地図を携えて線路端を歩いた日々 -21-

「地図シリーズ」、前回紹介の北陸本線糸魚川~直江津からもう少し北、羽越本線を採り上げました。北陸本線と同じく日本海縦貫線の一翼を担いますが、初めて訪れた昭和44年時点でも、全区間が非電化で蒸機が活躍し、旅客用にはC57が健在で、その後も何度か訪れたものでした。優れた撮影地が各地にありましたが、とくに断崖絶壁、奇岩の佇立する“笹川流れ”を中心に紹介します。
270キロもある羽越本線の始発駅は新津。その新津駅の待合室で一泊したあと、始発の列車に乗って新津を出発した。まもなく見渡す限りの稲田が広がり、これが越後平野だと納得した。新幹線以外では、当時、日本一長かった阿賀野川橋梁に掛かるころ、朝陽が列車に反射し、睡眠不足も吹き飛んで、撮影意欲が湧いてきた。

 始発の新津を出て、広大な米どころを一直線で駆け抜けると、村上からは、一転して山が海まで迫った急崖が続く区間となる。まもなく通るのが、大岩小岩の奇岩が屹立する「笹川流れ」だ。羽越本線は、短いトンネルで断崖絶壁を抜ける。早川、桑川、今川、越後寒川と、川のつく駅が四つも連続する。山が海岸に迫り出した地で、谷あいを流れる川は、貴重な水源だったのだろう。駅名からも、この地での自然環境の険しさを感じる。驚いたのは並行する道路だった。現在の国道345号に相当する道路だが、未舗装、素掘りのトンネルが続き、当時でもめったに見られない光景だった。笹川流れの中央に位置する今川で、羽越本線下車の第一歩を印した。

五万分の一地形図「笹川」に加筆

 

 

 


今川は信号場として昭和19年に開設され、戦後、旅客扱いを開始した。時刻表には当時「(臨)今川」と表示され、すべての普通列車が停車した。写真のように、相当の乗降客が見られた 821レ C57 19〔酒〕 (昭和46年2月)
積雪こそないが、寒風が吹きすさぶ寒村は、鉛色に沈んでいた。無我夢中で崖を駆け上り、C57の通過を待った。今川 2048レ C57 103〔酒〕(昭和46年2月)

信号場として開設された今川は、交換に無駄な停車時間が生じないよう、両隣の桑川、越後寒川のほぼ中間に設けられた。たまたま、その付近に人家があり、信号場ながら乗降扱いを行ったのだろう。時刻表にも記載があるが、臨時駅の扱いのため、キロ程の表記はなく、乗車券は一駅先まで買わなければならない。カーブした駅構内を通過する、DD51牽引の荷物列車、D51の牽くコンテナ貨物列車(昭和46年2月)
今川駅の構内からは、海岸の岩礁群が望見できた(昭和44年8月)。
当時の国鉄職員の夏服も懐かしい。乗車したキハ17系の列車と、D51の牽く荷物列車が交換する(昭和46年8月)。

下りホームには、浮き輪に「水」と書かれた水飲み場があった(昭和44年8月)。待合室の向こうには藁葺き屋根の民家が残っていた。未舗装の国道と言い、まだ近代化とは無縁のような地域だった(昭和46年2月)。

 地図を携えて線路端を歩いた日々 -21-」への5件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員さま
    いい写真ですね。小生も昭和47年11月5日に訪れました。仕事を終えて夜行の急行きたぐにで向かいましたが、当時きたぐに号はうまい具合に今川に運転停車するダイヤでした。そこで翌朝新潟を過ぎてから車掌に頼み込んで今川駅で下車し、現地集合でkawanakaさんと合流し今川北方のカーブから撮影を始めました。仰るように撮影地に向かう道路は我々が普通にイメージする国道とは程遠く、まず未舗装に驚かされ次に素掘りのトンネルに仰天したものでした。しかし列車といえばD51やC57の牽く列車がひっきりなしに往来し、どのタイミングで次のポイントへ移動するか迷うほどの贅沢なシーンの連続でした。
    桑川か寒川でも撮ったと思いますがもう記憶は薄れてしまいました。余談ですがこの日は日没後の列車で新津まで戻り、小生は翌日からの会津線に向かうため会津若松行に、kawanakaさんは帰阪のため大阪行きたぐに号の寝台車にそれぞれ乗りました。この寝台券は当初小生が帰阪用に購入していたものを譲りましたが、このきたぐに号が当日深夜に発生した北陸トンネル火災事故直後の混乱に遭遇し、後々までえらい寝台券をつかまされたと恨み節を聞くことになりました。
    ところでこの笹川流れではちょっと気になったことがありました。後にこれが大きな社会問題になるとは想像もできなかったのですが、撮影地近辺は地図を見るまでもなく海岸沿いです。移動中や昼食に入った食堂などでやたら多くの巡回員の姿を見かけたのです。実際声をかけられたこともありました(我々に対して失礼な!)。当時は密漁者のパトロールだろうくらいの認識でしたが、後年北朝鮮による拉致問題を聞くに及んで、時期的に近かったこともあり、あれは実はそのためのパトではなかったかと思ったものです。
    いずれにしてもSL末期の贅沢な撮影日でした。

    • kawanaka氏も感謝しなければいけません。
      運よくも当該列車に乗らずに対向列車であったことは幸運です。死傷者の方には申し訳ないのですが、鉄道趣味者には大事件の証人として君臨できるからです。でもあの事件は昭和47年(1972年)だったのですね。(オシ17 石炭レンジ)

  2. 1900生さま
    いつもコメント、ありがとうございます。最初の昭和47年11月5日の日付を見て、「もしや」と思っていましたが、やはり北陸トンネル事故の前日に、笹川流れを訪れられていたのですか、下り「きたぐに」で4日晩に大阪を出られたことになり、事故列車は5日の晩の大阪発ですから、一日違いだったわけですね。
    日本海沿いでの警備・尋問は、当会の五能線合宿でもテントまで警察の調べを受けるなど、沿岸一帯で行われていたようですね。

  3. 総本家青信号特派員様
    テーマとマッチングする車両や風景等に工夫を凝らしたシリーズものはいつも楽しみです。私も今回の笹川流れの区間は大学卒業後にDRFCの皆さんと一緒に撮影したことが何度かあります。海辺の旅館の裏に線路があり、波の音を聞きながら布団に入るも時々D51であろう豪快な通過音が聞けたのも懐かしい思い出です。C57おばはんはこのあたりでは旅客列車にも数多く進出していたD51に比較してクイーンのような感じがしたのも事実です。最近は名ドライバークモハ73106東ウラさんのおかげで上越線や磐越西線と兼ねて日帰り撮影もしました。

    • 準特急様
      いつもコメントをいただき、ありがとうございます。準特急さまも、何度か笹川流れへ行かれたこと、以前にも聞かせていただきました。加太の村田屋のような旅館が沿線にあったのでしょうか。加太ほどのドラフト音はなかったかもしれませんが、波の音ともにD51の通過音が聞けるのも、これはこれでオツなものだったのでしょう。いまや道路が発達し、羽越本線といえども、日帰り圏内に入ったのですね。

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