1954年3月北陸から長野、三重 その8


三岐鉄道キハ5+ハフ11 (国鉄)富田

最後の余力?を振り絞り、三岐鉄道が分岐する富田へ。この時点架線は既に張ってあったがまだ電化に到らず、蒸機とディーゼルカーだったのに、なぜか蒸機は撮っていない。この鉄道の開業は1931年7月23日と遅いが、初めから客貨分離で客車はなく、旅客用にキハ1~5の同形車5両を投入。江若鉄道キニ3と同図(同形車)だが、機関がウォーケシャ6SRL(江若はブダBA-6)。手荷物室があるのに記号はキハニではなくキハで、1931年6月日車本店製、両荷台は敗戦後の装着である。


キハ5 荷台と窓2段化で分からないが 江若鉄道キニ3と(機関以外)同形車だった

燃料が不自由になった戦時中は混合列車を運行せざるを得ず、私鉄、国鉄からボギー車、2軸車を購入。この時期の買い付けだからまさしく雑多の寄せ集めだが、珍しく半鋼製2軸車が4両あった。


ハフ11←鶴見臨港鉄道モハ51 

ハフ11、12は汽車会社1932年製鶴見臨港鉄道(鉄道線)の2軸電車モハ51、52。台車はブリル、片側車軸上にパンタがあったが、貨車用の単軸受に交換し、当然自連も装備。入線当時はハフ1、2を名乗っていた。


ハフ13 車体は戦時中の新製だが、屋根上のトルペードベンチレーターは旧車から取外した?

ハフ13は芸備鉄道買収車で、その前は日露戦争当時陸軍が多数のB6機関車と共に現地に持ち込んだ新橋工場1904年製木製客車だった。芸備ではハユフ1で三岐でも同番だったが、戦時中名古屋工機部で木製車体を新製。除去した旧車体はその後も三岐の社紋のまま富田に物置で残存していた。


ハフ15←神中鉄道キハ11 のち別府鉄道ハフ6に

ハフ14、15は旧神中鉄道のキハ10、11で、日車東京支店1930年製の、一見丈夫そうな2軸車。下降式窓は2段(下段上昇)に、乗務員扉も埋められ窓になっている。


ハフ16 のち別府鉄道ハフ7 

ハフ16はやはり旧神中鉄道のハ24で、汽車1926年製オープンデッキ車。なお当線電化後ハフ14~16の3両がキハ5、キハニ6とも、別府鉄道にやってきてハフ5~7、キハ2(二代目)、キハ3になったのが周知である。なお別府廃止後キハ3は佐久市に引取られ、本来の佐久鉄道キホハニ56に復元(100%厳密な復元とは言いかねるが)され静態展示。ハフ16も相模鉄道に無償で譲られ、保存されている。

このほか三岐には旧神中鉄道ホハ200も購入しホハフ201としており、車体を半鋼で新製したが、小生が訪ねた前年に日本軽金属(蒲原)に売却したので、結局見ず仕舞であった。

三岐鉄道は1955年電化するが、電気機関車は貨物のみ牽引。旅客はディーゼルカーが分担するという特異な運行を続け、1956年以降社型国電を導入。また貨物は当然関西本線への接続だが、旅客は1970年6月25日近鉄名古屋線の近鉄富田に変更し、数少ない国鉄富田接続のためにディーゼルカーを保有し続けた。その後気動車はキハ1~3を津軽鉄道キハ2406、2405、2404に売り飛ばし、2404はさらに上武鉄道キハ2400に転じている。謎の多いキハ7も北陸鉄道(能登線)に譲渡しキハ5162になったが、廃車後日本海の藻屑―漁礁として沈められた。

最終日のみ個別活動した3人は指定の列車に参集し京都へ。乗車券は草津で切れ、山科で下車すると草津-山科分を払わにゃならん。手元著しく不如意とあって、心ならずも山科では先頭客車からホームと反対側に下車?したら、機関士か助手かに見付かり、「おーい、2人逃げよるぞー」と大声が発せられたが、無事逃げおおせた。当時の駅はどこも開けっぴろげだったから、まことに「人に優し」かった。(この項終わり)

1954年3月北陸から長野、三重 その8」への1件のフィードバック

  1. サンギは今は親会社が太平洋セメントでしたね。
    謎の多い鉄道の一つです。
    別府に移った2両の客車は縁があって親しみました。
    これも時代的には奇跡に近いです。
    一般社会における戸籍や過去帳の開示が普通になりましたが
    やはり隠しておいた方がいい怪しい過去は謎めいてた方が
    魅力的です。
    女性と鉄道車両はロマンの対象に留めましょう。
    きょうも酔っていてスミマセン。

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