2014年 絶景の台湾鉄路、冬の旅 Part12 釈迦頭、太麻里を撮る、旧型客車

木にぶら下がっているボコボコとした実です。これは、なんだと思われますか? 0112時過ぎ、チャーターしたTaxiの運転手のさんは、撮影場所を移動する準特急さんと不銹鋼號さんを山の麓まで送って行かれました。ついでに昼食を食べてきたいと申されましたので、団長さんの指示で100元(約360円)を気持ちですと言ってお渡ししました。
1時過ぎに戻って来られますと、「食べてください」と、初めて見る表面が凸凹した果実がたくさん入った袋を渡してくださいました。

食べ方が分かりません。不思議そうに見ていますと、割るように申されます。
01-0割ってみますと、中には白い果肉が現れました。ねっとりした果肉を口に運びますとクリーム状の歯触りで、まろやかな甘みが溢れてきました。これは美味しい! 中には大豆大の黒い種子が入っていますが、これはペエッと、捨てます。

台湾での名称は、釈迦頭と言うそうで、言葉のとおり何となく似ていますね。調べてみますと、バンレイシ科バンレイシ属の植物またはその果実で、原産地は西インド諸島、ペルーなど中南米。台湾では、17世紀にオランダ人によって持ち込まれ、今では台東・花蓮県の名産品になっているそうです。今日乗車した莒光號からの車窓から見た果樹園では、白い袋に入れて栽培していましたが、これだったのですね。

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釈迦頭は、運搬には崩れやすいので細心の注意が必要で、長期保存もできず残念ながら日本には殆ど輸入されていないそうです。

花蓮の站前では、釈迦頭の産地直売会が開かれていました。5~6個入った値段を聞きますと、200元(約720円)です。Taxiの運転手さんは、昼食代にお渡しした100元の倍返しでした。
お写真と名刺を入れておきます。太麻里に来られましたら、是非にご利用ください。
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2014年 絶景の台湾鉄路、冬の旅 Part11  莒光號で行く乗り鉄旅、太麻里へ

06▲ 着いた太麻里站の玄関口下を見ますと、埋め込まれている站の銘板がありました。街を歩くとよくマンホールの蓋にその土地の名産や特色をあしらったデザインマンホールを見受けられます。でもこれはマンホール蓋でもなさそうです。これは何なのでしょうね。
1988年1月1日の開業時に設置されたものと思われますが、なぜに地面にどうしてこの位置が選ばれたのでしょうね。

太麻里站は、“迎接千禧年第一道曙光” と、言われるように台湾本島で最初の日の出が見られる站です。
ここに来ますと、高雄で迎えた朝とは違っての思いっきりの快晴でした。南下して太平洋側に来ますと、天候は一転するのですね。暖かくにもなってきました。準特急さんはTシャツ姿で撮影に挑まれます。我々軍団では1番の年長者ですが、時間のある時には東海道走破を目指して行軍を続けておられる1番元気な老斗儿でもあります。
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2014年 絶景の台湾鉄路、冬の旅 Part10  台湾の武田尾、三貂嶺を撮る  台鐡ICカードの顛末

16▲ 16:14 準特急さんが台湾の武田尾と名付けられておられる地での撮影を終えて、ボチボチ引き上げようと山を下りて橋を渡りだしましたら、途中で「おぉ~」との歓声があがりました。台湾ではダイヤを公表されてはいない貨物列車、それも回送とはいえ客車との混合編成です。これは撮らねばと、再度引き返してのショットでした。
牽引するはE337号機、有蓋車5両と無蓋車数両、客車は35FPK10512+40SP20014+40SPK2008T+40SPK2008Tと守車(車掌車)の編成です。ここでのハイライトでした。
※ この写真、写ってしまっている邪魔な太い電線類は消しています。手抜き作業で、少し痕跡が残りましたが・・。

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2014年 絶景の台湾鉄路、冬の旅 Part9  EMU100系を撮る、台北站のLDK58・LDR2201

21-1 10:18 基隆~三坑のS字カーブを行くEMU100系回5168B

今日は、今回の旅の目的だったEMU100系復活の臨時運行を撮ります。下は団長さんが調べられ、作成しました時刻表です。撮影するにも台北都市圏は地下線化されていて八堵~板橋で撮るのは、ほぼ不可能です。数少ない地上区間での全運用7本の撮影に挑みます。

