小生が好きな電車のうちでも、特に好きなのが田舎電気軌道で、具体的に名を挙げれば、北から花巻電鉄鉛線、秋保電鉄、駿豆鉄道三島軌道線、松本電鉄浅間線、それに今回の静岡鉄道秋葉線である。しばらく投稿ブランクが続いたが、秋葉線のクラシックな車両をご覧頂きたい。車歴云々は小生の出る幕ではなく、当然に乙訓老人の役割であろう。遅滞なく義務を果たされんことを。静岡市内線からの転属車もある。
歴史は古く、1902年12月28日秋葉馬車鉄道として、森町-袋井駅間7哩41鎖開業。軌間は2尺5寸ともされるが、2フィート6インチであろう。1909年12月31日現在では客車10、貨車7、馬匹17頭、御者10、車掌6人と、第19回(内務省)「土木局統計年報」(1911年刊行)にある。1911年12月28日には可睡口-可睡間1哩余の支線も開業。1923年6月23日駿遠電気に併合され、1925年1067mm改軌及び電化。
サブロクになっても国鉄線と全く繋がっておらず、当然貨車が直通しなかったのは、秋保電鉄とも共通する。線路が規格とも著しく貧弱で、到底国鉄側の貨車は入れないし、静鉄側の貨車は国鉄線に直通できる代物ではない。だから最後まで連結器は連環式(螺旋による緊締装置を欠く3連環)で遊間は広く、当然バッファーを備えていた。
それらの車体から何までが、まあ時代がかっていたこと。末期こそポールもYゲル化に、電動車は秋保同様車体をそのままボギー化もされ、付随車では屋根がダブルから丸屋根化されたものもあったとはいえ、それ以上の近代化投資はなく、1962年9月20日廃止された。可睡支線は1945年1月1日以来休止し続け、そのまま同日付廃止。
初めて見参に及んだのは、高校を卒業し即浪人と化した1955年3月、九州から東北を駆け足で一回りした、行程では最終に近い3月31日。駿遠線は悪天候でロクに写真が撮れなかったが、秋葉線では皮肉にも天気が回復し、何枚かを撮影した。
その後2回ほど行き、奥まで乗車して尋常ならざる見聞をした。一つは雨上がりだったが、線路班の爺さまが一人添乗してきた。お定まりの巻脚絆(ゲートル)姿だが、通常の地下足袋ではなく、ゴム長を穿ち、ビーター(線路バラス搗固め専用鶴嘴)ならぬ、竹箒を逆手に持っているのは謡曲「高砂」の翁なみ?。それも「昔は確かに竹箒だった」という、とことんちびて、あたかもササラに柄をつけたような超古い代物である。
このあたりも新設軌道ではあるが狭いこと
2軸単車をボギー化したモハ7 秋保電鉄と同様である 橋はコンクリート製
電車はのんびりと奥へ向う。とある停留場で、運転手がノッチを入れても、電車はビクとも動かない。と、件の爺さまに声がかかり、オウッと箒を持って近くの水路に行き、ざぶんと竹箒の先端を突っ込み、電車に戻り、やおら車輪とレールの間に突っ込んでゴソゴソと。
さて読者諸兄、ここでクエスチョンです。この線路班の爺さまは、一体何をしたのでしょうか。
実は道路の片側に併用した線路なのだが、舗装してない路面は穴ぼこだらけ。そこに先ほど降った雨でいたるところ泥水溜まりだらけ。時折通るバスやトラックがたっぷりと泥水を撥ね、それがレールの上で乾き―が重なってレール踏面に泥が積もり、いわば絶縁状態になってエレキテルが通じなかったのである。
止まる前は惰行だから停留場にまでは到達できる。ところが発進ができないため、かの爺さまが添乗していた次第であった。こんな事情が飲み込めるのには、正直しばらく時間を要した。ちびた=ささら同然の箒の方が泥を払うのに都合がよく、また濡らしているから、ともかくは通電し、目出度く電車は発進できた。動き出してしまうと電車の重みで、何とかエレキは通うらしいことも、線路班員が場違いなゴム長だった事情も理解に到達できた。ただこの一件をカメラに収めていないのが心残りである。
