賛書は千秋楽を迎えるのか 花巻電鉄の巻

3月下旬、やっと湯口兄のRM LIBRARY 176 花巻電鉄(上)が ネコ・パブりッシングから上梓された。やるぞ!と数年前、いやもっと以前の資料集め段階から決意を聞かされ続けた著作である。地の利を得ての調査によるまとめ、執筆ならいざ知らず、関西から国鉄在来線で1,050余㎞もある遠隔地の小鉄道、歴史をまとめた賛書である。本来1年前に上梓される筈が「新しい資料と写真が見付かった、ちょっと現地へ行って来るから延期!」と言ってきた。それが大当たりとなって「大枚はたいて行った甲斐があった。創業当時の写真の提供もあった。やっぱり行くものやなぁ」と、言ってきた。そしてボタン桜満開のころ、RM 177(中):中卷が上梓された。期待を裏切らない内容で構成され、彼の拘りと努力に敬意を表する次第である。

勝手な言い草だが、上巻刊行の時に紹介しなかったのは、戦前の車両説明が揃ってから講読された方が、車両発達史は理解し易いのではないかと思ったからである。それほどに車両の変遷は例え極少両数であっても老人にはわからない点があり、過去に説明を受けたにもかかわらず車庫火災のところで行き詰ったのである。それらは2巻揃ったところで解決したように思われる。

湯口兄は以前、デジ青【13832】、【13885】で沿線光景を軌道線、鉄道線に分けて紹介されたが、併用軌道でありながら何故あんな酷いところを走っていたのか、そのなぞ解きは上巻で解明された。法事国家である日本では信じられない話が出てくるが、100年前の日本の片隅では法令を無視、いや誤魔化しがまかり通ったのかと思えるが、弱小資本でありながら鉄道敷設に向けての情熱が然らしめたのであると理解したい。それを追う様に詳細な図面が田舎電車でも整備され、貴賓車まであった話しには「参った!」と敬意を表す老人である。そして連結器の解説は興味深く、さすが軽便の虫ならではの視点である。車体形状、車両性能、車内設備等を中心に特急、急行の速度、サービスの話に傾注していた若いころの老人と、世代が一味も二味も違う世界の人のように、湯口兄は見えてくるのである。

この愉快な細面の電車が走る花巻電鉄は早くから知られていたが、その実態となると創業期の事が謎となっていた。しかし、国鉄花巻駅に隣接して乗り場、車庫があり、関東圏の電車ファンは早くから訪れていた。ところが発表がなかったのはどうゆう事なのか?。DRFC会誌「青信号」5号(1960年2月刊)は湯口兄が表紙絵をガリ切りしている。その絵のモデルとなったのは軌道線デハ5号、木造ボギー車の馬面電車であり、興味をそそる車両であった。その彼に花巻電鉄の事を教えられた老人は1959年9月20日に訪問、在籍車両調査結果を京都鉄道趣味同好会誌「急電」101号(1960年7月刊)に掲載している。この時、午前中は栗原電鉄、午後に花巻電鉄を訪問、車庫で竣工図を見せていただいた。そして軌道線は15円区間往復、鉄道線は35円区間往復乗車している。鉄道線が長いのは車庫でのお勧めに従った迄で、終点花巻温泉でゆっくり温泉に浸り旅の疲れを落とすことができたのであった。大きく円形の立派な温泉建屋は、5年前に浸かった道後温泉とは趣の違ったものとして、今も忘れられない。入湯料は5円とメモがあるが、この頃の京都の銭湯は15円であったが、車庫で「花巻温泉に浸かってらっしゃい」と、木の鑑札を渡され番台では5円となった次第である。思い返せばよき時代であった。

さて湯口兄は5月発刊の下巻で執筆終わりだと言っている。まだ八十路に入っていない、元気をださんかい!と言いたい。でも1979年の「簡易鉄道見聞録」以来35年になり、ホッとしたいのであろう。その気持ちは分かるとして、路傍の草のように鉄道趣味者から取り上げられる機会の少なかった田舎の鉄道を探索して回った話を、恒例行事になったホームカミングデイで、DRFCの後輩たちにしてくれないだろうか。老人も拝聴させて頂きたい。

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