【 EMU100系 】
1978年、台鐡の西部幹線交流電化において、英国の技術供与を受けたことから英国GEC社から13ユニット((1M4Tの5両が1ユニット)×13本)の65両が投入されました。当初は「電特快」として運用されましたが故障続発で一旦運行休止。改修1ヶ月後の1979年1月から運転再開されて台北~高雄を最高営業速度120km/h、4時間10分で結びました。2~3ユニットの10~15両編成で使用されています。また珍しくなった吊り掛け駆動方式です。
2009年に定期運行から離れ、現在は産業文化遺産として静態・動態保存され、時折に記念日等で臨時運行されています。

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2014年 絶景の台湾鉄路、冬の旅 Part8 台湾鉄路の便當(駅弁)、台鐡老人割引切符、集集線、台北へ

02-202-1【 台湾鉄路の便當(駅弁) 】
高鐡台鐡の主要駅や優等列車の車販には日本と同じように駅弁があります。
日本統治時代から伝承されていて台湾では便當と呼ばれ、その数は無数で、站に行かなくとも街の中でも買えるものもあります。

勿論、セブンイレブン等のコンビニでも並べられています。02-3

站のホームでは、昔懐かしい「べんと~、べんと~」と、売り子さんの声が聞こえる站もあります。

こうして台湾で販売されている便當ですが、日本とは違った鉄則があります。それは、「温かくなければ便當ではない」という事です。
コンビニで並べられている便當も言わなくとも電子レンジでチンするのが常識となっています。従って、精進料理のような冷たくとも美味しい弁当は見かけたことがありません。
ホームの売り子さんは、列車が着くまで便當を綿入りの布団のようなものに包んで保温しています。

中身は味付けされた鶏肉や豚肉が入ったものが圧倒的に多く、煮卵やハムも定番です。
味は日本とは違っていますが、台湾を訪れる日本人の多くが美味しすぎると、絶賛しています。

値段も50~80元(180~290円)と安く、台湾庶民から好まれるところです。最近は100元(360円)もする高級便當も出回ってきています
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2014年 絶景の台湾鉄路、冬の旅 Part7 悠遊カード、  虎尾糖廠(虎尾製糖)-台湾最後のシュガートレインの撮影本番 

台鐡ICカード▲ 昨日、帰りに斗南站で買い求めた台鐡のICカード。改札口を出入りする度に気になっていました。自強號や莒光號等の指定席列車乗車には使用できませんが、區間車に乗る時にはいちいち切符を買わなくて良いので便利です。窓口でお聞きしましたら、バラバラとデザインの違うカードを見せてくださいました。その中でCK124号機(C12型)蒸気機関車が描かれたデザインが気に入りましたので購入することにしました。デポジットは100元(約360円)、ただ斗南站ではこのカードにチャージ(入金)する機械がないので斗六に着いてから300元を入れました。

海外に出かけた時は、長蛇の列に並ばなければならない時があります。自動切符販売機は文字が読めず一苦労です。また、地下鉄や郊外電車に乗る際に下車站がよく分から なかったり、乗車時に決められなかったりもします。ロケハンや撮り鉄をしていて思いついた站で不意に下車する事も多いので、ICカードをいつも買っています。そんな訳で私にとっては必需品でもあります。中国本土では、地下鉄が開業する度に乗車していますので、各都市の地下鉄ICカードが、ほぼ全部が揃っています。

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2014年 絶景の台湾鉄路、冬の旅 Part6 虎尾糖廠(虎尾製糖)、台湾最後のシュガートレインを撮る

00_製糖工場子供が描いた絵 04▲ 虎尾糖廠虎尾站に大きく掲示されていました絵です。
おそらく沿線に住まわれる子供さんが描かれた絵なのでしょうね。
製糖工場と虎尾站をバックに、台湾で残る唯一の現役シュガートレインと手を振る子供たちの姿が、生き生きと元気に描かれていて私にも伝わってきました。

もういつまで見られるか分からなくなった台湾のシュガートレインですが、この絵を見ながら、できるだけ長く活躍してほしいと願いました。
今日は、今夜来られる本隊一陣に備えて虎尾糖廠のロケハン調査を兼ねての撮り鉄です。

斗南~虎尾站は、この辺りでは最も早くの明治43(1910)年1月31日に開通しました。翌明治44(1911)年5月29日には北港(北港線)、同年9月10日には西螺(西螺線)まで延伸され、以降も建設が進められました。シュガートレインだけでなく旅客列車も運行されていました。
虎尾站は、1972年に旅客営業を終えて、駅舎内を喫茶や土産物を販売するお店にリニューアルされて保存されています。

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2014年 絶景の台湾鉄路、冬の旅 Part5 嘉義から斗南への道中

