窓から写した駅・列車 -5-

syIMG_0017因美線美作加茂駅、通過する列車は、大阪発米子行き急行「かいけ」の5両編成。昭和41年の高校2年生、所属していたカメラ部の旅行で、鳥取から倉敷へ向かう途中、買ったばかりの一眼レフで交換列車を写したもの。当時、因美線は、陰陽連絡線として、優等列車が3本運転されていた。「かいけ」のほか、宇野-鳥取間の「砂丘」、大阪-上井間の「みささ」で、「砂丘」は、走行中にタブレット授受を行なう最後の急行列車として、平成9年まで残存した。

「かいけ」は昭和37年10月改正で、三原-出雲市間の伯備線経由の準急「皆生」として誕生した。ただ、乗車率は良くなかったようで、昭和40年10月改正で、宇野-出雲市間に変更され、「たまつくり」と改称される。そして同改正で、大阪-米子間に、姫新・因美線で結ぶ準急として、かな表記の二代目「かいけ」が走り出す。大阪を朝に出て、米子には夕方に到着する、皆生温泉などの観光地へ向かうのには格好の列車となった。しかし、昭和43年10月改正で、列車名統合により、「かいけ」は、「みささ」とともに「伯耆」に統合され、「かいけ」の名は3年で消えた。

その後、因美線は、平成6年の智頭急行の開業で、激変した。唯でさえ過疎化が激しいなか、優等列車もすべて智頭急行経由になってしまったから、智頭-東津山間の凋落ぶりは、著しいものがあった。この写真を撮った当時は、優等列車も含めて13本あったが、今では7本、鳥取までの直通は1本だけだ。

sy数年前、青春18きっぷで因美線を通しで乗ったが、線路の保守が十分でない箇所が多く、徐行運転の繰り返しだった。その時に、美作加茂駅で撮った交換列車はキハ120の単行だ。駅舎は2003年に新しく新築された、待合室には、以前の因美線の写真が飾られていた。私の仕事時代に、懇意にしていた写真事務所の社長が、この美作加茂の出身で、小さい頃の思い出をよく聞かせてもらった。当時のこの写真を見せると、“写真を生業とする人間でも撮っていなかった”と言われた(昭和41年7月)。