに廃止されて、住宅展示場を経て、いまは「ららぽーと甲子園」に。▲またまた“女子高生”ラッシュ、最初、土曜日昼にラッシュシーンを目撃し、ぜひ平日にもと考えていたが、激務のサラリーマンでは行くことも叶わない。ところが、5月連休の合いの日の4日は平日だったが、勤め先は、ほかの休みを出勤にして4日休日の三連休になっていた。廃止直前の絶好機を逃す手はないと、女子高生狙いだけに甲子園へ向かったのだった。
▲上下線が合流し、まもなく終点の「浜甲子園」へ。
▲終点の「浜甲子園」、一面一線の高床ホームの駅だった。▲甲子園団地から見た「浜甲子園」、すぐそこに甲子園浜が広がり、かつては海水浴で賑わった。戦前まで中津浜まで伸びていた時代の複線跡が、駅の横に残っていた。▲近くの団地には、戦後の核家族が多く暮らしていたから、電車が着くと、ホントに多くの家族連れが下車したものだ。▲▲武骨な車止めが終点らしさを感じさせる。到着する電車、もうホームには列を作って待つ乗客が。
阪神軌道線の甲子園線は、甲子園球場や阪神パークへの観客・行楽輸送、通勤・通学の足としても重用された。距離は短いが、中間で本線の甲子園駅と接続していたから、大阪、神戸への乗り換えも便利だった。ただ、ほかの国道線、北大阪線との一体経営であり、甲子園線だけの存続は難しかったが、もっと活用の手立てはあったと思う。これも“早すぎた廃止”だった。
※一部写真は、当方編集の「阪神国道電車」の素材から転載しました。
自分が想像する昔の世の中であり世界線