「富士」を送る (2)

151系電車の「富士」が消えた翌日、昭和39年10月1日からは、別の寝台特急に「富士」の名は受け継がれます。東京~熊本・大分間の特急「みずほ」のうち、山陽本線の全線電化を機に大分編成を単独運転することになり、その名が「富士」となったのです。客車はもちろん20系、牽引は東京~下関間がEF60500番代、門司~大分間がDF50、翌年には東京~下関間がEF65500番代(P形)に変更されたため、EF60500番代「富士」はごく短期間でした。特派員も写している訳はなく、他の特急でその姿を偲ぶことにします。

EF60に牽かれ丹那トンネルを出る「富士」、ではなく「あさかぜ」(昭和40年)

さらに同昭和40年10月改正から西鹿児島まで延長、「富士」は、日豊本線経由で東京~西鹿児島間を結ぶ日本一長距離の特急となります。蒸機を求めて九州を彷徨っていると、DF50のオレンジ・グレーと20系客車の青い車体が絶妙のバランスで、特急への羨望を抱かせたものでした。DF50が門司~西鹿児島間をロングランしたのも特筆されます。

日豊本線大神駅を通過する上り「富士」(昭和42年)

日豊本線田野の鉄橋を行くDF50+20系の「富士」(昭和42年)

 いっぽう客車も昭和50年には20系から24系に。昭和51年にはさらに24系25形に置き換えられます。さらに牽引機も昭和53年にはEF651000番代(PF形)に変更されます。趣味的に見れば、昭和40年から50年までの10年間、EF65P+20系の時代が最も輝いていた時代に見えます。

広島駅に到着の下り「富士」。20系客車は15両の長大編成だった(昭和42年)

湯河原付近のカーブを駆け、東京へ急ぐ上り「富士」(昭和49年)

その後昭和60年になるとEF66に牽引機を変更、JRになってからは、ロビーカー、個室寝台ソロなどの体質改善が図られますが、その後の凋落化に歯止めが掛からず、食堂車の営業休止、運転区間も南宮崎、大分と短縮、ついには平成17年に「はやぶさ」と併結となり、14系15形となった編成も半減となり、ついには廃止を迎えることになりました。

EF66牽引となった「富士」。ヘッドマークも戦前の展望車のバックサインに似せたデザインとなった。藤沢付近(平成7年)

「はやぶさ」と併結となった現在の「富士」。名古屋駅(平成20年)

 

「富士」を送る (2)」への1件のフィードバック

  1. 今回の「お別れフィーバー」、昔からの鉄道ファンも戸惑うくらいの
    報道集中でした。昨日土曜日のNHK山口局制作の「仕事の現場」を
    ゆっくり見て一つの時代が終わったことをまたも痛感しました。

    「富士」は昭和45年春に父の仕事の関係で大分に引っ越してから強く
    意識する列車名になりました。仰るように、50年に客車が交代、また
    53年頃に鹿児島電化でDF50という名優が舞台から去るまでわたしは
    ちょうど黄金時代のこの列車を何度も見て、大人になっていったのです。

    初めてカメラを持った47年頃に夕方、大分川の鉄橋を渡ってくる上り8レ
    をよく待ち構えました。
    大分運転所で待つのは赤のED76でこれも縁の長い機関車になりました。
    昭和50年末に苅田町に家が建ってからはもっぱら行橋ー小波瀬間で
    夕方の上り、朝の下りを田んぼの中で待ちました。
    華やかな山陽線下関口の朝の下りラッシュ、鹿児島線遠賀川辺りで待つ
    「さくら」「みずほ」「はやぶさ」「あさかぜ」の4連発に上り「まつかぜ」
    の応酬に比べれば一際地味な日豊路のカメラ行脚でしたが、それだけに
    「富士」は輝いて見えました。まだ行橋は停まらず、小倉を出ると中津まで
    行ってしまうので沿線小駅の人間には無縁だったのです。

    大学受験の昭和53年には上り「あさかぜ」か「富士」で上京しました。
    後に入ることになる大学は博多で地方受験でした。
    多分地元京都の皆さんには東京ー対九州寝台特急は馴染みのない列車の
    一つだと思います。

    一昨年に行橋の教会で眠る父の霊を故郷の墓地に移すことになり
    この機会に最後の「富士」に乗っておこうと大阪ー行橋間で利用しました。
    午前1時の帰宅客の途絶えた深夜のホームで待っていると登場時に衝撃的な
    デザインと感じたEF66が疲れた姿で入線してきました。
    客車も数次の改造で編成美と、かけ離れた姿で連結されていました。
    乗り心地もアコモデーションもその2年前に乗ったドイツ国鉄の新型寝台車
    に遥かに及ばず、ここに国鉄自慢のブルートレインの時代は去ったことを
    体感しました。新幹線の飛躍的発達、国鉄民営化、高速道路網と夜行バスの
    猖獗、よくぞ「ここまで持った」ものです。
    でも機関車も客車も資本を投入し新型化し、コストも下げられていたら、
    フェリーが15年で新造船になるのを知るだけに関係者は無念だったと
    思います。

    旅や旅行に憧れやロマン、国内の移動にはもう「旅感覚」が無くなった今日
    では、やはり残すには辛い乗り物だったかと思います。常務の皆さん長年
    ご苦労様でした。
    在来線鉄道には本当に厳しい時代です。しかし効率と経営だけで公共の乗り物
    はこれでいいのか、今後も鉄道ファンとして問い続けて行きたいと思います。

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