お久し振りです、掲示板読者の皆さん。近頃は掲示板の話題レベルが高く、アマチュアにはなかなか参入のチャンスがありませんでしたが、昨今のブルートレインの話題には割り込めそうと、冬眠から目覚め投稿しました。 学生時代、昼間の関西でブルートレインにはめったにお目にかかれず、ようやく西方の山陽本線でカメラを向けました。 K.Y.さんと二人で、瀬野機関区訪
問と戸田-富海間の撮影行です。夜行で向かい、朝の広島駅構内で特急機関車軍の撮影。
そしてあさかぜの出発。
この日の前夜1962年5月3日、あの三河島事故が発生しました。夜行の車内、ラジオで事故を知り、また、翌朝の新聞で三
河島に住む同姓同名の親戚の名前を見つけましたが、他人と判り旅行を続けたものでした。その日は、広島電鉄を撮影。翌
日に瀬野機関区を訪ねました。機関士の作業服に着かえ、重連補機の前方の機関車に乗車。瀬野-八本松間を往復しました。 翌日は、戸田-富海間で撮影です。天気はよく、瀬戸内の波は静かで絶好の撮影日和でした。午前中、相次いでブルー
トレインが通過。C62の勇壮な姿に接して大満足でした。撮影はいずれも、1962年5月5日。
K.Y.さんは、鉄道施設に昇り撮影を行っていました。その時の写真を、今から4~5年前、例の写真集募集の折りに見つけま
した。普通では撮影出来ぬ見事なものでしたが、昨今なら間違いなく問題になっている事でしょう。 K.Y.さんですか? 某電
鉄に勤め、系列のホテルのトップに上り詰めたあの御仁。なるほど当時から登る事に秀でていました。 次回は、その一年後、やはりK.Y.さんと二人で、鹿児島から熊本まで特急券を買って、『はやぶさ』に乗車した話と、九州各地のブルートレインの写
真を紹介します。 『貧乏学生二人、はやぶさに乗る』。乞うご期待!
やっと平服の「ブルートレイン」の二つの書き込みに出会いました。貧乏学生にとっては高値の花だったと思います。社会人となった老人は、ハネは30系が思い出につながります。マイテの前夜、東京駅で乗った「銀河」は、雪合戦となった「日本海」以来の「ブルートレイン」でした。tsurukameクンと車中で出会い、丹那トンネルに入るまでデッキで話し合いました。そして10年後、思いもよらぬところで「ブルートレイン」を意識することになりました。
京阪のクゥイーン3000系が大井川鐡道で余生を送ることになり、年参が始まりました。
定宿となった吉川〈キッカワ〉屋旅館(0547‐46‐2301)では朝6時起床。新金谷車庫に寄り5:30金谷行きのコンプレッサー音を聞き、大代川鉄橋へ向かう。金谷初発を待っていると茶畑の山裾を東に向かう一条のブルーライン、「富士」であった。この光景をクローバー会メンバー3人と眺めた、いやカメラを向けたのは何年前だったのだろyか。