2014年 遥かなる東欧の旅 Part9  Sargan8 ナロー山岳鉄道( シャルガンスカ・オスミツァ)その2 83-052号機を撮る

第5日目 2月19日 その2

10:05 ヴィシェグラード(Visegrad)を発車しました。これから、モクラ・ゴラ(Mokura gora)までの約27.6キロをフォトランしながら戻ります。

路線図02-1(圧縮)▲ 青数字は、今日のフォトランで撮った撮影場所です。
01[googlemap lat=”43.78156737531768″ lng=”19.3179988861084″ align=”left” width=”300px” height=”180px” zoom=”13″ type=”G_NORMAL_MAP”]43.78197,19.316669[/googlemap]
▲ 10:16 撮影地①
最初の撮影地はヴィシェグラードの街並みを抜けて直ぐの丘でした。標高は約340m、一旦バ  ックした列車は期待に応えて登り坂を駆け上がってきます。

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2014年 遥かなる東欧の旅 Part8  Sargan8 ナロー山岳鉄道( シャルガンスカ・オスミツァ)その1

第5日目 2月19日 その1

5:30 標高約590m、山の夜が明け始めました。同室のHGさんは既に朝撮を終えて部屋に戻ってこられました。私も今日の支度をしてから三脚を持って外に出ました。昨夜は真っ暗で見えませんでしたが向こうに白い煙が上がっています。

11ループ地図03【 Sarganska Osmica ( シャルガンスカ・オスミツァ)】
この鉄道は、第一次世界大戦の終わった後の1921年にベオグラードサラエボ間の444キロを結ぶために、ボスニアンゲージと呼ばれている760㎜のナローゲージで建設が始まりました。
険しいSargan山を越える山岳鉄道とあって建設は難航しましたが、4年の歳月をかけて1925年2月2日に山岳区間を開業(全線開業は、1928年10月30日)しましたが、道路アクセスが進んだ1974年に廃止されました。
しかし、観光開発に熱心なボスニア政府の意向で、風光明媚なモクラ・ゴラ(Mokura gora)~シャルガン・ビタシ(Sargan-Vitasi)の15.4キロが、1999年に保存鉄道として復活しました。2010年8月にはモクラ・ゴラヴッシェグラード(Visegrad)も復活して、総延長は26.7Mile(約43キロ)となりました。復活にあたって、トンネル・橋梁は整備されて軌道は新たに敷設されています。運営はセルビア国鉄と本格的なものです。

「シャルガンスカ・オスミツア」は、セルビア語で「シャルガン山の8」という意味だそうで、山岳区間の路線は、8の字にループする雄大な絶景を見る事ができます。運行は定期的に行われ、土日には動態復元された2両の蒸気機関車のいずれかが牽引しているようです。今日と明日は、我々が特別に蒸気機関車をチャーターしてフォトランを行います。

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いいかげんな電車の現役時代

米手作市様のリクエストにお応えして いいかげんな電車が活躍していた時代の写真をご紹介します。訪問したのは昭和48年7月25日の1回だけで わずかな写真しか残っていません。まずは主役のデ7050型から。

当時は新高岡と称していた高岡駅前に到着した7051号

当時は新高岡と称していた高岡駅前に到着した7051号。
よく見ると窓際に立っている乗客がいる。多分座席のない
部分なのだろう。車体側面には「万葉閣」の広告ロゴが。当時から地元では万葉が身近にあったのだろうか。

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2014年 遥かなる東欧の旅 Part7 戦火の癒えた町、サラエボへ その7 ボスニア国鉄を撮る、サラエボトラム、セルビアへ

第4日目 2月18日 その2
パシュチャルシア (Taxi)→15:20 サラエボ空港
サラエボ空港 15:35(チャーターBus)→20:04 Mokra Gora

今日は、ドイツからの本隊、そして日本からの3名の後続部隊と午後3時にサラエボ空港にて合流します。それまでは時間が十分ありますので、朝食後は昨日乗車したボスニア国鉄の撮り鉄もしようと出かける事にしました。

9時前にパシュチャルシア電停前からTaxiに乗車して向かいますが、運転手は英語があまり分かりません。市内地図を出して指さしで目的地を告げますが、地図自体をあまり見たことがないようで、分かってもらえません。とにかく空港への大通りを走ってもらってから、右の国鉄線方向へ曲がるのはこちらから指示を出しました。

