越前と南越鉄道

越前は福井県であることは良く知られている。ところで越前市とは何処にあるのかご存知かな?老人は2006年盆休み、北陸の電車探訪の旅で最初に立ち寄ったのは武生市だが、前年2005年10月に東隣の今立町と合併し越前市と名乗った事など知らなかった。北に越前町、南に南越前町があるのに、武生はその昔、越前の国府があったと、強引に命名された越前市らしい。

隣接する鯖江市に単身赴任している趣友(36才)から4月末に電話があり、南越線開業100周年記念事業に応援してほしいと相談を受けた。以前所属していた日本トロリィモデルクラブでは最若年の好青年からである。GWに東近江市の自宅に帰宅するとの事で、京都駅で話し合うことにした。趣友はジオラマを作り、福井鉄道南越線時代の9粍モデル運転担当になったのだが、冊子を作る段になり、福井鉄道に保存史料や写真がないことが判明、その発掘を頼まれ、ふと思いついたのが老人だと言った。しかし老人は富山在勤中の電車ノート、フィルムに写真は全て焼失している。そうだ、盟友と鉄道趣味の師匠に連絡を取り写真提供をお願いし、車両史は鉄道ピクトリアルを参考にして纏めようという事で話はまとまった。

IMG_1


老人は福井鉄道南越線を1959年初夏、1962年初秋に訪れている。いずれもNEOPAN SS時代である。南越線に軽便鉄道時代があったなど知ったのはその時で、戦中の私鉄統制で福井鉄道の一員となった事も同時に知った。狭軌・武岡軽便鉄道は、国鉄線裏口の新武生から東へ、田圃の中を五分市までを1914年1月に開通。以後、五分市~粟田部間を1914年5月に、粟田部~岡本新間は同年8月に開業した。岡本新~戸ノ口間は今立鉄道により標準軌で建設された。開通を前に、1924年3月に武岡鉄道と合併し南越鉄道を名乗ることになり、同年9月に延長開業した。新武生~岡本新間の標準軌への改軌工事竣工は1924年7月であった。これで延べ14.3kmの蒸気運転による逆L型の営業路線が出来上がった。気動車導入は1927年で、それにより運行時間は片道42分前後と向上した。1941年7月、陸運統制で福武電鉄に合併され南越線となった。

元南海は廃車後も2度のお勤め。元京急は以前、須磨の大人が紹介済み

元南海は廃車後も2度のお勤め。元京急は以前、須磨の大人が紹介済み

元鯖江モハ43号、武生新駅にて待機中

元鯖江モハ43号、武生新駅にて待機中

元電動車のクハ51号は鯖江線からやってきた。

元電動車のクハ51号は鯖江線からやってきた。

南越線の主、111号は時には電機の代用もした

南越線の主、111号は時には電機の代用もした

電化は1948年3月、DC600Vであった。当時燃料不足で電化された線区は多いが、南越線もその一例で、車両は運輸省規格型車両(63型)の割当を得た大手私鉄の供出車で充当された例がある。当社は南海電鉄の木造車モユニ521型4両(1921年製)が1948年に譲渡され、モハ80型とした。更に1950年、京浜急行創業期の車両を車体更新(1925年)したク11型3両を、東京急行電鉄時代(ク5200型)に購入しているが、この3両は供出車かどうか不明である。電動車化は福井鉄道で施工したと思われ、100型とした。これらが南越線の電動車であったが、福武、鯖浦(せいほう)線との車両交流もあり、固定配置ではなかった。制御車、付随車については割愛する。電化により武生~戸の口間は30~32分所要、30分間隔の運転であった。1960年頃までは貨物輸送も活発であったが、トラック輸送に切り替えられ下火となった。部分廃線は1971年から3回に亘り実施され、1981年3月末で営業は終わった。開業67年弱の営業であったが、越前市の東部地区を構成する今立町の人達に惜しまれての廃業であった。掲載写真は高山師匠撮影によるもので、今も老人が記憶(+元京浜急行)している車両のみとした。

IMG_0001_NEW

今回の夏休み特別展は、旧・今立町民の方々の熱意によって企画、展示物収集が可能になったと越前市武生公会堂記念館々長は語っている。クローバー会メイト、掲示板愛読の皆さん、今年の夏休みに北陸路へ行かれたら、JR武生駅で途中下車して会場に足を向けられては如何でしょうか。駅正面の大通りを西へ、2筋目の信号(福井銀行)を左折、2筋目西北角で徒歩5分です。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください