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思い出のブルートレイン
3月14日のダイヤ改正で「富士・はやぶさ」が廃止され、東京~九州間のブルートレインの歴史に幕が閉じた。総本家青信号特派員さん、893-2さんを筆頭に多くの会員の皆様がその雄姿をカメラに収められたことと思われる。廃止間際には、ごく普通の一般人やにわかマニアを含め、多くの人々がその雄姿を撮影すべく、駅のホームや線路端に押し寄せ、東京駅をはじめ場所によっては罵声の嵐となり、SL末期同様の様相を呈した所もあった。私は決してブームに踊らされまいと思っていたのであるが、なくなるのが判っていて何もしない訳にはいかず、年末から年始にかけて外出の際、時間帯が合えば撮影することにしていた。(列車の通過時間に合わせて外出したわけではない)
私自身はブルートレインのごとく「よそ行き」の特急用の車両より、「普段着」の一般用車両の方が好みであるため、撮影した回数は数えるほどしかなく、撮影場所も駅のホームに限られるが、ご笑覧いただければと思う。
平成21年3月6日 田町駅 (田町駅は勤務先から徒歩15分)
平成21年1月5日 浜松町駅(普段通勤で乗降している浜松町駅は勤務先から徒歩10分)
平成20年12月30日 有楽町駅
昭和50年9月15日 湯河原~真鶴
昭和41年9月23日 京都駅「さくら」
昭和41年10月13日 京都駅「はやぶさ」カニ221
昭和41年10月13日 京都駅「さくら」ナハネフ223
東京発着のブルトレの京都駅停車時刻は深夜であるが、台風でダイヤが大幅に乱れたため撮影することができた。1番線には「はやぶさ」が停車中。
昭和39年8月18日 博多
イヤというほど伊予鉄道し
ぶんしゅう旅日記で盛り沢山伊予鉄道の路面電車が披露された。坊ちゃん列車(のダミイ)が健在なのは嬉しいが、ディーゼルエンジンをボイラー(もどき)の内部に隠し持っているから、本来丸いはずのボイラーの裾が広がっているのは仕方がないか。
ところで拙老も松山は確か2回行っているから、電車の写真もあるはずと、すっかり乏しくなった記憶を基にネガを探すと、自分でも吃驚するほど出てきた。どうしてそれだけの時間とエネルギーを、非電化線=横河原線、森松線に投じなかったのか、今頃になって悔しく思っても後の祭り。
で、折角だからというより、自分でもすっかり忘れていた路面電車を「イヤ」というほどご高覧に供する。うんざりする? そう、年寄りは、嫌がらせが大好きなんじゃよ。
説明は乙訓老人にお任せしよう。8は秋保電鉄に同型車がいたのを以前ご覧頂いた。また2軸車末尾の20代は、食パン屋根で、しかもでっかいグローブベンチレーター(ロクサン並み?)が載っている。元来グロベンは雨宮が大好きで、小型のグロベンを花巻の2軸サハに載せていたし、ガソリンカーにも採用していた。撮影は1955年3月17日と1957年3月10日。
少し前の飯田線Ⅲ
42系は、昭和9年7月20日、吹田~須磨間の電化に伴う電車運転開始の際に新製された電車である。その後、同年9月20日に須磨~明石間、昭和12年10月10日に吹田~京都間と電化区間が延伸され、同時に電車運転区間も延伸された。通称「合いの子」と呼ばれた広窓半流車は、次の流電の項で解説する。
1.クモハ42形
昭和8年電車運転開始に備え13両(001~013)製作された、両運転台付2扉車で、パンタの向きは、002、004、006の3両が偶数向き、その他の車両は奇数向きであった。戦時中の昭和19年に001~010の4扉化、011~013の片運化と3扉化が計画されたが、4扉化が実施されたのは002~004、007、010の5両、片運3扉化は012の1両のみで、実施は戦後の昭和28年であった。42形で残った7両は、昭和25年9月中央線のモハ51形改造のモハ41形と交換で横須賀線に転属したが、昭和31年に008、009、011、013の4両が飯田線用として豊橋区に、001、006、007の3両が宇部、小野田線用として宇部区に転属。豊橋区の4両は主に快速に使用され、快速が準急に格上げの上80系に置き換えられた後も、主として30番台の4連貫通運用に使用された。2扉、貫通幌付の堂々たるスタイルでファンを魅了していたが、昭和53年に80系300番台投入により運用を離脱し廃車となった。