[googlemap lat=”43.851999271388266″ lng=”18.359463214874268″ align=”left” width=”250px” height=”180px” zoom=”15″ type=”G_NORMAL_MAP”]国鉄 横断歩道橋[/googlemap]9:15 何とか目指す国鉄線を跨ぐ歩道橋にたどり着きました。問題は、撮りたい9:32着と9:46着の定期列車が何時に通過するかです。
まず時間通りには来ないだろうと気長に待つ事にしました。眼下には3線がありましたが、左側は錆びています。真ん中と右側は光っていますが、さてどちらに来るものか分かりません。どちらに来ても良いように左側から狙う事にしました。
0304
9:37 何とDLに牽引された3両編成の電車がやってきました。電車は自力走行ができないようです。

サラエボから西へ約80キロ先のゼニツァ(Zenica)からのローカル2153次(7:47→9:32)です。

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2014年 遥かなる東欧の旅 Part6 戦火の癒えた町、サラエボへ その6 朝のサラエボのトラム 

第4日目 2月18日 その1

6:40 同室のHGさんと朝のサラエボのトラムも撮ってみたいと、夜明けにホテルを出ました。
撮影ポイントは、旧市内の古い街並みが続く一方通行のループ線。撮影するにも車と重なる日中よりは早朝の方が撮りやすいだろう、また朝の街を行くトラムが撮れればとの希望でした。
0102▲ 6:42 ホテル前のパシュチャルシア電停では、朝のラッシュが始まろうとしていました。チェコのブルノ(Brno)からの中古車、真っ白なSatra-Ⅲ(K2)型601号は最後部の大きな曲面ガラスが素敵で上品に見えるトラムです。

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2014年 遥かなる東欧の旅 Part5 戦火の癒えた町、サラエボへ その5 サラエボのトラム

第3日目 2月17日 その2

14:25 Kakanjiからはバスに乗ってサラエボに戻ってきました。着いたバスターミナル(BT)は、国鉄サラエボ駅に隣接していました。ここで初めてBTの場所が分かりました。
バスを降りられた方がトラム電停へと向かわれます。市内移動はトラム利用が定着化しているようです。我々も一緒に向かいました。
0114:30 サラエボ駅前電停に停車するのは、サラエボトラムの過半数の勢力を誇るTatra社製K2YU型258号200形は80編成余り?が在籍しています。
全長20,400㎜、全幅2,500㎜、出力40w×4、最高速度は不明ですが専用軌道区間が多く、実感では60km/h前後で走行していました。

タトラ(Tatra)は、チェコで生まれ世界各国の共産圏へと輸出されました。ライセンス生産した国もあり、各種10,000両余りが製造されています。

20【サラエボトラム】
当初は760㎜(ボスニアンゲージ)の馬車鉄道として運行されていましたが、1885年にトラムが導入されて開業しました。
60年代に1,435㎜に改軌され、現在10.7キロの本線と、0.4キロのサラエボ駅支線が運行されています。
在籍編成は、2両連接車と3両連接車を合わせると150編成あまりあるはずですが、勃発したボスニア紛争(1992年~1995年)で被災した車両もあり、確認できていません。

しばらくサラエボ駅前でトラムを撮ってからは、各自別々での撮影ポイントとなりました。当初は分岐電停からループ線側を狙っていたのですが、ちっとも走行してこないので何かあったのかと頻繁に走るイリジャ側に場所を代えました。
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窓から写した駅・列車 -3- 

中国地方の交換駅

昭和40年代初頭の中国地方、山陽本線は昭和39年に全線電化したものの、電気機関車の不足から、一部では蒸機列車がまだ残っていましたが、この時期、C62などの大型蒸機の働き場所は、呉線へ移って行きます。初めて呉線を訪れたのは、昭和41年3月、高校2年の時でした。

