先日の江若鉄道に続き、今度はびわこ号と、地元民にとって懐かしい話題が続きます。私は大津駅の近くに住んでいますが、小さいころは京都に行くときは大抵の場合京津線を使っていました。昭和40年ころの時刻表を見ると、当時の国鉄は日中1時間に2~3本程度、これに対して京津線は急行、普通が1時間に3本ずつ、急行といっても所要時間は3分しか違いませんから、どちらに乗っても変わりません。また、京都駅周辺は丸物しかなく、買い物、遊びは河原町ですから、利便性からも京津線に軍配があがります。
小学校の遠足となると貸切電車で最寄の上関寺(昭和46年8月廃止)から乗車します。このときに乗ったのがびわこ号、当時はもう通常の運用からは外れていたのではないでしょうか。高校生時代には石坂線で通学していましたが、朝のラッシュ時は錦織車庫に転属になったびわこ号が走っており、ちょうど学校にぎりぎりに着く時間の電車がびわこ号でよく利用しました。石坂線沿線は高校が5つあり、通学時間帯は超満員、乗車駅の島ノ関で乗れずに遅刻したこともたびたびありました。
その当時はSLブームが起こった時代で、地元の旧型電車にはあまり興味がなく、残念ながら地元にいながら、ほとんど写真がなくて、古いネガを見ると錦織車庫で撮った数枚の写真があるだけで走行中の写真は見当たりませんでした。
びわこ号復活の話はうれしいことですが、地元民として残念なのは寝屋川市と京阪がタイアップしてやるとの事、今となっては大津線への乗り入れは不可能となっているものの、来年は大津線100周年でもあり、錦織車庫で復元して大津線で動かしたいところでした。
昭和43年8月錦織車庫にて
「びわこ」について話題が復活して嬉しいようで、どうでもいい話でも、と言った心境にある。沢村さんと「びわこ」が本線(京阪本線に限らない)上を走らすことが可能かどうかについて玄人と素人が真剣に話し合ったのは二十年ぐらい前の事であった。その発端は吉川文夫さんが枚方公園に保存中の「びわこ」が見たいとの申し入れがあり、小林さんの斡旋で開園前に実現した。その時、床下に潜り機器配置を澤村さんに聞きながらメモしておられた吉川さんから「鉄道産業遺産として動態に出来ないものか」と問いかけがあった。澤村さんは「ウゥーン」と絶句してしまった。その後、京市交・東西線開通前夜、澤村さんと老人は「エリエイ社」が都ホテルで開催した「京津線を送る会」に招待された。その席にあって「びわこ」動態化は会社としては無理だと、きっぱり仰った。でも2人は折に触れ玄人は玄人なりに、素人は素人なりに、夢を「動態保存について」ぶつけ合っていた。デナ21形廃車後、台車がまだ残っていると聞き、彼は問い合わせていた。彼が問題にしていたのは台車であった。構内を動かすくらいなら「どうにでもなる。今ついている両端台車はごっつ過ぎて走行に無理があるからアカン」と言っていた。叡電600形引退の時、彼の誘いで同行したが、あの和製(川重製)BW・78-25-AA台車は「びわこに無理!」であった。因みに阪神からやってきた台車は全て和製のものと聞いている。石坂線700形は後2両増備計画があり、浜大津の350形の車体2ケと共に機器類も錦織に残されていた。検査回帰が緩くなった事により中止となり、今は予備部品となっている。どうするのか、お手並み拝見と参ろう。
「びわこ」にはMGがない。変電所が負荷一杯で、ノッチを入れた「びわこ」だけでなく、対向線路を走る他の電車の室内灯まで極端に暗くなった。それ程「びわこ」は京津線では電気喰いだった。
素人には分らないが、モーターは1500V用に変えたとして、MGを新たに積むスペースがある?今日のことだから、他の方法で100Vを得るのは簡単としても、1500Vとなれば、抵抗器も交換しないとアカンのとちゃいますか。床下はそう広いとも思えないから、入換用の旧72号みたいに、室内に機器を並べるわけにはいかんじゃろうて。そりゃ走れればいいに決まっているし、ポール時代の京津線で15年間育った老人は嬉しい限りだが。
お二人からコメントいただいたものの、何度読み返しても、恥ずかしながら内容が難しすぎて理解できませんが、改造予算が確か8000万とかいうことと合わせ、改造は簡単ではないということがよくわかりました。それでもやはり復活はしてほしいし、走るなら大津線でできないかと願っています。