42009 昭和43年4月4日 豊橋 (両端クモハ42で長躯辰野に向かう1227M)
42011 昭和43年4月4日 豊橋
42013 昭和41年3月13日 本長篠 (前日1227Mで辰野まで行き、その日の内に260Mで飯田まで戻り、1泊後飯田発一番電車646M 豊橋行)
42008他3連 昭和54年5月1日 飯島~伊那本郷 (クハユニ56を含む3連の40番台の運用)
クモハ43形
昭和8年から9年にかけて37両(001~037)製作された片運の2扉車で、奇数車は奇数向き、偶数車は偶数向きであった。戦時中、全車4扉化が計画されたが実施されたのは13両に留まった。残り24両の内、事故と戦災で5両廃車となり、19両が中央線のモハ51形改造のモハ41形と交換で横須賀線に転属した。昭和26年から性能を70系と合わせるため出力増強工事が実施され、7両が新形式モハ53形となり、残りの12両の内004、007、009、013、015、022、025の7両が飯田線に転属、昭和45年3月、004、022、025の3両が低屋根に改造され身延線に転属した。残り4両は主に伊那松島区の所属し、昭和53年、80系300番台との第1次置換えで007、009、013の3両が廃車、015のみが昭和58年の最終置換えまで生き延びた。飯田線転属後、運転台側の貫通幌が撤去されたため、スタイルは前述のクモハ42形よりは多少劣るものの狭窓、2扉の堂々たるものであった。
43007 昭和46年9月25日 辰野
43009 昭和48年7月28日 辰野
43009 昭和48年9月2日 辰野
43013 昭和48年9月1日 伊那本郷 (伊那2号の通過待ちで停車中の257M)
3.クモハ53形
前述のクモハ43形の出力増強車で、昭和26年から28年にかけて7両改造された。当初は43800番台を名乗ったが昭和28年6月の称号改正で新形式モハ53形000~006となった。旧車号は順に016、017、018、011、020、021、012である。昭和53年2月000、001の2両が伊那松島区に転属し、2両とも昭和58年の最終置換えまで活躍した。クモハ43形同様、運転台側の貫通幌が撤去されていた。
53000 昭和52年5月3日 辰野
53001 昭和45年11月23日 辰野
53001 昭和50年1月2日 豊橋(649M伊那大島行)
4.クハ47100番台←クハ58形
42系列の制御車として、昭和8年から10年にかけて25両(001~025)製作された片運の2扉車で、全車両偶数(下り)向きであった。昭和10年に唯一両作られたラストの025は半流であった。戦時中全車4扉化が計画されたが実施されたのは13両に留まった。尚半流の025は4扉化された。残り12両の内3両が戦災と事故で廃車となり、残りの9両が昭和25年横須賀線用として東鉄に転属した。比較的早い時期に身延線と伊東線に転属となり昭和28年6月の改番でクハ47形に編入され100番台が付与され、全車車両の向きに合わせて100~116の偶数番号となった。但し、旧番号順ではなく、当時身延線にいた002、003、007、008、018、020、021が100~112に、伊東線にいた014、016が114、116となり、後日、114、116も身延線に転属した。その後、静鉄局の方針で、電動車を偶数向きに、制御車を奇数向きに統一することになり全車両奇数向きに方転された。昭和33年飯田線快速を4連貫通にするため、102、104、108、114、116の5両が豊橋区に転属の上、114、116を偶数向き方転、後に108も方転された。昭和46年3月に伊那松島に転属した104のみが昭和58年の最終置換えまで活躍したが、豊橋に残った4両は昭和53年、80系300番台との第1次置換えで廃車となった。104、116の2両は運転台側の貫通幌が撤去されていた。