26▲ 台鐡嘉義站の待合室に設置されている観光案内所におられた案内人のおばちゃまとお姉さん。
これから向かう虎尾糖廠付近の地図がないかをお願いしましたら、「う~ん、ここには嘉義や阿里山のは、たくさんあるけれど・・、ちょっと待ってね。」 と、言われながらも斗南・斗六の観光地図を探していただきました。ありがとうございました。見るからに優しそうなお二人でした。

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2014年 絶景の台湾鉄路、冬の旅 Part4 阿里山森林鉄路

01▲ 昨夜嘉義站売店で購入した時刻表は紹介しましたオレンジ色の表紙でしたが、他に紫色と黄色のもう2種類がありました。よく見ますと、中々のセンスあるデザインで気に入っています。日本の時刻表も写真ばかりでなく手書きのイラストデザインシリーズも作ったらと面白いのにと思いました。

第2日目 1月9日 その1

6:30 目覚めてのすぐの作業は、カーテンを開けて見る空模様です。今日はあいにくと雲が立ち込めています。天気予報では、曇りのち晴れなのでこれからは好天するのだろうと、ホテルで朝食を食べてから8時にチェックアウトしました。
中国本土ではチェックアウトの際は、少し待たなければなりません。係員が部屋に行って良く言えば忘れ物がないのか、悪く言えば盗られた物がないかをチェックするためです。以前にバスタオルがないと騒がれた経験もあります。
実際はバスルームがドアにかけてあったのを係員が見落としたのが原因だったのですが、盗人扱いを受けて嫌な思いをしました。しかし、ここ台湾では 「ご宿泊、ありがとうございました。」 で、カギを渡すだけで済みます。
人を信用することから始まる人間性と、疑うことから始まる人間性と相反する原因はどこにあるのでしょうか?

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2014年 絶景の台湾鉄路、冬の旅 Part3 台鐡嘉義站、嘉義文化路夜市

 

53▲ 17:21 蒜頭糖廠から路線バスに揺られて約40分、ようやく台鐡嘉義站に到着しました。バスは市内地に入りましたが下車站は終点ではなく途中下車です。長くの乗車になってきましたので、降りるバス停がどこだか分からず不安でした。しかし今回は大津の86さんが一緒です。彼は停車する度にバス停を確認していただいており、ぶんしゅうさんもう2駅です。次ですと教えていただいておりました。ありがとうございました。

上の写真は、バスを降りた繁華街に近い台鐡嘉義站正面。阿里山森林鉄路は駅舎を共有して正面に向かって右側に発着ホームがあります。
下は、構内を跨ぐ跨線橋を渡っての反対側駅舎です。エレベーターとエスカレーターが設置されていてバリアフリーができていますので、重い荷物を持って苦労することなく行けました。
台鐡の主要駅では日本と同様に駅のバリアフリー化が進んできています。荷物を持つ旅行者には便利になってきました。バスターミナルはこちら側にありました。

【 台鐡 嘉義站 】
明治35(1902)年4月20日、台湾総督府鉄道の駅として開業。明治43(1910)年10月1日には 阿里山森林鉄路嘉義線が開業。昭和7(1933)年に改築するも昭和20(1945)年、米国の空爆によって主要部を破壊される。昭和24(1949)年に修復を完了。鉄筋コンクリート製。

現在は、台湾台鐡縦貫線と阿里山鉄路阿里山線の駅。台鐡は1日96本もの列車が発着する。阿里山鉄路は途中で山崩れが発生しているために途中区間が運休中で、現在北門行きの1往復が発着するのみ。2011年度の乗降客は約19,700人。
台鐡嘉義站公式HPはこちらへ

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2014年 絶景の台湾鉄路、冬の旅 Part2 蒜頭糖廠、なぜに台湾の人たちは日本人にやさしいのか–八田與一の功績

01_農民のモニュメント ▲ 14:00 着いた高鐡嘉義站に降り立つとバス停は今います北口ではなく南口でした。蒜頭糖廠へ向かうバスの時間を見てきますと大津の86さんは走って行かれました。私は一服しながら荷物番です。目の前には逞しい農民夫婦のカラフルなモニュメントが設置されていました。

この地方の代表的な表現だろうと思いましたが興味が湧いてきましたので調べていきますと、嘉南平野は台湾でも代表的な耕作地域であることが分かりました。広さは香川県ほどで、台湾全体の耕作面積の1/6を占めています。
また亜熱帯性気候により1年に2~3回もの収穫ができる地域で年間降雨量も十二分でしたが、降った水が中央山脈から一気に流れ落ちる富山の常願寺川のような地形であったために、雨季には暴れ川となっていました。 雨季には洪水、また乾季には耕作地は干上がってしまうために安定した耕作はできない土地で、飲み水さえ不自由していたそうです。農民は極貧困に苦しんでいたのですが、これを救ったのは東京帝国大学で土木工学を学んだ八田與一でした。