 

syIMG_0016夜行鈍行に乗って、早朝の広島に着き、駅で出入りする列車を撮ったあと、広島8時24分発の呉線の客車列車で糸崎へ向かった。途中の忠海で停車、通過列車を待つ。やって来たのは東京発広島行き急行「安芸」、そして牽引機は待望のC59だった。C62はその前の広島でも撮ったが、C59は初めてだ。C62は、まだ電化後の山陽本線でも見られたし、北海道や常磐線でも見られた。しかし、このC59こそ、呉線でしか見られない、最後の3両だった。一瞬の通過だったが、C62とは対照的な優美な、日本の蒸気機関車の完成形を見るような優美なスタイルが、一瞬で見て取れた。

当会でも、準特急さんをはじめ、乙訓老人さん、米手作市さんと言った錚々たる方がたが、本欄で蒸機の中ではC59がいちばん好きと仰っている。とくに戦後型の船底テンダーがお気に入りのようだ。しかし、私がそれを理解するには、少しだけ年齢が若かった。写真ではよく分からないが、次位には三軸ボギーのカニ38を連結している。「安芸」に通常連結されていた、側面が総シャッターになった試作車だった(昭和41年3月)。

syIMG_0027呉線へはその後も年に一回は必ず行っていた。その多くは、九州旅行の行き掛けに寄った。この時も、尾道のユースに泊まったあと、呉線の安登で走行中を撮ってから九州へ向かう計画だった。風早、という風雅な名前の駅で、C62の牽く624列車と交換した。何気ない写真だが、ホームに立つ赤ん坊を背負った母親の着た“ねんねこ”も、もうすっかり見かけなくなった。背後の民家と柵も何もないような構造も、以前はよく見られたが、さすがに今は見られない(昭和43年3月)

 

窓から写した駅・列車 -2-

 中国地方の駅交換

「窓から写した」シリーズ、はじめます。まずは、中国地方の駅交換シーンから。時代は、昭和40年代初頭、高校生の頃で、家族旅行でも撮影旅行でも、行き易い中国地方へはよく行ったものでした。まずは宇野線から。今でこそ宇野線は盲腸線に成り下がってしまいましたが、当時は、四国連絡のすべて担っていた一大幹線でした。syIMG_0013終点、宇野駅。跨線橋の向こうには瀬戸内海が広がっていた。宇野発のゲタ電の窓から見ていると、宇野線のピカイチ、下り特急「うずしお」が入線してきた。「うずしお」は、大阪を始終発とする四国連絡特急で、昭和36年10月改正で登場した。当時、関西~宇野は準急(のち急行)の「鷲羽」が主力で、いきなりの151系特急の誕生だった。特急は500キロ以上運転が相場のなか、200キロ余りは異例の特急設定だった。

列車は、折り返し新大阪行き「ゆうなぎ」となるため、ホームにはヘッドマークが用意されていた。左の客車編成は、「うずしお」より一足先に到着した東京発の急行「さぬき」(昭和40年3月)。 

syIMG_0014宇野から乗ったゲタ電が、岡山到着を前にした妹尾で10分余りの停車、なにせ宇野線は単線のところ、すべての四国連絡列車が通るから、列車交換が頻繁にある。やがて通過したのは東京発の急行「瀬戸」、この前の「さぬき」は寝台夜行列車だが、「瀬戸」は2等車(当時)が主体の夜行列車。その先頭に立つのは、新製まもない宮原区のEF61だった。パノラマウインドゥ、1個ライトの顔もなかなか魅力的だが、よく似たEF60と比べると、SGを積んでいるぶん1.6メートル車体が長い。側面の鎧戸・小窓が横長にまとめられているため、さらに長く見える。その特徴ある側面を見せながら旅客列車の先頭に立つ姿は、たいへん魅力的だった。妹尾駅は、地上駅のまま残り、駅舎は橋上化されている。

2014年 遥かなる東欧の旅 Part4 戦火の癒えた町、サラエボへ その4 サラエボからの国鉄初乗車

第3日目 2月17日
① パシュチャルシア 10:46(国鉄396次)→11:41 Kakanji
② Kakanji BT13:30→14:25 サラエボBusBT

当初今日は、サラエボ市内を観光する予定でした。しかし来て見たサラエボは思っていたほど広くはなく、昨日にだいたい歩きました。団長のO氏から今日は、国鉄線に乗ってみようかとの提案が出されました。
ザグレブに向かう私以外は、国鉄線の乗車予定は皆さんありません。駅を見たのだから乗っても見たいなあと、賛同されました。
01宿泊していますMotel Bejturanの朝食時間は観光地とあって遅く、8時からです。こじんまりとまとめられた食堂で朝食後、徒歩5分もかからないパシュチャルシア電停からトラムに乗ってサラエボ駅へと向かうことにしました。