47108 昭和49年8月27日 宮田
47104 昭和54年5月1日 伊那市 (茅野発平岡行238Mで、6両で茅野を発車して辰野、伊那松島で夫々2両を切離し、伊那松島~平岡間は2両であった。今は殆どの列車が2両であるが、旧形時代は少なかった)
1953年3月15日特急「かもめ」処女列車
56年前になってしまったが、この日から東海道・山陽本線に特急「かもめ」が運行を開始した。今では掃いても捨てきれないぐらい日本全国特急だらけで、新幹線や特急に乗らずに旅ができるもんならやってみろといわれているのと同じ。急行が激減し、準急は消滅してしまった。1953年時点の国鉄には、特急と名が付く列車は東海道本線東京―大阪間の「つばめ」「はと」のみ。この「かもめ」が実に敗戦後3番目の特急だったのである。
下りは京都始発8時30分、広島14時15分着、20分発。門司17時54分着、58分発、博多終着19時10分。停車駅は他に大阪、神戸、姫路、岡山、小郡、下関のみ。上りは博多10時00分、広島14時48分着、53分発。京都終着20時40分である。
機関車は処女列車用に綺麗に磨き上げられ、煙室扉ハンドルが梅小路にちなみ梅模様の真鍮磨きだしと御召し並みのC59100だった。スハニ、スハ3両、マシ、スロ3両、最後尾スハフで一等車がないところが「つばめ」「はと」と差がついた。運転局では将来展望車を新製したかった由だが、これは遂に叶わなかった。
このとき小生は高校1年生で、特急とは撮るものであっても、自分が乗るなどとは考えもしなかった。学生時代に国鉄特急に乗車した経験は、北海道均一周遊券が急行料金抱き合わせに改悪された代償に、急行との差額を払えば特急にも乗れるようになり、一番安い名古屋-京都間を、差額特急券という珍券ほしさに一度だけある。ただし電車特急「こだま」だったが。
写真は何れも1953年3月15日の京都発処女列車。今なら大騒ぎの押し合いへしあい、怒号が飛び交うところだろうが、この時は「何人か」は撮影に来ていた程度。それも大方は顔見知りだった。カメラさえ持っていれば線路下りても目くじらは立てられなかった。
恥ずかしい質問
最近、同級生とちょっとした論争になりました。負けられない論争です。
論点は昭和三十年代前半の奈良電のことです。私が「子供の頃奈良電に乗ると車掌が扉を手で締めて回っていた。しかも一両と言うことも多かった」といったところ、「アホ抜かせ!それは京阪の電車や、奈良電は自動で閉まったワイ!」と威張っています。彼は久津川の出身ですがその頃は本当に京阪だけが手動開閉だったのでしょうか?乙訓の老人様、覚えておられたらお教え下さい。
おじん2人ヨーロッパ軽便 その最終版
SNOWDON MOUTAIN RAILWAY
YVでも公開された「ウエールズの山」という映画(1955年)をご記憶だろうか。原題は「The Englisyman who went up a Hill but came down a Mountain」と長く、けして大作ではないが、心温まるものだった。1917年ウエールズのとある小村に、英国政府測量官2名がやってくる。村人自慢の「山」を測量したら、規程(1,000フィート=306m)に16フィート足らず、「山」から「丘」に格下げになると知った村は大騒ぎになる、というお話。
老齢の司祭が檄を飛ばし、先ずは測量官の自動車に細工=故障させて足止め。その間に村人たちは文字通り老若男女こぞって仕事をおっぽり出し、麓から土を運び上げて1,000フィートを回復しようというのである。しかし無情の大雨が降り折角の土が流出してしまう。鉄道員も協力し、鉄道が雨で不通として測量官の足止めを続け、さらに土を運び上げる。サッカー場の芝まで剥がし土止めに。82歳の老司祭が倒れ、山上に葬られる。
