▲浦本~能生の海岸沿いを行くD51重連の長野発米原行き621レ D51 588〔糸〕+D51 178〔糸〕(昭和44年8月、以下同じ)
糸魚川~直江津の撮影では、下見の乗車をしたあと、糸魚川から折り返しの525レに乗って戻ります。糸魚川~梶屋敷~浦本は、現在線に腹付け線増されるため、梶屋敷、浦本の2駅は在来のままの改良で、架線も張り巡らされています。浦本からは、別線線増区間に入り、列車は架線のない単線区間に入って行きます。新線では、頸城トンネル(11353m)など4本の長大トンネルを掘削、能生、筒石、名立の3駅は山側へ移設、筒石は頸城トンネル内に地下駅で移設します。525レから、まず下車したのが能生でした。
▶能生に到着すると、D51 822〔糸〕の牽く貨物列車と交換
前回述べた能生の地滑りについて、詳しい資料が見つかったので、再掲すると、昭和38年3月、能生~筒石の白山トンネル北側で、大規模な地滑りが発生し、現場を通りかかったC5790の牽く敦賀発直江津行き225レのうち、機関車と客車1両は海岸付近まで流された。次の地滑りで流されるまで時間があって避難が行えたことで軽傷者だけで済んだ。しかし、170m流されて泥に埋まったC5790は、海岸でそのまま解体された。当時は、C57はほぼ全機そろっていた時代で、C57事故廃車の第一号となった。
糸魚川~直江津はフォッサマグナの西側にあたり、付近の糸魚川・静岡構造線の影響もあって、複雑な地質だった。北陸本線は建設時も、隆起や移動を繰り返したため、この区間の建設で10年以上掛かったと言う。▲能生駅のすぐ西に能生川の鉄橋があって、駅付近を俯瞰することができた。直江津発米原行き238レ▲同じく能生川を渡る下り貨物1573レ すぐ向こうは日本海で、能生の街は山が迫るところに、へばりつくようにしてあった。
もうひとつ、「能生」で思い起こすのが、「能生騒動」と言われる、幻の特急「白鳥」停車だ。昭和36年10月改正で誕生した特急「白鳥」は、能生で上下列車が運転停車して交換するダイヤになっていた。ところが、金鉄局が作った駅の時刻表に、上り「白鳥」の運転停車の時刻がそのまま載ってしまった。普通列車しか止まらない能生に、いきなりの特急停車を喜んだ地元は、運転初日、花束を用意して「白鳥」を迎えた。たしかに「白鳥」は停車した。ところが、乗務員に花束までは渡したものの、ドアは閉まったまま「白鳥」は発車して行ったのだった。
▲能生駅を出て能生川鉄橋に掛かる3673レ D51 618〔糸〕▲さらに浦本寄りに歩くと、国道とともに海岸沿いをようになる。敦賀発直江津行き223レ D51 707〔糸〕▲下り貨物列車 D51 782〔金〕 ここを走る蒸機は、客貨ともD51オンリーで、その点、興味は薄らぐが、正面から見て分かるように、敦賀式集煙装置を装備している。▲さらに歩くと山裾を巻くように大カーブがあって、上下の列車を捉えられた。2771レ D51 793〔金〕▲大カーブを行く8760レ D51 627〔金〕、よく見ると、デフの右側下部が切り取られている。添乗時のスペース確保なのだろうか。
白鳥号の能生停車騒動は小生も憶えています。しかし小生が知るのは白鳥が運転停車するのを伝え聞いた地元が営業停車と勘違いして町長(村長?)が思わず万歳を叫び、地元発展に期待したというものでした。金鉄局が時刻を発表したり当日花束贈呈があった、などというのは今回初めて知りました。そもそも36.10改正頃までは「運転停車」なる概念が殆どなかったため、停車=営業と思いこんだのは無理からぬことでした。
そう思って36.10当時の時刻表の西日本方面を繰ってみると、天鉄局・福鉄局、岡鉄局・広鉄局・四国総局など、すべての局で客車急行はもちろんのこと、停車中も戸閉が可能であるはずのDC急行・準急でさえ、今から思うととんでもないローカル駅に交換のため営業停車していました。このことからも金鉄局が間違って時刻を明示してしまったのも頷けるような気がします。
余談ですが電車線区である飯田線も見てみましたが、80系による準急「伊那」はたった2往復で、かつ準急同士の交換はダイヤ編成上の工夫ですべて本来の停車駅で行われていましたから、運転停車の必要はなかったようでした。他の線区もと考えましたが、そもそも単線電化&優等列車多数の線区が少なく、また時間の都合もあって調べきれていません。
このような背景を考えると、本件騒動の元になった能生の運転停車が特急であったことから、そもそも異例の措置であったと思われ、逆にこれから運転停車の概念が後年次第に拡がっていったのではないかと思います。
ところで写真の貨物レの列車番号を記されておられますが、列番がわかるような資料が当時既にあったのでしょうか?同じ昭和44年の冬に北海道に出向いた際には、旭川局宛に「ダイヤが欲しい」と頼み込みました。DRFCであること、北海道地区の輸送を研究したいこと、その一環としてSLの現状を知りたいこと、等々、今思うと歯の浮くような大義名分に美辞麗句を並べたてての懇願でした。出発の前日に落手できましたが計画立案には間に合わず、KAWANAKA氏、西村氏との3人で吉谷流スカタン旅行をしたのは北海道見聞録の通りです。
すみません。また脱線してしまいました。鉄道人やファンにあってはならないことですが。
1900生さま
長文のコメントをいただき、ありがとうございます。「白鳥」の能生停車については、漠然とは知っていましたが、今回、ネットを検索すると、金鉄局が誤って時刻掲載していたことを知りました。一次資料はないものかと探しましたが、当時の新聞(地方版かもしれません)に載っていたことまで分かりました。お書きのように、自動ドアの電車・気動車ならいざ知らず、当時主流だった客車では、客扱い停車か運転停車かの線引きは曖昧ですね。いろいろと調べていただいて、参考になりました。
さて、掲載の貨物の列車番号ですが、私も1900生さんと同じように、鉄道管理局へ手紙を書き、ダイヤを送ってもらうように依頼しました。まだ個人行動が許されていた時代で、どこも親切に送ってくださいました。一般に鉄道雑誌に列車ダイヤが公開されたのは、この昭和44年の12月号として発行された「鉄道ファン」の「蒸気機関車撮影地ガイド」が初めてと記憶しています。それまでは断片的にしか掲載されておらず、事前に局から入手しておくか、ぶっつけ本番、当日、駅で聞くしか方法はありませんでしたね。