第2日目 5月6日 その2
比婆山温泉の宿を見てからも備後落合へと車を進めます。国道314号線は木次線に並行していますので所々でレールが見えます。そしてトンネルに入る直前で西村さんから「ここ良いですね」と見られた場所に停車しました。かつて山を迂回していた旧道跡です。その向こうに鉄橋が見えました。
▲ 13:03 Google座標; 35.022221,133.122550
旧道に車を停めて先に進んでみましたが右方向は木々が生い茂ってレールは隠されています。左も同様でこれではおろち号全編成を撮影することが出来ませんが、自然に戻りつつある旧道のと合わせて山間を行く鉄路の雰囲気が出ています。前2両でも良いかなとアングルを組みました。
これでおろち号の撮影は切り上げです。備後落合は後からにしようと通過して、まだ訪問したことのない芸備線の駅の1つ道後山を目指しました。
▲ 13:28 道後山に到着です。道後山は、1936年(昭和11年)10月10日に国鉄三神線として小奴可~ 備後落合が延伸開業された同年11月21日に1ケ月あまり遅れて、中間駅として開業なっています。駅舎は当時としては珍しい鋼製波板屋根に木造モルタル造り、赴任してこられた駅長さんは、ローカルにはないモダンな駅舎だと喜ばれたそうですが、
▲ かつて優等列車が停車した駅で、当時は2面2線でした。今は1面1線ですがホームの跡がありました。この辺りで見た手書きの駅名板は待合室に静かに置かれていました。地元の鉄ちゃんでしょうか道後山駅の生い立ち・歴史を記載したレポートがおかれていました。これも珍しいことです。とてもよくできた作品でしたので、カメラで複写撮りしました。ご覧ください。クリックしますと拡大します。
【 道後山駅 】
当初は小奴可~備後落合に新駅は設置されない計画でしたが夏はハイキング避暑地、冬はスキーと県有数の観光地”道後山”、1,271mへのアクセス拠点、村の活性化の起爆剤として林業に携わる多くの方々のご尽力により認められた経緯があります。開業祝賀会は花火の打ち上げ、駅前通りには旗行進も行われて村あげて盛大に行われたそうです。
道後山のスキー場は設備も整った広島では1番のスキー場として今も賑わっています。私も広島赴任中に何度も訪れスキーを楽しんだところです。
1952年(昭和27年)には駅裏山に高尾原スキー場も新たに開設され最盛期を迎えていきます。1961年(昭和36年)夏には岡山~道後山に臨時準急「たいしゃく」が運行され、1962年(昭和37年)3月15日改正では米子~広島を伯備・芸備線経由で結ぶ準急「しらさぎ(後・”ちどり”に改称」、1967年(昭和42年)10月1日改正からは初の急行「ひば(後・”たいしゃく”に改称」が運行開始しました。最盛期の1972年(昭和47年)には津山~広島を結ぶ急行「やまのゆ」まで運行されています。陰陽連絡に鉄道が活躍した時代でした。
▲ 1972年(昭和47年)10月1日改正の時刻表です。確かに道後山に上下各3本の優等列車が停車しています。当時は合わせて上下各11本が発着していました。
◀ 参考までに急行名が改称されていなかった以前、1967年(昭和42年)10月1日改正の時刻表も掲載します。クリックしますと拡大します。
▲ また道後山駅から道後山麓行きの備北交通が平日3本、休日は5本が運行されていました。
【 道後山駅の衰退と今後 】
最盛期時には優等列車が停車し、バスの発着もありました。列車で降りた客がバス3台に乗り切れなかったほどでした。駅前は賑わい映画館まであったほど栄えた道後山駅ですが、車社会の到来・発展とともに利用客は減少に向かいました。
1963年(昭和38年)には貨物扱いの廃止、優等列車も1部は1つ東隣の小奴可に停車するように代わり、道後山麓へのバスも1974年(昭和49年)には備後落合発着となって利用客は激減していきました。
そして蒸気機関車が芸備線から消えた翌年の1972年(昭和49年)には無人駅になってしまいました。
今や1日上下各3本の列車が発着するだけで1日の平均通過客数はわずか8人のみの秘境駅とも呼ばれる存在です。JR西日本では発表なった三江線に続いて福塩線(府中~三次)と同様に廃線に持ち込みたい路線としてリストアップされているかな・・。
一方道路の方は芸備線とほぼ並行する中国道三次I.C~米子道江府I.C、約90㌔が設計速度80km/h(1部は60km/h)で設計され1部が完成、他も着工・工事中です。益々自動車による移動が便利になり、鉄道への見直しは行われる予定すらありません。一時はJR四国から振り子式DC2000系を借りて高速化実験も行われる予定もありましたが、最近は聞こえてきません。