再測量の結果1,000フィートを満足し、若い測量官は村娘とむすばれ、万事めでたしめでたし。六甲山最高峰が931.3m、西宮市の甲山ですら309.4mである。いかに英国に山が乏しいかだが、その英国で登山なるスポーツが発祥したのも不思議である。

この部分のみはほぼレベルに近い 左手の建物は最初の離合地である
ところでウエールズとイングランドで最も高い「山」がこのスノードン山の1085mで、しかも登山鉄道がある。全長7.53km、平均勾配12.5%、最急が18%、2連式アブトで軌間800mm(2フィート7 1/2インチ)とメートル法なのは、スイス方式だから。開業は1896年4月6日、平均速度は5マイル/時(8km)。

DLは流石に強力だが、ブリエンツ・ロートホルン同様、全然面白くない
勿論蒸気機関車だったが、現在ではスイス・ロコ=ウインターツール1895、96、1922年製が4両現役。1986、92年製DLが4両。さらに1995年電気式のディーゼルカーが3両加わったが、最新ホームページには Out of Service とあるのは何故だろうか。不人気なのか、それとも欠陥があったのか。この時は2両重連(総括制御ができる)で運行していた。パンフの表紙に使うぐらいだから、少なくともこの時点では自慢の車両だったろうに。
http://www.snowdonrailway.co.uk/

総括運転の電気式DC 麓側の台車部分床上に機関と発電機が載っている
我々おじん2人はマン島とウエールズの旅の最後にこのスノードンを訪ねた。乗車はせず撮影だけだったが、線路は羊の放牧地をグネグネ延々と曲がって突っ切る。厳重に囲い込まれていながら、それでいて歩行者のための Foot Path が通じており、所々に柵を越すハシゴがある。画面に点々と白いものが見えるのは、ネガのホコリではなく、放牧の羊である。

フットパスを徒歩下山するグループ

借り物の300mm望遠レンズを使い、3個列車を写し込む。画面をクリックし、拡大してご覧あれ
なお長らくご愛顧を頂き?この延々と続いた「おじん」シリーズは、今回を以って終わりとさせていただく。ヤレヤレやっと終わったかと喜ぶ向きもあるかもしれないが、油断は禁物。いつ何時別の「どこまで続くぬかるみぞ」シリーズが始まるか分からない。世の中一寸先は闇なのですぞ。

羊放牧のための厳重な柵を乗り越えるフットパスのはしご 上にいるのは相棒=先達=写真の名手=全行程ボランティア運転手=全プラン立案推進者=ツアーコンダクター
貧乏学生二人『はやぶさ』に乗る
話の前に、訂正があります。前回 『ブルートレインのこと』 の写真3枚目(04917)は、蒸機がC6217【下】となっていますが、正しくはC6225【下】です。
さて、1963年3月、K.Y.さんと九州に出かけました。
行動は常に同一でなく、時々場所と時間を決め一緒になり、主に国鉄の蒸機を撮影しました。一日か二日後には、それぞれのテーマに向けて 別れての行動で、K.Y.さんは非電化の私鉄を、私は私鉄電車でした。
鹿児島で落ち合い、1962年3月24日(日曜日)、西鹿児島 発6レ『はやぶさ』に、二人で熊本まで乗車しました。指定券は旅行出発前に、神戸大丸内交通公社で購入。大枚300円も(旅行中、私の一日の食費に相当する。駅弁は150円で、買えば一日二食になる)払ったその特急券です。 出発は午前11時30分、熊本到着が15時02分、わずか3時間30分間の乗車。車両は7号車、博多までの7両編成の先頭、ナハフ2153(1960年日立製)でした。今となって記憶はほとんどありませんが、K.Y.さんと二人有頂天で乗車、あっという間に熊本に到着だったと想像されます。
下車後、隣のホームから蒸機C6114【鹿】と、わが客車の出発を見送りました。
そして二人は大畑に向い、その夜は大畑のステーションホテル(注・駅のベンチで寝袋に入り寝ることを指す。この回数の一番多いのはT.Y.先輩で、次点が筆者の35回です)に宿泊したのでした。
