今回は大沼から「ニセコ」に乗って倶知安に至るまでです。少し短いのですが冬なので乗客が少なく短編成になっています。
コメントに西村氏は変わらんけど、他の2人は経年劣化というか、補修を受けてか要するに前の形式が分からんようになっているやないけ、と先輩から頂きました。確かにそうかもしれません。車齢もこのくらいになると原型を留めることは難しいですからね。ま、とにかく2号車に乗車いただきありがとうございました。発車します。写真をみて3人(否2人)は今でもこんなにイケメンとは思わないでいただきたい。発車前のご注意です)。書いている内容はうそではありませんが相変わらずオリジナル文章を時代に合わせ個人に合わせ適当に追加しています。北海道でも股覗きもしたことにいたしましょう。
函館から大沼公園へ
16:05に十和田丸は無事函館港に到着しました。宿泊予定は大沼であるから一刻も早く大沼公園に着きたいところでありますが17:20発の急行「せたな」まで列車がない。連絡船では16:30に急行「すずらん4号」に連絡いたします、とか放送していたはずであるが、実際には季節列車で運転されておりません。冬の北海道にはこの手の列車が多く、中には定期列車が運休するのや、時刻変更などで結構ややこしい。17:20ということは発車まで1時間ほどあるので待合室に荷物を置いて駅前をぶらつくことになりました。ところが風が冷たく手が千切れそうで市電を数枚撮っただけで這う這うの体で退散と相成ったのであります。先が思いやられる。
なお、渡道のころの函館の気温は気象庁のデータによると
2月23日 最高 –8.5℃ 最低 -13.7℃・・・出発の日
2月24日 最高 -6.8℃ 最低 -12.5℃・・・渡道最初の日
2月25日 最高 -7.2℃ 最低 -14.6℃・・・北海道最初の朝
である。確かに寒い。温暖化の恩恵は受けていない。函館でさえ最高でもマイナス7℃を下回る。これまで暖房の効いた列車、船にいたのでこの温度変化は体に堪える。いきなり街に出るとそりゃー問題ありますね。この辺から頭脳明晰であったはずの海馬、前頭葉、側頭葉・・・小林氏の回路がおかしくなってくるのであります。これで山間部、吹雪となったらどうなるのでしょうか。本当に思いやられます。
さて待合室に戻ると荷物が見当たらない。今なら不審荷物をいうことで撤去になるかもしれませんが、当時はそのまま放ったらかしで行方不明になるということはまずなく、大体中にたいしたものが入っていない30kgの荷物を・・・と小林氏が思っていると別の所を探して「ない、ない」と喚いておったのでありました。おー恥ずかし。
17時にホームに入ると、いたいた急行が。編成はなんと、
←長万部 キハ21 28(旭 ワカ)+キハ22 330(函 ハコ)+キハ21 45(旭 フカ)
1両目が長万部行き、2,3両目が瀬棚行きでありました。今度は編成が短かいので小林氏も恥ずかしい思いをすることもなく。2人も一緒に行こうと言われることもなく簡単でありました。我々の均周は慎ましく2等(今で言う普通車)用であり1等車用ではないのでロザがなくても特に問題はないのでありますが、この列車は急行というより快速みたいなもので、ゴム長を履いたおっさんや、エプロン姿のおばはんが乗っております、これにびっくり。車掌は慣れたもので均周を見せると「大沼公園ですね」と行ってしまった。
※当時は1等車がグリーン車に名称変更になる時期ではありましたが、少し前は1,2,3等車だったのですからね。湯口先輩の時代に遡らなくても、普通乗れるのは3等車で、80系の快速なんかについているグリーン車は2等車でした。古くはちょい乗りでも下駄電の2等車もありましたが庶民には2等車の切符と言うのは少し違和感があったと記憶します。それと2等車を1等車と呼ぶようになったのも、これでゼニを盗る1等かいな、と不思議がったものです。リクライニングもしないシートで前席の背中からテーブルをばったんと下ろしてジュースの置き場くらいにするくらいしか出来なくて何が1等車やねんと。
大沼公園のユース
