先に投稿しました「227系の功罪」に対する1900生さんのコメントで「シティ電車」の話が出ました。当地でも「シティ電車」と書かれた看板を見た覚えがあった河内駅に行ってみましたら、今もありました。
河内(こうち)駅といってもご存知ないでしょう。山陽本線三原駅から広島方面に向かい、2番目、本郷駅の次が河内駅です。歴史は古く明治27年に山陽鉄道によって開業しています。現在は東広島市の東端にあたります。古レールを組んで作られた跨線橋があり、そこに「シティ電車」と書かれた看板が取り付けられています。そもそも「シティ電車」とは国鉄時代の昭和57年のダイヤ改正で広島・岩国間の電車が15分間隔で設定された際に「シティ電車」という愛称が使われたようです。その後昭和59年に広島・西条間と広島・呉間が30分間隔になり、61年には広島・岩国間が10分ヘッドへと増発されてゆきます。昭和62年にJR化されます。
一方 現在は東広島市ですが平成17年まではここは賀茂郡河内町でした(余談ながらこの賀茂郡と言う地名は 中世に京都の賀茂神社の荘園であったことに由来しています。賀茂川もあります)。従ってこの看板はJR発足後で、かつ平成17年以前に掲げられたことになります。現在広島から上り方面に西条止りは殆どなく 更に東の白市折り返しとなっています。白市駅が広島空港に最も近いJRの駅のためです。現在の広島空港の開港は平成5年10月ですから、シティ電車が西条折り返しから白市折り返しに延長されるのも平成5年以降です。看板に「延長を!」とあるのは 白市駅まで延びてきたシティ電車があと2駅延びれば河内駅だからです。しかしこの願いは実現していません。そんなことより、ひと昔も前の看板が今も掲げられていて 10年ほど時計が止まっているような感じがします。
シティ電車の話はここまでにして、昭和の雰囲気が漂う河内駅をご紹介しましょう。
中線のレールは撤去されていませんが、すでに架線はなく中線は使われていません。もともと線路間隔が広く かつては急行列車も停車した駅だけに長いプラットホームとともにゆったりとした構内です。シティ電車の看板の写真でわかるように、プラットフォームの下部は古い石積みが残っています。山陽鉄道時代のものかどうかは未検証です。
古レールによる骨組みとポスターの陰でよくわかりませんが羽目板張りで吹きさらしの跨線橋も時代を感じさせます。
上り方向を見ると線路は駅構内から左にカーブしてゆきます。86年前の昭和6年1月12日 深夜3:57に下関発東京行き2,3等急行第10列車がC5324に牽かれて通過してゆきます。このカーブの先には椋梨(むくなし)川鉄橋があります。
そして惨事が発生します。この左カーブを制限速度超過で通過したためC53は遠心力で横転し、後続の客車が倒れたC53を乗り越えて椋梨川鉄橋から川の中に次々と転落し、死者7名、重軽傷者179名という大事故となったのです。尼崎惨事を思い起こさせます。翌日の中国新聞をご紹介しましょう。
復旧工事期間は徒歩連絡だったようですが、この写真で両手に荷物を下げた男性のうしろに特徴ある橋の欄干が写っています。実はこの道路橋は86年後の今日も現役です。
シティ電車の話から大きく脱線してしまいましたが、地元の人も殆んど知らないような大惨事のあった河内のお話でした。また 全く人の姿が無い河内駅の様子からは 「シティ電車」とは無縁な地であることもお判り頂けたかと思います。
ご無沙汰しています。事故の歴史も含めて、じっくり読ませていただきました。数年前まで母の介護で、毎月広島を訪問しており、行程に倦んだ時は自動車で山間部を抜けたりしながらある時に、東城で高速を降り、神石郡から上下に出て、河内を通り、竹原に出たことの記憶が甦りました。その晩は呉に泊まりましたが、河内の印象は深いです。
またこの道を南下して山陽新幹線をくぐった付近、道路脇にコンクリ建造物の鉱山施設のようなの廃墟があります。ですが鉱山は見当たらず、山陽新幹線建設の昭和40年代末に、ここに仮設の生コン設備があったのではと、推測しました。この掲示板は写真がコメントに貼れないので、残念ですが、鉄道建設時の工事設備の廃墟かと考えています。
新幹線からは一瞬見えるかもしれませんが、好奇心ゆえの面白い発見でした。