029:30 電停で待っていますと、昨日見なかった真っ白な3連接車の601号が来ました。
シュコダŠkoda Transportation製のTramway-Satra-III (K2)です。

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2014年 遥かなる東欧の旅 Part3 戦火の癒えた町、サラエボへ その3 サラエボのトラム、サラエボ駅、サラエのグルメ

第2日目 2月16日 その3
① イリジャ12:03(トラム)→12:29分岐電停(徒歩)→12:43国鉄サラエボ駅
② 国鉄サラエボ駅(徒歩)→分岐駅の次の駅(トラム)→14:30パシュチャルシア

乗車するトラムの系統を間違えて終点のイリジャまで行ってしまいました地球の〇〇方をみていただいたO氏のご内儀より、「3系統はサラエボ見学には丁度良い」と書いてあるとご指摘を受けました。3系統は、本線全線を走るのにサラエボ駅に行くと逆に読み違えたようです。最近は老いたせいもあって思い込みが激しくなってきました。いけません。

3712:03 折返しのトラムが発車しました。上の写真の左側の掴み棒に設置されています緑のボックスが車内改札機です。車両のドア付近にありました。
右側に立っておられるのは、サラエボのお嬢さんです。彫の深い目鼻立ちがしっかりとした色白のアラブ系で何といってもスタイルが抜群です。皆さんウットリと見とれました。でもこの地の女性は、歳をいくとなぜか
ボッテリさんになっておられます。

片運転台のトラムの後部は、まさに鉄ちゃん向きです。これで窓ガラスが綺麗でしたら言う事はないのですが・・・。車内にも落書きが多いのもいただけません。
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2014年 遥かなる東欧の旅 Part2 戦火の癒えた町、サラエボへ その2

第2日目 2月16日 その2
① サラエボ空港 8:54(Taxi)→9:07 Motel Bejturan

② 名前の記載のないミャツカ川沿い11:14(トラム)→11:54イリジャ

8:30 サラエボ国際空港に到着しましたが、フライトはそれほど多くはないようで、ローカル空港のようです。

11入国審査後にバゲインクレーム内のATMで、クレジットカードを使用してのキャッシングをします。ボスニア・ヘルツェゴビナの通貨は、コンベルティビルナ・マルカ(KM)。
今回のツアーでは昼食・夕食・飲料代が含まれていません。また降り立った6名は先発隊で、ドイツ人グループと日本人3名は明後日の到着で2日分の宿泊費が必要です。それぞれの推定する額での引き出しでした。
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窓から写した駅・列車 -1-

まだ車両の窓が開く時代、クロスシート車に乗ると、私は決まって、進行右側窓側の席を確保しました。交換列車を写すためです。皆さんも同じような経験があると思います。単線の交換駅に着くと、交換する列車や、通過する列車を今か今かと待ったものです。窓から首を出して撮った写真も、長い間にずいぶんのカット数になりました。

車内から一歩も歩くことなく、窓から首を出すだけの、究極のズボラ撮影ですが、列車だけでなく、ホームや駅舎の様子、乗客の様子が、時代、社会を鋭敏に映し出しています。今年のシリーズは、列車交換時の写真を集めてみました。

IMG列車の窓からの撮影に魅かれた契機となった、今から50年前の山陰本線の鎧駅での交換シーン、家族旅行で、京都からずっと普通列車に乗り続けて、玉造温泉へ行く途中だった。真夏の太陽がガンガン照りつける。窓からは、ムッとした熱気のなかに、潮の香も混じってくる海辺の駅で、急行「白兎」の交換待ちだった。連続するトンネルのため、ライトを点灯したまま、タイフォン一声、通過する上り「白兎」をオリンパスPEN EESで写した。

「白兎」は、昭和31年、山陰本線京都口に初めて設定された準急で、C57の牽く松江行き客車列車だった。昭和36年10月改正で、キハ58系の急行になり、大阪始終着の編成も併結した。C57時代からヘッドマークに描かれた白うさぎが描かれた小粋なヘッドマークは、キハ58になってからもヘッドマークに引き継がれた。この時代、京都口の「丹後」「きのさき」などはまだ準急で、キハ58で統一された「白兎」は、際立った存在だった。(昭和39年)