その後、九州各地で何度かブルートレインを撮影したので紹介します。
潮干狩りか、海岸には人が見えます。
西鉄電車撮影の合間に撮ったもの。
博多からの増結車を従え電機が待機、役目を終えた蒸機と並ぶ。
ヘッドマークを収納して退避線で休む蒸機、そこへやはり役目を終えた『さくら』の蒸機が並ぶ、夕刻18時30分頃、博多での光景でした。
半世紀以上走り続けたブルートレイン。日本での役目を終え、既に海外で活躍中のもの、あるいはこれから活躍予定のものもあるとか。
2009年青春18きっぷの旅Ⅰ Part1北陸へ
今年から晴れて自由人となっての私用旅行は、犬山で行われるDRFCクローバー会イベントが、初めてです。
リタイヤを余儀なくされた持病も、毎日のリハビリ治療が効いたのか、悪化が止まり、徐々にではありますが、痛みが和らぎだしました。それではと、以前より行きたいと思っていた電化された小浜線、富山ライトレール視察を、イベント前の候補にあげて計画を練りました。
氷見線、城端線も乗ってみたい。万葉線も乗車したいと、5:10長岡京発からのダイヤを組みました。しかし、早朝起きは得意だったのに、当日は、なぜか寝過してしまいました。しかし、大丈夫です。もしもの第2案も作成しておきました。
明治村の旧新宮鉄道客車
一昨日の投稿で写真を添付するのを忘れた。まさしく加齢現象に外ならず、我ながら情けない。改めて明治村で毎日働く2軸客車ハフ13、14の54年前の姿をご覧頂く。
撮影は1955年3月26日、奥羽本線湯沢駅=羽後交通雄勝線の発駅で、当然電車に牽かれていた。1942年国鉄からハ13、14を譲り受けたもので、前身は新宮鉄道ハ13、14、新宮鉄道工場大正元(1912)年11月製とある。新宮の開業は同年12月2日で、南海鉄道から譲り受けた2軸客車と共に、開業時の車輌であった。この年は7月30日までが明治だったから、明治村での動態展示は許容範囲内であろう。
新宮鉄道は孤立していたため昭和に入っても自連換装がなされないままに終始し、1934年7月1日買収で紀勢中線になる。新たに船で送り込まれた機関車、ボギー客車、ガソリンカー等も螺旋連環連結器に付替えており、その中には重見式給水暖め器を装着したC11もいた。
その後紀勢西線と接続し、当然自連化されたが、旧客車は螺旋連環式連結器のままで放置されていた。戦時体制下、車輌不足で旧新宮の2軸客車は天塩鉄道、伯陽電鉄(→山陰中央鉄道→日の丸自動車法勝寺電鉄)、大分交通等に再起。2輌が雄勝鉄道(1944年2月4日横荘鉄道に合併、同年6月1日羽後交通に改称)にやってきたのである。
ついでながら明治村で現役を続ける2軸客車は3輌で、もう1輌のハフ11も上記ハ13、14と共に、1973年4月1日の雄勝線内燃化(先に廃止した横荘線のガソリンカーやDLを投入し電車を廃止)後明治村に引取られ、静態展示の後「陸蒸気」開通で復活し今日に到っている=明治村に来て実に40年以上になる。
先日休んでいたハフ11は、青森鉄道ハ4→高畠鉄道ハ2→雄勝鉄道ハフ11という経歴で、かなり改造され原型が定かでなが、1908年天野工場製。機関車とも、螺旋連環連結器は淡路交通に残っていたものを譲り受けた由。
明治村で想う
明治村は数回行っているのですが、例の蒸機牽引の列車の客車で少しガッカリしました。というのは、毎日使っているのでかなり手が入っているのは当然ですが、窓下の本来短冊小割で貼ってあるはずの側板が、実は鋼板だったのです。モニター窓も本来の窓と合わず、内部がいい加減、レタリングも褒めたものでなし。要は木製客車、いや鉄道車輌そのものを全く知らない手合いによって改修されているとしか思えないのです。
ヨーロッパの保存鉄道の車輌にもピンからキリまでありますが、万事にいい加減なイタリアですら、サルディーニャの木製客車を見事に復元しているのはかつて「おじん2人」でご覧頂きました。明治村が名鉄にとって、かなり以前からお荷物になっており、しかもやめる訳にもいかないことは承知していますが、この改修は頂けません。尤も大方の入園者は、そんな事に気づくこともなく喜んでいるのは確かですが。