函館を出て30分もすれば大沼、次の駅まで凡そ1分で大沼公園である。DC急行はDC車特有のダダン、ダダンというジョイント音とばねの機能がなくなったような台車からの振動、エンジンの響きを載せて走る。グオーンと唸るエンジンが高速でアイドルに切り替わり、その後はカラカラという感じに変わり、やがてシャーっとブレーキシューの擦れる音がするまで繰り返し走っていく。最近の電車にはないこの雑音が良いのだ。ゴム長からの雪解け水が床を這い、どこからともなくもやっとした空気が辺りに漂う。北海道のローカル急行そのままの雰囲気を引きずって函館の町を抜け五稜郭を通りやや高度を取りながら山間に入って大沼を目指していく。
大沼公園はホーム1面で、今でもそのままで優等列車が止まる駅でホーム1面は珍しい。1面では出口も乗り場も間違えることはなさそうである。駅で翌朝のために貨物レのダイヤを聞きスタンプを大騒ぎで押して駅を出た。当時はインターネットは勿論なく、ファン誌などにもダイヤ情報がある訳でなく、こうして職員にダイヤを確認して撮影のプランを立てるのである。このときの情報が撮影プランに影響することはいうまでもないことであります。
かくして本日の予定も終わり、ユースで一宿を戴きに雪道を進むことになりました。
※と、ここまでダイヤを聞いた記事以外に適当原文にもないことを書いたところ、小林氏から「一寸待った」が掛かりました。なぜかというと、このとき、大沼公園のこの時間では駅員はいなかったのではないかと言うのです。ダイヤをきちんと聞けば明くる日、モタモタすることはなかったはずで(運行予報士を自認する(辞任?の羽目になりそうであった))小林氏としては、翌日の動きを考えれば、聞いておりましたとは言えないプライドと経験があったのです。本当はどうだったんでしょうか。青信号では駅員に聞いたことになっております。
(駅前の即興バレー:小林氏の体験)駅を出ると外はすでに暗く街灯だけが頼り。勿論、道路などは区別がつかず雪一面で家と家の間がおそらく道(未知?)なのであろう。恐ろしいことに雪がカチンカチンに凍っていて坂に差し掛かるとツルツルと滑って、恰も下手糞なバレーを踊っているようであります。それもいつ踊るか自分でも分からないのでさしずめ即興バレーでありましょう。まだひっくり返った者はいない、誰が最初にひっくり返るかと話していたら急に地球が傾いて体と地面(いや地ではないので雪面か)、と平行になった。続いてケツに「○゛より更に強烈な痛み」が走った。何のことはない、自分がひっくり返ったのである。それにしてもそのときの冬空の美しかったこと、ケツの痛みを忘れるくらいであった。空気が澄んでいるので明日は天気であろう。放射冷却が一段と進みそうである。他の2人はこけていないのでケツの痛みも星空も何の印象もありませんでしたが。
漸く辿り着いた大沼公園のユースは、我々の他に1人宿泊客がいた。慶応のおっさん(お兄さん)で今春日本鋼管に就職するのでその前に卒牛記念に来たというのでありました。川中の記憶に拠れば最近亡くなった我々と同じ新島先生の弟子であるラグビーの平尾氏に雰囲気が似ていたかもしれない(独断です)。なかなか気さくなおっさんでありましたが、西村氏の顔を見るなり「君は僕の友人に似ている」と言い出し、何でもその友人は4,5年前に谷川岳で亡くなったのだそうだ。あんまり似ていると言うものだから気色悪くなってきた。こんな出会いは旅の醍醐味であるが、このおっさんは翌日大沼で写真撮影中にも出会って、なんでこの辺をウロウロしているのでしょうか、と思いましたが、「そうか、汽車を撮るには周りの景色が大切なんだね」と開眼しておりました。この人もどこへ行くともなく大沼をうろついていたのですね。
さて、川中氏待望の夕飯である。なにせ予約もなく急に泊まったものだから良い献立とは言えなかった。味噌汁が冷めるといけないので薪ストーブに載せていたのであるがお代わりをしようと蓋をとるとグラグラ煮えたぎっておりトンでもない味噌煮ができていた。その後恐ろしく寒い風呂に入り22時に早めの床に入った。慶応のおっさん、少ないオカズを横取りして申し訳なかったですねえ。名も知りませんが、存命とは思いますが今頃どうしているのでしょうかね。デジ青はみていないでしょうね。
何時であろうか。翌朝やたらと寒いのでとうとう目が覚めた。敷布団2枚、掛け布団3枚であるが言いようなく寒い。薪ストーブに火をつけて部屋を暖めてから起きることにする。
今日は北海道第1日目の記念すべき日である。午前中は大沼周辺で写真を撮り12:04の急行「宗谷」で倶知安に向かう予定だ。
朝食を早々に切り上げてユースを出る。大沼公園を通る貨物まで時間がないので道路を通らずに湖の上を行くことに決めた。湖面は凍っている、その上に雪が積もっていて、当然その下は水であるが、ここが近道というわけである。昔の人はよく言ったもので急がば廻れ! 結局堂々巡りで線路に近づいているはずであるが一向に線路が見えずしかも雪に足をとられ思うように進めない。やっとのことで大沼公園北方の線路沿いに出たが汽車はすでに出た後、煙さえも残っていなかった。今では湖危険!進入禁止であろうが当時は良かったのであります。我々は体勢を立て直し次の撮影に備えることにしました。
大沼公園での撮影 カニの重連
寒さで頭脳の回路が本調子に戻らない小林指令を当てにして撮影が始まりました。小林氏は北海道行きが決まってから僅かの日数しかなかったのでダイヤはおろか地図さえも用意していなかったのでと言い訳をしています。また貨物はD51かD52が牽くものとばかり思っていました。D52に期待が弾みます。
次の貨物、08:20が近づいてきました。一向に煙が見えない。おかしいなあ、雪で遅れているのかなあと考えていると、約1Km先に赤いものが見えるではありませんか。川中先生(何で急に先生やねん)は「小林の言うのはアテにならん、特急やないけ?」と追求してくる。小林氏はなまじダイヤに詳しいものであるから、08:05に大沼公園止まりの気動車があったことを思い出し、多分それが遅れているのであろうと弁解した。3人で「おかしいなあ、何やろか」と言っているうちに赤いものはこっちに近づいてきよる。川中先生はまだ「特急や、特急や」と喚いている。「そやかて今頃、特急なんかあらへんのに」と先生の発言を否定していると、どうやら赤いのは頭だけで後ろはグリーンの車が連なっている。3}人が一様に「はて?」と考えるなり、誰からともなく「DD51や、DD51や」という言葉が飛び出した。その特急だと思ったのは重連のDD51が牽くコンテナ列車でありました。結局これを仕留めたのは先生だけで、DCだと思って油断していた小林、西村両先生はカメラの用意が間に合わず無念の涙を飲んだのでありました。皆さん、撮影旅行をされるときは必ず予習をしておかねばなりません。あまりのショックの大きさに以降の写欲を削がれることになりかねません。
「宗谷」を逃す
10時ころまで大沼公園北方でねばっていましたが、さかんに東線で上り貨物の汽笛が聞こえる。いっそのこと、大沼駅の東線、西線の分岐点或いは仁山寄りに行けば両方の列車が撮れるのではと思った我々は大沼の仁山寄りへ移動することにしました。ところが期待した砂原廻りの上り列車がトンと来ない。そのくせ、西線経由の下り列車が何本も通る。我々には大沼駅の南側で粘っているので上りが来てくれないと困るのである。しかし、撮れたのはほんの数本で正に「二兎を追うもの一兎も得ず」であった。一兎は撮っていたような気がするが・・。11:20位になったので急行「宗谷」に乗るためにユースに荷物を取りに戻ることにした。大沼公園駅まで来ると上りの貨物列車が入って来た。見るとD52である。今日は全くD52が撮れていないので一同是非撮りたいと思っていたが、時間がないので先を急いだ。ユースに着いて振り返ってみると、ありゃ、川中がいない、どこかで用足しでもしているんだろうと思い、2人だけで用意したのだが、タイムリミットの11:45になっても戻ってこない。ヤキモキしていると50分になってやっと戻ってきた。もう「宗谷」には間に合わない。「責任取れ」という2人のキツイ追及に先生は「まあまあ、ワシはD52撮れたんやし、ニセコ3号にしようや」と言ってサッサと上りこんでしまった。こんな無責任の奴だったんでしょうか。
結局またしてもD52を撮れたのは川中だけで、2人はその後の在道中でもその機会に恵まれず、とうとうD52を撮らずに帰ってきたのであります。今度は次の「ニセコ3号」まで3時間近くあるので、最早撮影といかず、ユースのすぐ横のスケートリンク(といっても湖が凍っただけで除雪をしてある)でスケートをして時間を潰した。スケートリンクは広大で、誰も居なかった。広すぎた。(一体、我々は何しているんでしょう。それにしても渡道初日でこの変化というか充実は何だ!!)