 

2014年 遥かなる東欧の旅 Part1 戦火の癒えた町、サラエボへ その1

今回の旅は、いつも海外に行かれる時はお誘いを受けていますO氏より紹介をいただきました。昨年6月に南アフリカのジンバブエに行かれた折にお知り合いになられたドイツ人の鉄ちゃんからボスニア・ヘルツェゴビナに残る現役SLツアーを考えている。参加してみないかとお誘いを受けられたそうです。
ボスニア・ヘルツェゴビナ? 聞いた事はありますが、どこにあるのかがよく分かっていません。早速Google地図で確かめますと、1984年の冬季オリンピックが開催されたサラエボのある国です。
01お聞きしますとサラエボ周辺には国を挟みますが、現役SLがまだ走っているそうです。地図を見ても、中々行ける所ではありません。そして、費用もリーズナブルです。
O氏が薦められる所にハズレはなし、きっと新しい発見にも会えるのだろうと参加を表明しました。
参加される方は、インドネシアでもご一緒していただきましたK島さんと、ミーシャさん、弘南鉄道の雪飛ばしで地吹雪の中運転していただいたSGさん、初めてお会いするC12208さん、KKさん、HGさんの海外鉄ちゃん軍団、そしてO氏のご内儀を含めての9名となりました。これにドイツからの参加者が加わります。

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2014年 絶景の台湾鉄路、冬の旅 Part20 打狗鉄道故事館、帰国

第9日目 1月16日 その2

0716:01 站地下化が進む高雄站に到着しました。
1月11日に宿泊した京城大飯店は残念ながら満室のために同じく高雄站近くのカインドネスホテル 康橋商旅 – 後驛九如館)にチェックインしました。期待はしていませんでしたが、このホテルのフロントのお嬢さん方の対応の良い事、この上なしです。満面の笑みでお迎えしていただきました。
部屋は広くはありませんが、清潔感があって中々です。站から歩いても約5分、お奨めいたします。
08
[googlemap lat=”22.622521899150172″ lng=”120.2773483774888″ align=”left” width=”300px” height=”150px” zoom=”18″ type=”G_NORMAL_MAP”]打狗鐡道故事館[/googlemap]16:57 チェックイン後は、早速高雄MTRに乗車して2010年10月24日に開館した打狗(タカオ)站跡(後に高雄港駅に改称)の打狗鐡道故事館に行ってみました。

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2014年 絶景の台湾鉄路、冬の旅 Part19 旧型客車乗り鉄旅

第9日目 1月16日 その1

6:00 今日は枋山での俯瞰撮影は諦めて、旧型客車乗り鉄旅に変更です。旧型客車が始発する枋寮の時刻を確認して、乗車する列車まで一仕事です。
まだ夜が明けぬ中、出発の準備だけはして橋の袂で1番列車を待ちます。しかし、切望していた雲のない空ではなく、日の出とのツーショットは難しそうです。
02▲ 6:44 台東新左營行きの自強號302次が金崙站を通過してきました。
DR3000系の9両編成です。
03▲ 7:01 変更前に乗車する予定だった高雄台東行きの區間車3514次が橋を渡ってきましたが、日出は無理で朝焼けも今一でした。R120号機が牽引する電源車を入れての8両編成です。

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2014年 絶景の台湾鉄路、冬の旅 Part18 花蓮から金崙へ

第8日目 1月15日 その3

10:26 大成果を挙げられた花蓮車両区での撮影を終えて花蓮後站に向かいました。手前のヤードではR62号機がセメント運搬車の入れ替え作業中です。
04▲ 左後方にチラッと見えるのがナロー車両の留置場所です。
そしてヤード向こうに塗装が剥がれているLDR2300型らしき車両が見えました。DR2300型として改軌改造を受けた車両でしょうか。事業用にでも使用されているのでしょうか。

01行くには遠く、線路横断を必要としますので近づく事が出来ませんでしたが、次回もいるようであれば、機会を作ってみたいものです。

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2014年 絶景の台湾鉄路、冬の旅 Part16 探せナロー車両、花蓮鉄道文化館へ

