米手氏からの「元祖青信号特派員氏への業務連絡」のなかで、平機関区が登場しました。私も昭和43年3月末に一度だけ平機関区を訪ねていますので、53年も前のネガを引っ張り出してみました。高校の卒業式を済ませ、DRFCに入学するまでの宙ぶらりんの時期に友人と東北を旅し、花輪線でハチロクを堪能して京都へ戻る最後に平に立ち寄りました。雨模様のため、今一つ楽しめなかった記憶がありますが、D60をま近かに見れて満足でした。短時間でしたが、何枚かの写真を撮っていますのでご紹介します。例の給砂機はチラッとしか写っていません。
私が平機関区を訪れたのが昭和40年8月ですから西村さんの二年半前です。でも中身はすっかり変わっています。
失礼!これはその前の時でした。昭和38年8月です。
この頃は、補助灯が付く前ですね! スッキリしていて、憧れます。補助灯も主灯が旧型のままなら、未だ様になりますが、郡山区のD60や、一ノ関区のD62のように、両方ともシールドビーム灯となると、なんだかなぁ・・・と云う印象が、残っています。
常磐線電化完成の直前、いっとき途切れていたC62牽引特急が「ゆうづる」として、復活しました。わずか2年ではあったが、この間に平機関区を訪れたファンは、相当な人数だったでしょう。しかし、その後は訪問した方も少なかったのでは。してみると西村さんの記録は貴重です。ハドソン3形式の陰になり、同区の86、96には関心が集まらなかったようです。しかし投稿された正面プレートが形式入りの9657や、給水温め器装備の、19697、29620など珍しい機が居りました。また随分後の製造なのにS字キャブの58660なども思い出されます。懐かしいですね。
西村雅幸さん、お尋ねします。
スヌ31の左に写っている客車の番号を教えて下さい。スハ32に思えるのですがヘッダーがないように見えます。
米手様
細かいところまでご覧頂き恐縮です。元の写真のピントが甘く、判読しづらいのですが、サボは「原ノ町行」のようです。車番はスハフ322073か322078に見えます。撮影は昭和43年3月ですが、昭和40年の車両配置表では、盛岡区にスハフ322073が配置されています。青森区には322068,322069がいます。平区、水戸区、尾久区にはそれらしい番号は見当たりません。盛岡区の2073が常磐線に入ってくることもあり得るように思いますので、2073ということにさせて下さい。ところで、ヘッダーなしの32系が存在したのですか?
あります。
これです。スハ32374(中ヒロ)
米手さん、写真を拡大すると、ヘッダーはあるように見えますが如何でしょうか。
ヘッダー無しのスハ32は、昭和11、12年、鷹取工場製の259~264、361~366、579~588と昭和12、13年、小倉工場製の367~369、569~578が該当しますが、スハフ32は無かったと思います。
画像は、昭和40年8月28日、京都駅、姫路発東京行の144レに連結されていた、スハ32571です。
姫路発12時55分、京都発16時42分で東京着が4時56分でした。静岡までは各駅に停車して、以遠は快速運転でした。
因みに昭和35年7月、林間学校で、この列車で東京まで行き、上野から高崎まで高崎線の快速電車(3枚窓のクハ86)、そこから草軽電鉄の貸切バスで安中の新島 襄先生の生家を訪ね、中軽井沢の星野温泉に行きました。
藤本さん、失礼しました。
「写真を拡大すると、ヘッダーはあるように見えますが」は
西村さんの写真のことですね?私も拡大しましたらヘッダーがあるようにも見えますね。これは私の見間違いかも知れません。でも、珍しい写真が日の目を見たことで許して下さい。
藤本さん
拡大写真をご覧下さい。“むしり取った跡”は見えますがヘッダーはありません。
個人的な推察ですが、製造時からヘッダーなしはお説の通りですが、後々改造や事故などで復旧時に改造されたと言うことはないでしょうか?
昨日のヘッダーなしスハ32の車号は、ピク誌を信用して記載しましたが、昭和13年小倉工場製の373~376もノーヘッダー車であった可能性が高いことが判明しました。
米手さんが撮影されたスハ32374は、このグループに含まれています。
もう1枚、昭和39年8月16日撮影のスハ32570を貼りました。
本題からそれて申し訳ありませんが、昭和41年1月8日、
京都駅、スハフ32400です。
旭アサ(旭川) の客車が、臨時急行「第2雲仙」に連結されていました。
藤本さん
お礼の品です。急行「宗谷」に使用中のキハ28409(米ヨナ)です。
昭和39年12月25日、京都駅、第2高千穂の大分回転車に連結されていたオハフ6013(札ムロ/室蘭)です。
これで九州まで!?
こんなんもありました。
昭和38年12月25日、第2高千穂に連結されていた、オハ6262(函ハコ)です。この車は背摺りはモケット張りになっていました。
藤本哲男様
15~6歳でこのような鋼体化改造客車と伝統の急行名板を組み合わせた写真を撮られていたとは驚きです。小学校修学旅行時の神都電車の編成等を克明に記憶されていることにも感心しておりました。正しく鉄道天才少年を感じます。