続行運行列車との離合 先頭電車妻の向って左側窓下部の円盤は「続行車あり」の標識 スタフは後尾の電車が保持
ここだけでしか経験しなかった話をもう一つ。
離合場所に先着した小生乗車の電車の運転手は、停車し降車客扱いが終わると、やおらスタフを手にして下車。交換する電車はまだ現れていないのに、と訝しく思っていると、線路脇にある、あたかも米国郊外住宅の郵便受けをスパルタンにしたような鉄箱を鍵で開け、スタフを納めてまた施錠。この時には到着していた離合電車の運転手からスタフを受け取って、そのまま発車。反対側の運転手は、やはり鍵で鉄箱を開け、スタフを取り出して施錠し、乗務に戻った。
要は先着した電車が交換すべきスタフを鉄箱に納め、遅れて到着した方の運転手はスタフを前者に手渡したのち、自分が携帯すべきスタフを鉄箱から取り出すという、他線では見たことのないシステムであった。わざと手間をかけることで安全を確保していた次第で、恐らくは以前に事故―不都合があって、かように改めたものと思われる。
スタフは単線での最も簡単な保安方式で、この線では陸上競技リレーでのバトンを少し太くしたような木棒の先端に、真鍮の丸や三角などの、閉塞区間を示す標識がついたオーソドックスなもの。先般アップした松本電鉄浅間線では、通常のタブレット玉をキャリアと共にスタフとして使っていたが。
終点遠州森町に近く ここは新設軌道である
遠州森町 付随客車の付け替えは南に向っての下り勾配を利用してブレーキを緩め自然移動(降下)させる
袋井市街だけは流石に舗装されているが片側に寄せた敷設なのは、道幅が中央敷設に不足するからで、本来かような市街地=「家屋連たん地域」では道路を拡幅て中央に敷設すべきなのだが。この時点目抜き通りには、地方都市としての活気が満ちていた。
なお和久田康雄『私鉄史ハンドブック』114頁を見ると、この線の掲載誌として「急電101号」とあるではないか。すっかり忘却の彼方と化していたが、これは故奥野利夫氏主宰京都鉄道同好会誌「急電」の1960年夏季別冊で、DRFCメンバーが執筆し、若かりし日の乙訓老人と小生がほとんど全部筆耕(ガリ版=謄写印刷)した「私鉄リポート集」である。
その中で「地方軌道短信」として、北海道簡易軌道(歌登、浜中、鶴居の各村営軌道)と、この秋葉線をちょっぴり触れたもの。秋葉線に関してはモハ7、8のボギー化日付(1958年2月/6月、山梨工場施工)、Yゲル化は1958年10月、ハの丸屋根化が進行中と記している。半世紀以上昔の話であった。
須磨の大人にあっては乙訓の出番を期待しているようであるが、残念ながら廃線前の秋に乗りに行っただけである。東レ三島工場での製品納入の立会いを済ませ、袋井に急いだ。通学生(高校生?)との超満員の中、ブリル21E軸箱流用の珍ボギー台車で一往復、その後は夜行列車で米原へ。下宿に帰宅したのは翌昼前であった事を今でも覚えている。目的は珍ボギー台車を見るのが目的であった。この話を吉川文夫さんに話したら、氏の出版物を20年ばかり前に頂戴した。「玉手箱」にある筈だから、明日には探してみることにしよう。
上から3枚目のデワ1は現在も静鉄に動態保存されてる車両ですね。
パンタグラフは改造されていますが。。。。
先日亡くなった、袋井可睡あたり生まれの義父にこの写真を見せたら、たいそう喜んでおりました。ありがとうございました。いちばん古いデワの写真なんか、1955=昭和30年ですか。ぎりぎり、チャーリーパーカーが生きていた時代、何ともファンタスティックです。