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2014年 絶景の台湾鉄路、冬の旅 Part1 旅立ち、高鐡桃園站

01▲ 今年の元旦は、クモハ73106東ウラさんと阪堺電車に晴れ着姿のお嬢さんとのツーショットを撮りに行きましたが、誰一人として姿を見られませんでした。成人式なら見られるとお聞きしましたが、残念ながら訪台予定が入っていましたので諦めていましたが、何と台湾の台東駅構内で待ちに待った姿を見かけられました。
それも、とびっきりの台湾美人で可愛いお嬢さんです。思わず、お声をかけて撮影をお願いしますと、気さくに応じてポーズをとっていただけました。 今年は新春から気持ち良いスタートがきれました。今年も頑張って鉄ちゃん道に励みたいと思っております。よろしくお願い申し上げます。

それにしてもどうして晴れ着姿でおられたんでしょうか。お聞きはしたのですが私の語学力では理解できませんでした。マネージャらしき付き人が付いておられましたので、モデルさんかタレントさんだったのかも・・・。お買い物をされていた準特急先輩も駆けつけられて、二人でうっとりとしました。

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謹賀新年 新春は、阪堺電気軌道 161形、1001形を撮る

新年、あけましておめでとうございます。
今年も乗り鉄、撮り鉄に徹して鉄路の走る世界各地へと向かいたいと思っております。今年もよろしくお願い申し上げます。

2014年元旦、新春初めての撮り鉄は、遠方より鉄友来るで一緒に初詣でにぎあう阪堺電気軌道(略;阪堺電車)へと出かけました。
01▲ 12:34 撮っていますと、突然「新型車両3両編成の1001形が只今参ります。」と、アナウンスが聞こえました。
この1001形は堺市の補助によって、平成25(2013)年2月に新造されたLRV(超低床車両)で、アルナ車両製です。同年8月25日から浜寺駅前~我孫子道で運行されていましたが、11月14日に発生した自動車との接触事故によって運行を停止していました。また天王寺方向への営業運転は、平成26(2014)年春からと発表されていましたが、新春のこの日に修理が終わっての我孫子~住吉を臨時運行となりました。1001形は3編成が投入される予定で、愛称は「堺トラム」です。

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駅を旅する 〈20〉

西大山

最後は“日本最南端の駅”西大山。以前にも書いたが、正確には日本最南端は、沖縄ゆいレールだが、普通鉄道では、いまも最南端であることに変わりない。ただ碑の「日本最南端駅」はツッコミから逃れるため、今は「JR日本最南端駅」に変えられているらしい。

西大山IMG_0020sy西大山IMG_0018sy昭和42年、高校2年生の春、指宿のユースを朝に出発して西大山へ向かった。開聞岳のふもと、菜の花が咲き乱れる、南国ムードいっぱいのなかに駅はあった。乗降客は自分一人だけ、最南端駅訪問の感激の余り、三脚にカメラを載せて何枚も自分撮りをした。約40分の滞在のあと、枕崎発西鹿児島行き726D、キハ2050ほか3両編成の列車で、鹿児島機関区へと向かった。その後、指宿枕崎線に乗ったことはあるものの、西大山は二度と降りることはなかった。

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40年前の出雲路紀行 一畑電鉄と木次線

 米手作市さんの「50年ぶりの木次線」を拝見して、私の場合は40年前ですが一畑電鉄を訪れて、その帰りに木次線を経由したことがありました。その時の写真がありますので当時のことを思い出しながらご披露したいと思います。時は1973年12月10日から11日とネガカバーに日付が書かれてあります。ところがなぜ12月10日、11日に行ったのかよくわかりません。おぼろげながらゼミ旅行で玉造温泉に行ったような気がしているのです。しかし、定かではありません。このときに一畑電鉄の一畑口から一畑薬師のふもとでかつて一畑駅があったところまでバスで行ったのです。ところで西村さんも「追憶の旅(その2)」で一畑電鉄川跡駅と一畑廃駅の写真が投稿されています。どうも西村さんと一緒に行ったようです。川跡駅での写真といい、一畑廃駅でのバスを写した写真もほとんど同じものでありました。

