沖縄に鉄道を求めて(その2)

2.沖縄県鉄道 与那原駅

沖縄本島は那覇や首里のある南部の島尻地方、中部の中頭(なかがみ)地方、名護以北の国頭(くにがみ)地方に分かれます。特に北部は山原(やんばる)と呼ばれる原生林地帯のため昔は道路がなく 海岸に点在する集落への足は山原船(やんばるせん)という小舟に頼っていました。東シナ海側の那覇港は九州、奄美、石垣、中国、台湾などを結ぶ港ですが、北部や島回りの山原船の拠点は 太平洋側の与那原(よなばる)港でした。北部からは木材、木炭や黒砂糖が与那原に陸揚げされ、与那原からは生活物資が北部や離島に運ばれていました。那覇・与那原間の鉄道が大正3年12月に開業したことによって、那覇・与那原間の物流は従来の馬車輸送から鉄道に代わります。そんな物流拠点であった与那原駅が復元されているそうなので 見に行きました。なお地元では「軽便」のことを「けーびん」と呼びます。

平成28年10月1日 復元された与那原駅駅舎

平成28年10月1日 復元された与那原駅駅舎

与那原駅舎の説明看板

与那原駅舎の説明看板

現在は資料館となっているのですが、時間が早すぎたのか館内を見学できず、残念ながら 外回りだけを見て終わりました。

東宮殿下御乗車記念碑

東宮殿下御乗車記念碑

昭和天皇の皇太子時代

昭和天皇が皇太子時代にここから那覇まで乗車された

この記念碑を見て思い出したのが、今上天皇が皇太子時代に江若鉄道に乗られたことです。江若の場合は片道ご乗車でしたが、県鉄の場合は往復ご乗車でした。県鉄の客車にはロやロハもあったのですが、お召し車両は新製直後のハ4だったようです。皇太子時代に県鉄に乗られた昭和天皇は後年 その1で紹介したヘンシェル機が活躍した両備軽便鉄道にも乗車されています。昭和5年に岡山県西部から広島県東部で行われた陸軍特別大演習の際のことです。このとき両備軽便は御料車を新製し、たった1回限りの使用でその後は保管され 一般車に改造もされず廃車となっています。県鉄のハ4はしばらくは営業用に使用しなかったようですが、その後は一般客車として最後まで使われたそうです。昭和天皇は沖縄県鉄道と両備の少なくとも2回は軽便鉄道に乗られたことになります。

戦災直後の駅舎

戦災直後の駅舎

9本の柱

9本の柱

新築当時の与那原駅舎は沖縄では珍しい鉄筋コンクリート造りで そのあかぬけた外観とともに県下一の建物だったそうです。戦火で一部が破壊されましたが、残った骨組みや壁を利用して改修され、町役場やJAの事務所として永らく利用されたようです。平成25年に駅舎復元のために初代駅舎を取り壊した際に 柱9本を短く切って 初代が鉄筋コンクリート造りだったことがわかるようにして残されました。確かに柱の断面に鉄筋がありました。

内部や展示品を見れなかったのは残念ですが、戦後70年を経て今も駅舎が復元されて残っていることに心打たれました。そんな思いでそのあと県立博物館を訪ねると 戦時下の県鉄の写真や資料が少し展示されていました。撮影禁止エリアだったのでご紹介できません。そして博物館ショップで見つけたのがこの本です。

おきなわ軽便鉄道マップ

おきなわ軽便鉄道マップ

平成20年8月8日初版、平成24年5月15日第3刷発行のA5判136ページ1400円 の非常によくできた県鉄廃線跡探訪マップです。編者は「おきなわ散策はんじゃ会」という郷土史や民俗学に関心の深い6名のグループで、2年半かけて全線を歩いて取材しただけあって単なる廃線跡ガイドではなく拝所(内地では祠のようなもの)や記念碑、井戸なども細かく解説されています。お召列車の機関助士を務めた古老の回顧談も載っていました。参考までにヘンシェルがいる壷川東公園のページを引用してみました。

目印となる建物やバス停などもしっかり書き込まれている

目印となる建物やバス停などもしっかり書き込まれている

発行所は (有)ボーダーインク 那覇市与儀226-3 です。加田芳英著「図説 沖縄の鉄道」の発行所でもあります。欲を言えば沖縄電軌編があればパーフェクトなのですが。もし遠路沖縄県鉄跡を辿ってみようと思われる奇特な方がおられましたら、まずこの本を入手することから始められることをお勧めします。

ということで 駆け足での探訪でしたが有意義な訪問でした。次は現在の鉄道「ゆいレール」のご紹介です。

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