第6日目 7月14日 その3
奇跡的にユジノサハリンスク鉄道歴史博物館のチリーキン・アンドレイ・ニコライ館長さんにお会い出来ました。この博物館の開館は月曜日~土曜日 8:30~17:30、休館は日曜日とはなっていますが、常時開いているわけではありません。連絡を受ければ開館するといったスタイルですので入場は運がよくなければ難しいのです。この難関だった問題が解決できたのは感激です。皆さん歓喜で入場しました。
▲ それほど記録はない展示室ですが、天井近くにまで所狭しと並んでいます。じっくりと読みたいのですが、すべてロシア語ですので写真を見ながら推測するしかないのが残念です。
▼ 後から見て興味深いところは訳してみようと写真だけはしっかりと撮ってきましたのでご覧ください。
▲ 当時の運行状況なのでしょうか、下は活躍していたろう蒸気機関車の拡大です。
▲ 樺太で活躍した蒸気機関車たちです。もう少しハッキリとした写真があるだろう期待していましたが、残されていなかったようです。ソ連時代に前照灯が3灯化されています。
【 樺太庁鉄道の蒸気機関車 】
コルサコフスク(大泊)~ウラジミロフカ(豊原)43.3㌔に軌条9㎏/mの5mレールで軍需品輸送のための600㎜ゲージの鉄路を敷設した時に導入されたのがドイツ製の双合機関車(車両番号不明)でした。
1906年(明治38年)9月24日から工事人夫約1,000人をもって55日間の工事期間で同年11月17日に軌条の敷設完了、12月1日には開通式が開催されています。2ケ月弱で完成できたとは驚きです。
1,067㎜への改軌も1910年(明治43年)6月から始まり10月には完了しています。11月3日には北海道から転出して来た機関車・客車によって大泊~豊原には列車が走り出しています。600㎜ゲージの蒸気機関車については詳細な内容についてはたどり着けませんでしたので1,067㎜ゲージの蒸気機関車について掲載させていただきます。
タンク式
形式1 (1C1)サドルタンク機関車 1912年(大正元年)アメリカン・ロコモティブ・ロジャース工場製造、鉄道省移管後は、3005形(3005)に改称された。晩年まで延伸工事に使用された。
形式 2(1C1)タンク機関車 1919年(大正8年)にアメリカのアメリカン・ロコモティブ・クック工場製造、西海岸線の本斗~真岡に使用されました。1922年(大正11年)6月16日付けで、3010形(3100~3106)に改称された。1943年(昭和18年)の樺太の内地化にともなう鉄道省への移管により、2940形(2940 – 2946)に再び改称された。
形式20 1Cテンダ機関車 1921年(大正10年)、アメリカのアメリカン・クック工場製造、番号20~24、8400~8404と改称されましたが、3010形と、同じ時期に8550~8554と改称されています。樺太西線に最初から配置されていました。
形式1530 Cテンダ機関車 1894年(明治27年)にシャープスチュアート製造、九州鉄道では25形(25、26)と称したが1909年(明治42年)に1530形(1530, 1531)と改称され、1915年(大正4年)8月に樺太庁鉄道に移管、川上岩山線、晩年は入換用として使用された。
形式5700(2-2) 2Bテンダ機関車 1897年(明治30年)~1906年(明治39年)の10年間にわたって、アメリカのスケネクタディ社から59両が導入されたうちの2両(5756、5757)が、樺太庁鉄道に移管された。
形式7750 1Cタンク式テンダ機関車 1893年ネルソン製造、10両が輸入されて東北の中山峠の25%勾配区間用として使用され、1925年(大正14年)に全車が樺太庁鉄道に移管された。
形式8620 1Cテンダ機関車 汽車製造で1922年(大正11年)、1924年(大正13年)、日立で1928年(昭和3年)、1929年(昭和4年)に15両が製造導入、東海岸線と支線、豊真線の主要列車の殆どの運用を引き受けました。鉄道輸送が好調だったことから1943年(昭和18年)に8両、1944年(昭和19年)に7両が内地から増強されています。主力機として活躍したようです。
形式8650(C50形) 1Cテンダ機関車 汽車製造と川崎で4両が1930(昭和5年)に製造導入、豊原に配属されました。
形式D50(9600形) 1Dテンダ機関車 川崎と日立で5両が1936年(昭和11年)に
製造導入、豊原に配属され、9600形に改番されることなく終戦に至ったそうです。
