標茶町営軌道を訪れたのは、昭和44年9月6日一度だけである。当日の行動を振り返ると、早朝に釧路市内のYHを出発し、駅前のバスターミナルより新幌呂行のバスに乗り、下幌呂で降りた。目的は廃止された鶴居村営軌道の車両を見るためであった。前日、浜中町営軌道の方から「鶴居村営軌道の車両が未だ残っていると思う」と言われたので、急遽釧路臨海鉄道に行く予定を変更した。雪裡線と幌呂線の分岐する下幌呂に行けば何かあるだろうと思い下幌呂で降りたのであるが、道端にレールの残骸が散らばっていた程度で鉄道車両らしきものは何もなく、通りかかった人に聞いたところ「車庫が役場の近くにあったのでそこではないか」と言われた。役場の場所は中雪裡である。中雪裡を通る川湯温泉行のバスは先程通過したばかりで、次のバスは2時間後のため、やむなく釧路に引き返した。釧路からは9時10分発急行「大雪3号」に乗車、途中の五十石駅でC58127の引く客車列車(623レ)と交換して10時1分に標茶に到着。駅前の道路を真っ直ぐ進み、釧路川にかかる開運橋を渡ると町営軌道の開運町駅であった。構内にはDLが1両、2個ライトの自走客車が1両、廃車になった牽引客車が1両停まっていた。事務所に挨拶に行き、お話を伺うと、自走客車は3両あり、1両は先程上御卒別行で出て行き、1両は沼幌線で使用するため中御卒別にいるとのこと。次の11時50分発の上御卒別行で往復したかったのであるが、午後の予定の雄別鉄道に行けなくなるため諦めた。後日、標茶町のパンフレットと一緒に乗車券、時刻表、運賃表等をお送りいただいたが、中でも開運町で発売されている乗車券は行先毎に色が変えられており、非常に凝ったものであった。残念ながら現物が京都の実家にあるため、今回お見せできないが、実家に帰った時に持ち帰りたいと思っている。開運町には1時間余り滞在後、「しれとこ2号」で釧路に戻り、雄別鉄道を訪れた。
【沿革】
標茶町営軌道は、簡易軌道の中で最も新しく、昭和26年5月に開運町~上御卒別間22.5キロを第1期工事として起工、地元の強い要請により昭和29年冬に14キロ地点の神社前までの工事が完成した時点で運行を開始し、昭和33年12月に全線が完成した。昭和34年より第2期工事として開運町~標茶駅前間1.7キロを起工、昭和36年11月に完成したが、予想に反して利用者が少なく、昭和42年1月に運転休止となった。中御卒別より分岐する沼幌支線は昭和39年6月に起工、昭和41年6月より中御卒別~沼幌間6.4キロの運行を開始したが、既に道路の整備が進んでいたため学生の通学利用程度しか需要がなく、4年後の昭和45年11月に運転を休止した。開運町~上御卒別間も昭和46年8月16日に廃線式が実施され、町有バスの運行に切り替えられた。
【車両】
昭和44年10月1日時点での在籍車両は次の通りである。
ディーゼル機関車4両、内訳/加藤製作所製(KE-21、昭和36年9月購入)・釧路製作所製(KE-25、昭和39年10月購入)・日本輸送機製(DA-57、昭和29年6月購入)・北炭夕張製(DA-120、昭和40年12月購入)
自走客車3両、内訳/釧路製作所製(DS-22、昭和33年11月購入)・泰和車両製(DS-40、昭和36年11月購入)・泰和車両製(DS-60、昭和40年11月購入)
ロータリー車1両、泰和車両製(DH-100、昭和38年5月購入)、保線用モーターカー3両、有蓋貨車1両、無蓋貨車7両
上記以外に廃車済車両として酒井車両製ディーゼル機関車(DB-50、昭和28年7月購入)、牽引客車(昭和32年運輸工業製)が残存していた。
【運行】
昭和44年10月1日時点での運行状況は次の通りである。
標茶本線 開運町~上御卒別間旅客列車3往復(日祭日は2往復)貨物列車、1月~4月1往復、沼幌支線1往復(日祭日は運休)
下り/開運町発8時50分(休日運休)、11時50分、15時40分、上り/上御卒別発7時20分、10時20分(休日運休)、14時00分
貨物列車 下り/開運町発15時00分、上り/上御卒別発7時30分(下りの休日のみ混合列車として運転)
沼幌支線 下り/中御卒別発16時20分(開運町15時40分発に連絡)、上り/沼幌発7時20分(上御卒別発7時20分に連絡)
所要時間は旅客列車が1時間、貨物列車が下り1時間20分、上り1時間50分、沼幌支線15分となっている。厚生、神社前、中御卒別が交換可能である。
道路の整備が進み、農家のほとんどが自家用車を保有しているため、乗客の大半が通学生で、標茶本線が50名、沼幌支線が7名位である。貨物は本線開通時は木材、木炭等相当の輸送量があったが皆無に等しい。冬季は道路が積雪により悪路になるため、1月~4月のみ牛乳運搬用に貨物列車を運行している。
以上のような状況から昭和45年度政府からの補助金が打切られると廃止はやむをえぬものとされていた。
40年泰和車両製の自走客車
32年運輸工業製の牽引客車
40年北炭夕張製の6tDL
39年釧路製作所製の6tDL
28年酒井車両製の8tDL
時刻表/発着時刻はすべて5分単位である。
五十石駅で交換した623レのC58127
【昭和44年】
畢生、まだ小学校4年の時のことですが、今見ると、名神に接続する
東名高速が全通し、翌年の大阪万博への、まさに凱旋道路が貫通した
のもこの年です。
先日、昭和時代のレコードを並べた酒場で、「思い出のメロディー」の
記憶に酔いしれましたが、ヒット歌謡1曲で、蔵の建ちそうな時代でした。
この時代に、浮き足立った、大阪周辺。変わりゆく万博の玄関口へと
変貌遂げる私鉄各ターミナルや、消え往く大阪神戸の路面電車。
湖岸に別れを告げる江若鉄道などの風物詩をよそに、北辺の、まさに
辺境の、簡易軌道に足を運ばれた、諸氏のレポートには本当に頭が
下がります。
ゴーゴー喫茶やボウリングに目もくれず、「そこにレールがあるから」
だけの理由で、標茶や鶴居村まで長駆遠征された情熱は「あのころの
青春」だけでは、語りきれない面白さを感じて、熱く心に残りました。
それと昭和40年には、まだやる気十分であった標茶軌道が、たった
数年後にジ・エンドになった経緯。いまなら田舎の新聞に「ずさんな見通し」
と3面トップで叩かれそうな急展開。
この間の、ムラと日本や世界の情勢の変化とは、何であったのかと、
非常に興味関心を深く抱きました。
駆け上がっていく、経済国日本。空を見上げれば、人類はついにあの
月に到達するという、科学、産業こそ万能であったこの年に、
ひっそりと北海道の端にある簡易軌道に目を向けて、訪ねるという行為。
鉄道好きな者だけにわかる深層心理と、貴重な記録の発掘にただ、
感嘆しているだけの41年後の自分が、そこに居ました。