第8日目 1月15日 その1

03-1朝、台北桃園空港に向けて北上される準特急さんを見送ってから、千住のヤスベーさんとTaxiに乗って鉄道文化館へと向かいました。目的はかつて花蓮站前に展示してあり動態復元なったというナロー蒸気機関車やDCたち探しです。

[googlemap lat=”23.974928634769″ lng=”121.61047013942152″ align=”left” width=”300px” height=”200px” zoom=”16″ type=”G_NORMAL_MAP”]花蓮鉄道文化館[/googlemap]
8:40、花蓮鉄道文化館に到着。
玄関前には日本統治時代をしのばせる松の木が植えてありました。
03-2 続きを読む

2014年 絶景の台湾鉄路、冬の旅 Part15 DR2700系を追う、花東線・花蓮

第7日目 1月14日 その2
① 知本10:40(自強號303)→12:09瑞穂

00_鉄道地図-1(圧縮)隣に座っていた若者は台東で降りられて特別個室は、私一人になりました。
汗びっしょりになっていたので濡れた服を脱いで、窓を開けて乾かします。
窓から顔を出しての車上からのロケハンを続けておりますが、乗車している自強號玉里までは無停車です。不覚にも途中で心地良くなってしまいました。
時折意識が飛んでいきます。

それでも頑張りながら菜の花畑を探しますが、特別席とはいえ運転台のある反対側が見えません。
6月電化を控えて路線も曲線を避けての新線に替わってしまっている区間もあり、花東線のパンフやネットで見ていた良いロケーションの場所は確認できません。 01-2
当初は台東~玉里のどこかで撮影しようと思っていましたが、仕方ありません。もう少し北上を続ける事にしました。 時刻表とにらめっこして、まずは瑞穂まで行く事にしました。
カレチさんからは、再び補票を買い求めます。

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2014年 絶景の台湾鉄路、冬の旅 Part14 知新を撮る

02第7日目 1月14日 その1

今日の朝は手作りの美味しい朝食がでました。写真を撮っておくのも忘れての完食でした。この民宿はお母さんと娘さんがサービス業務をしておられました。
親子2人で一生懸命におもてなしをしようとする気持ちが随所で伝わってきます。
初めて台湾の民宿に泊まりましたが、一般のホテルでは味会う事が出来ない温かみを感じさせてくださいました。ありがとうございました。次回も必ず宿泊したいと思いました。よろしくお願いします。

02-1

[googlemap lat=”22.791089935314975″ lng=”121.1256798816612″ align=”left” width=”300px” height=”200px” zoom=”16″ type=”G_HYBRID_MAP”]台湾 台東站前 民宿[/googlemap]
台東站まではわずか500mほどですが、荷物があるからと言って、車で送迎までしていただけました。
ここまでしていただければ100点満点の120点です。6つ星民宿ですね。

この民宿花園玟瑰民宿の宿泊料は、Aboda予約で1部屋7,353円。直接のメールでの予約もOKです。勿論、ご推薦しま
す。

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2014年 絶景の台湾鉄路、冬の旅 Part13 金崙で撮る旧型客車たち

0000-117:30 台東站に戻って待合コンコースを散策していますと、ひと際目立つ和服姿のお嬢さん、2人がお買い物をされているのを発見しました。え~、なぜに台湾で和服姿を見られるのだろうかとビックリとしました。
00-2初めは日本人のお嬢さんかと思い、日本語で話しかけましたがキョトンとされましたので、中国語に切り替えて自己紹介をしてから写真を撮らせて欲しいとお願いしますと、気さくに応じてピースポーズまでとってくださりました。
数枚を撮りました内、縦位置全身を今回の紀行記の冒頭を飾らせていただきました。
こちらは、どっちにしようかなと迷ったもう1つのショットです。カメラ撮りに慣れたお嬢さんでした。きっとモデルさんかタレントさんでしょうね。今回の旅でお会いした中でも1番お綺麗なお二人でした。
夜に再会した千住のヤスベーさんにお見せしますと、「タイのウドンタニも美人が多く見とれてしまったが、是非とも自分も撮りたかったなあ。」と残念がっておられました。 続きを読む