形式C58 1C1テンダ機関車 川崎車両、汽車製造で14両が1941年(昭和16年)と1942年(昭和17年)に14両が製造導入されました。当初はC51形とされたが、後に鉄道省に準じたC58形に改称されました。
形式C56 1Cテンダ機関車 日本車両で4両が製造導入され、ツンドラ地帯で路盤の軟弱だった敷香に配属されました。
形式C12 1C1タンク機関車 日立と日本車両で4両が製造導入され、恵須取に配属されました。
▲ こちらはソビエト連邦の本土で走っていた蒸気機関車のようです。
【 樺太庁鉄道の気動車 】
大泊~豊原を結ぶ旅客列車の快速化を図るために1931年(昭和6年)4月から「モダーン列車」と称して始まりました。
◀ 1934年(昭和9年)4月からは日本車両製のガソリン動車キハ2000形3両を投入して1日7往復を運行していました。全長は16,200㎜、車内にはストーブが設置されていました。
快速運行は好評だったのか1935年(昭和10年)には1周り大きいい全長18,000㎜の日本車両製キハ2100形4両が投入されました。1段上の流線型の気動車です。大泊港~栄浜にも投入されて、所要時間は2時間40分、大泊港~豊原は1時間8分で走破しています。前面中央窓には回転式硝子式窓付きが初めて取り付けられています。
1936年(昭和11年)には汽車会社製のキハ2300形が1両追加投入されていますが、どのように運用されたのかは不明です。
また1913年(大正2年)11月には汽車製造の蒸気動車2両が貸し出されて栄町~栄浜を平均速度約40km/hで1日1往復したそうですが購入まで至らず、現地にてBタンク機関車と客車に分離改造されています。
▲ 改軌なった1910年(明治43年)11月3日には1,067㎜ゲージでの車両が走り始めましたが当初は北海道炭鉱鉄道からの中古車両でしたが昭和に入ってからは木造2軸ボギー客車の新製車両を導入できるようになり1937年(昭和12年)には半鋼製2軸ボギー客車へと切り替わっていきました。
そして戦後はD51形機と一緒に客車が輸出されていきました。現在ではロシア本土製の1520㎜ゲージタイプの客車が台車を履き替えて使用されています。
▲ サハリン鉄道の将来図です。宗谷海峡には北海道とつながる大橋が、間宮海峡には海底トンネルでロシア本土と結ばれています。実現性はどうでしょうか?
Part 13へ続く
樺太の蒸気動車
若干誤認がありますので、余計なこととは存じれど蛇足を。明治末期開拓予算の増額に腐心した樺太庁長官が、貴族院/衆議院議員を招いてPRすることを発案。しかし樺太の車輌は北海道のお古ばかりで、その意を受けた政商が汽車会社に掛け合い、予算はないが将来払うとしてツケで蒸気動車2輌を購入し、接遇には成功。しかしこの車輌は北国の冬季には全く不向き(後進時加減弁操作のロッドが屋根上に露出していて凍結)であった。さらにシーメンス事件で内閣が倒れて官選長官が失脚。後任者は正式手続きを欠いた違法購入として支払いを拒絶。結果的に車体だけを優等客車として使い、2輌分の機関部は返品された。汽車会社は内1輌をBタンクに改装して長崎造船所に、他は5輌保有する台湾鉄道部に新品と偽って予備機関部として売り込んだ、というのが実情であります。詳細は拙著『日本の蒸気動車(上)』RM LIBRARY103をどうぞ。
湯口大先輩様、ご教示頂きましてありがとうございました。日本の蒸気動車を読んでから投稿すべきでしたが、しまい込んだようですぐに出てこず探すのを諦めてしまいました。鉄道ピクトリアル187号の小熊米雄氏の記事だけで済ませてしまいました。ここでは「機関部の行先は判明していない。」となっています。もう少し頑張って本を探すべきでした。申し訳ございません。
また誤認することがあろうかと思いますので、よろしくお願い申し上げます。
昭和20年代、ソ連支配下になってからの日本製蒸気機関車写真は貴重なものがありましたね。C58形は日本時代の写真を見たことがありません。各パネルを撮影されたのでしたら、翻訳してご発表ください。
不銹鋼號様、コメントをいただきまして、ありがとうございます。
写真はソビエト時代になってからが多かったですね。C58形の日本時代の写真はネットや本等で探しましたがありません。展示パネルは後で訳そうと丹念には撮りましたが、やり始めてみると単語を1文字づつ入力しますので時間がかかって途中で挫折しています。誰か手伝ってもらう方がないと進めないようです。