 MN01804-一畑電鉄

 上の写真は大社方面から来た電車が着いて、出雲市か松江方面へ乗り換える乗客が駅構内の踏切を渡っているところです。西村さんの投稿されている内容を見ても同じような光景のようです。

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駅を旅する 〈19〉

吉松

人吉から山線を越えると、吉松。ここも運転上の要衝駅である。人吉と違うのは、町の規模はうんと小さいが、その分、機関区は広々していて、背後は一面の田んぼが広がっていた。矢岳越えを控えて、重装備のD51が出入りしたかと思うと、吉都線C55・C57や山野線C56も姿を見せる、出入りの機関車は変化に富んでいた。

IMG_0001夏の終わりの午後、C55の熱気も加わり、ホームは暑そうに見えるが、ベンチの女性はいたって楽しそう。吉松まで来ると、さすがにローカル線ムードあふれる雰囲気だった(昭和45年)。

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駅を旅する 〈18〉

人吉

人吉は、肥薩線の川線・山線の中継地点であり、要衝の駅として賑わっており、駅裏には機関区もあった。鉄道写真の立場から言えば、矢岳越えの写真を撮るための前線基地でもあった。朝早くから、とくにいい時間帯に通過する夜行1121列車を大畑で撮ろうとすると、どうしても人吉に泊まり、一番列車で向かわなければならない。しかし、人吉にユースはないため、奮発して国民宿舎に泊まった(と言っても一回だけ)。朝早く、国民宿舎で作ってもらった握り飯を抱えながら、まだ暗いなかを駅に向かったものだ。

人よしIMG_0017syIMG_0002sy人吉駅の代表的なシーンは、矢岳越えに挑む列車。上は昭和42年の873レ、D51170〔人〕+オハフ61433+貨車+D51、下は昭和45年の4589レ、D51545〔人〕+スハフ3244+貨車+D511058〔人〕、どちらも客車1両に貨車多数の混合列車で、3年経過しても何ら変わっていなかった。下のスハフ32は、この頃珍しいダブルルーフ、トンネル区間に備えてベンチレータが撤去してある。

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駅を旅する 〈17〉

宮崎

昭和40年代の宮崎は、他の地域とは違う響きを持った、憧れの地だった。当時の新婚旅行のメッカだったかもしれないが、人それぞれの思い入れも宮崎にあるだろう。しかし撮影対象として見ると、機関区が駅ホームの真横あり、とにかく狭いところに機関区があったという印象が強い。正規の入り口から入って機関区で撮影していたところ、ホームから直接、機関区へ侵入したと勘違いしたホーム上の駅員から、思いっ切り怒られたことがある。なにしろホームの真横にあるから、駅員がすぐ見つけてしまう。国鉄時代の職員は、怒るとたいへん怖かった。

宮崎IMG_0073syホームで出発待ちのC57187〔宮〕の客車列車の横を、入換中のD5112〔延〕が通り過ぎる。宮崎以北では、旅客がC57、貨物がD51牽引だった(昭和44年)。

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駅を旅する 〈16〉

大分

大分は行くたびに工事をしている印象がある。初めて行った昭和42年は、新田原までだった日豊本線の電化が、幸崎に向けての延伸工事中で、構内は工事で錯綜していた。最近行った時も、今度は駅の高架工事中だった。

大分IMG_0007sy架線の張られた大分駅を発車する、大分発西鹿児島行き2523レ、C57196〔大〕+客車9両、以前の“デジ青”にも紹介されていたC57四次型の1両で、大分区には5両の四次型がいた。右は入換の8620(昭和42年)。

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駅を旅する 〈15〉

豊後森

かつて鉄道の町として賑わった駅も、今はすっかり寂れてしまった例は各地に多い。久大本線のほぼ中間にある豊後森もそんな駅だった。ここには機関区があり、宮原線を分岐していた。久大本線は140キロ余りあって、給水炭なしで全線は走破はできず、中間地点付近に機関区設備を設けたようだ。

訪れた昭和42年時点で、豊後森機関区の配置蒸機は、8620が7両、C11が1両で、8620は、久大本線の西部の客貨牽引に用いられていた。久大本線の客貨を通しで牽引する大分区のD60も、豊後森で一息入れた。

今は、残骸が残るものの、機関区としての機能はなくなり、宮原線もなくなり、すっかり省みられない駅となってしまった。

豊後森IMG_0044sy豊後森へ行かせた理由は、D60が架線のない、いい光線状態で形式写真が撮れること、そして当時は、全国でも豊後森だけとなってしまった機械式キハ07が配置されていたことだった(昭和42年)。

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