函館行き? ニセコ3号103レ
今度乗り損ねると以後の予定が狂ってしまうので、西村氏も途中で尻で体重を支える曲芸をしながら必死に駅に駆けつけた(スケートなんかソコソコにしておけば良いのに、というのは誰でも言えますが)。最初に駅に着いたのはこけなかった小林氏で14:45であります。丁度14:47発の「ニセコ3号」がC623に牽かれてホームに入ってきたところでありました。寒さに前頭葉が凍っているのではないかと思われる小林指令は、当時の青信号上で恥ずかしい思いと回顧するのですが、どう勘違いしたのか札幌行きを函館行きと思い込みドカッと荷物を下ろしてしまったのであります。寒さに馴染んで頭脳が解凍するのはもう少し先であるようです。汽車は既にホームに停車している。そこへ川中が「これ、ちゃうんか?」と入ってきたが、指令は澄まして「これ札幌行きやさかいに、未だらしいわ」と言う始末。札幌行きと口では喋っているが、頭脳は函館と勘違いしているのだ。配線が凍って狂っているのであろう。一瞬、川中も変な顔をしたが。この若いやつは何考えているんやろうと直感した駅員が直ぐに「札幌行きですよっ!」と怒鳴ったので今度は西村氏がワーワー喚き出した。その声にハッと我に返った小林氏はあまりの自分のあほさ加減、あほな行為に言いようなく腹が立ったし、恥ずかしいやら照れくさいやら、やっとのことで発車間際の「ニセコ3号」に飛び乗ったのでありますが、乗った後でも、これほんまに札幌行きなんやろうか半信半疑であったという。2人に、心温まる「ボケ、アホ、死ね」という言葉で罵られたのはいうまでもありません。それにしてもあの駅員は、「札幌行きやさかいに未だや」、言って座り込んだ小林先生を見てどう思ったのでしょうかね。冷や汗ものだと小林氏は青信号22号で回顧しています。
さて、乗車した「急行ニセコ3号」の編成は、
←札幌 C622(長万部から)+C623 +⑤スハフ44 21+④スハフ44 19+③スハ45 26+②スハ45 18(指定)+①スロ52 12+マニ60 2096(東スミ)+オユ10 2037(盛 アオ)+マニ60 25 35(東スミ)
⑤スハフ44 21は回送扱い、自由席2等は2両のみでありましたが、それでも乗車率は50%くらいでありました。2等の座席指定や1等(グリーン)があるのは流石に急行で、当時はハザ、ロザ(多分半車は自由席で均周が使えたかな)がありますね。8両、実車4両でカマ2両。機関助士は2人(1人)いたとして6(4)人が動かしている。50人くらいしか乗っていないので、今なら単行運転士1人のワンマンである。贅沢な急行であります。
※食事をせねばならんので、有名ないかめしを、さらにかにめしを購入、食しています。いかめしは最近650円なので、この値上げは、他の駅弁より若干ペースが早いかも知れないですね。何しろ有名で、パッケージはこの頃から変わっていないし、色んなグッズも増えているようですから。
ところで編成調査中に、回送扱いの⑤号車は無人ではなかったのです。小林氏が調査中にがらっと開けると、そこにいたのは車内販売の女子販売員。業務の間に待機していたのであろう。小林お兄さんを見ると何やら少なからず不安の色が。こんな真面目な人に実にけしからん、と回想していましたが、そりゃそうでしょう。知らんおっさんが客が来ないはずの無人の客車に入り込むなんて・・。回路が完全に切れて無制御にはならなくて良かったとおもいますが、こんなことがあったとは2人は全く知りませんでした。
長万部から前補機を連結した強力な「ニセコ3号」は、上り下りの勾配があっても、ほぼ一定の速度で走り続ける。本務機の汽笛に答えての応笛、絶気のボーッ、ボッボッに対する補機のボーッ、ボッボッ。それに呼応してガクンガクンとショックが来るのは正に重連で牽引している証である。暮れ行く凍った車窓には白と灰色のまだら模様の煙が雪の木立の中を龍が踊るが如く後ろへ流れて行き、蒸機の息遣いのドラフト音が遠く近く伝わってくる。窓下の蒸気暖房からホワッとした暖気が上がってきてこんな贅沢な列車があるであろうか。至福のひととき、列車旅。やがて日没が近づき車窓の煙が認識できなくなって客車の振動と漏れ入るドラフト音、吹雪と格闘する蒸機からの微かな排気の匂いに包まれて「ニセコ3号」は山間を進んでいく。
次号は倶知安に着いてからの旅日記。いよいよ最豪雪の鉄路に入り込んで行きます。3人どうして行くのでしょうか。