三江線は中国新聞の後押しもあって世論の盛り上がりが期待できそうで、息を吹き返えそうな気運作りが始まってきていますが、ここは何も聞こえてはきません。地元住民による道後山駅が設置申請された当時の盛り上がりをまず期待するしかありません。秘境駅めぐりの列車でも運行されることによって廃線候補に活を入れるしかないようですが、JR西日本にそんな粋なことを期待はできません。鉄ちゃん思考としては、おろち号を三江線や芸備線にも乗り入れて一周するようにできないものでしょうか。
次の訪問駅は読むのも難しい小奴可(おぬか)です。
▲ 13:50 小奴可(おぬか)に到着です。駅正面は、野菜市場かなと間違うほど地元で採れた路地もの食材が並べられていました。
▲ 小奴可は1935年(昭和10年)6月15日、国鉄三神線が東城から延伸し開業した際の終着駅です。1983年(昭和58年)10月31日に無人化され、駅舎内のきっぷうりばは委託でオープンしていました。かつては優等列車も停車したホームは道後山と同様の相対式2面2線でしたが今は1面1線のみです。改札口は鋼製のポール製です。
▲ 14:41 備後八幡はかつての駅舎は取り壊されて、縮小された可愛い駅舎だけになっていました。この駅は近くの東城川対岸にある官営の製鉄工場があり、トロッコ路線があったそうで貨物輸送も盛んだったのです。今はそんな面影は微塵もない上下各3本しかない小さなローカル駅になっています。
▲ 15:16 備後八幡~東城 Google座標; 34.929488, 133.231898
成羽川に架かる鉄橋を行く444D(キハ120-358)、運行3本のうちの1本です。
◀ 撮影後は成羽川に沿った線路沿いの旧道を東城へと向かいましたが途中で倒木が進路を塞いでいます。
残念ですがこの道では先に進むことはできず引き返して314号線を走り東城を目指しました。
▲ 15:37 東城に到着です。1930年(昭和5年)11月25日、当時の 国鉄・三神線が矢神から延伸し、その終着駅として開業。黒い瓦屋根のどっしりとした木造駅舎です。
▲ かつてはこの駅も2面2線の駅でしたが今使用されているのは1線のみです。当時は乗降客でにぎわったのでしょうね。跨線橋は閉鎖され通れなくなっていました。
ここからは引き返しです。通過した備後落合に立ち寄ることにしました。
▲ 16:27 備後落合に到着です。雨は上がりましたが山々には滑昇霧が発生しています。幻想的になれば思わぬ光景が撮れるのですが・・。
▲ 構内をみていますと、西村さんからお呼びが出ました。構内の木々が生い茂る林を指さされて、あそこに転車台があると言われます。
▲ 行ってみますと、かなり朽ち果ててはいますが確かに転車台です。各地にはもっとマシな転車台が残っていますので復活はありえないでしょう。ここまでになる前に貴重な鉄道遺産として保存体制を取るべきだったでしょうね。
これで今日の撮影は切り上げ、宿泊先のアルファイン三次へと向かいましたが、途中で「おっ、これは良い。」と、西村さんの一声で撮影場所を探すことになりました。
場所は備後西城を出た所の西城川に架かる鉄橋です。
▲ 17:33 備後西城 橋を俯瞰できそうな小高い丘が見えるのですがたどり着く道がさっぱりわかりません。タブレットで細かい道を探しながら最後は徒歩でようやくたどり着きました。
駅も俯瞰できます。しばらくすると三次行きの361Dが到着しました。
【DATA】 NikonD300S VR28-300㎜(フルサイズ) 300㎜(換算で450㎜) F5.6 1/80秒ISO720 ー0.3段
【DATA】 NikonD800E 24~70㎜ ズーム70㎜ F2.8 1/125秒 ISO720 0段
▲ 17:34 雨の日は夜の帳が下りるのは早いものです。前照灯を光らせながら鉄橋を渡っていきました。走行するは備後落合で発車待ちだったキハ120-382です。
3点とも撮影位置は、Google座標; 34.936480, 133.116910
【DATA】 NikonD800E 24~70㎜ ズーム70㎜ F2.8 1/125秒 ISO640 0段
DATA通り辺りはかなり暗くなってきて悪条件化の撮影になりました。
▲ 18:11 これは追っかけ出来るかもと走りますと山ノ内手前でつかまえました。帰宅下車された皆さんがホームに降り立たれるのを撮りたいとアングルを探すと、丁度お孫さん連れがおられました。お迎えではなく列車を見に来られただけでしたがお声をかけて後ろから撮らせていただきました。もう少し何かを表現できたらよかったのですが・・。
しかし追っかけ出来たのはここまでで、一般道路は帰宅ラッシュになって進めません。今日最後のカットでした。
明日は最後の撮影日です。天気は昼から晴れるとの予報です。どの時刻にどこで撮ろうかと地図とダイヤグラムを見ながら相談の夜になりました。 Part4へ続く