それに比べれば、N電はしっかりしています。屋根のモニター内部の、京電社紋の擦りガラスも立派です。強いて文句をつけるならば、ポールの紐がいささか興醒めでした。元来ポールには、カウボーイのロープ程ではなくとも、かなり腰の強いものを使いますが、それが軟らかすぎるようで、しかもなぜか途中に絶縁物?があるのは、一体何でしょうか。
蒸気動車キハ6401はJR東海が新たに作る(JR東日本に対抗して)テーマパークに引き上げる由ですな。記号番号がキハ6401のくせに、台枠には「鉄道院」とあり、連結器が螺旋連環式ですから、これはジハ6006にすべきでありましょう。
最後に、昼食時訪ねてきてくれた御仁ですが、その時は記憶が判然とせず、いささかつれない応対をしてしまい申し訳なかったと反省しています。帰りの電車で思い出したのは、平野正彦氏でした。そう、小太りで、名古屋弁丸出しで、別れ際には「ご無礼します」といっていた「赤銅色」のお兄さんでした。卒業以来会ったのは初めて?かな(湯口)
廃車体いろいろ
【1568】でK.H.生氏より「客車に住む」を発表されて以降、【1572】で西村雅幸氏より「電車住宅物語」、【1592】で湯口先輩より「客車住宅」、【1608】で「守口の廃車体」と廃車体の話題が続いた。私自身、廃車体は滅多に撮影しないのであるが、少しだけ写真が見つかったので紹介する。
①京都市電の廃車体
半鋼製単車の200形、300形は昭和30年台前半に廃車されたが、多数の車体が市内の公園施設や自治体の集会所等に再利用されており、京都外大のグランド、嵯峨釈迦堂近くの公園、西村雅幸氏が触れられている建仁寺の境内等何カ所かは覚えている。現在でも254が奈良線JR藤森駅すぐ近くの西福寺幼稚園で倉庫として使用されているのが公道から確認できる。
九条車庫で倉庫として使用されていた300形(車号不詳)/昭和45年4月5日
鉄道友の会が交通局に保存を要請したが実現しなかった。この時点では台車は無かったが、その気になれば復元保存は可能と思われた。
奈良線木幡駅前で内職の作業場として使用されていた349/昭和39年6月15日
②京阪電鉄16/昭和48年10月13日
京阪の16と云えば元貴賓車として超有名な車両で、沿線の中学、高校に通学していた頃は、500、600、700の中間車として主に各駅停車、朝の準急等に使用され、よく乗車した。座席が深く独特の座り心地で、大きな窓を開ける時は一人では無理であった。昭和40年、台車を新700系に譲って廃車後、寝屋川検車区の会議室として使用されていたが何時しか解体されてしまった。元貴賓車の面影をよく残しており、是非保存していただきたかった車両だけに解体は残念であった。
③京福電鉄デナ1形(車号不詳)/昭和43年6月8日
元阪神のデナ500形と交替して廃車となったデナ1形であるが、修学院車庫に1両車体が残されていた。こちらも会議室として使用されていたらしく、綺麗に塗装されていた。
④大和鉄道のガソリンカー(車号不詳)/昭和43年12月24日
湯口先輩より大和鉄道の単端式ガソリンカーが住宅になっていたことが報告されているが、近鉄南大阪線古市検車区で倉庫として使用されていた。もしかすると終戦後の車両不足時に道明寺線あたりでサハかクハとして使用するつもりで運び込んだのかもしれない。
⑤貴生川の元中国鉄道の貨車(車号不詳)/昭和45年9月23日
貴生川駅のすぐ近くに元中国鉄道の貨車が物置として使用されていた。バッファーの跡から明治末期から大正時代に作られたと推定できるが、扉に書かれてあった中国鉄道の社紋がはっきり読み取れた。
⑥蘇った廃車体(加悦鉄道ハ4995)
加悦鉄道は高校生の頃から何回となく訪れているが、加悦SL広場に重要文化財に指定された2号機の後ろにコンパートメント式客車ハ4995が連結されている。初めて見学される方は「よくこんな古い客車が残されていた」と思われるに違いない。これについては次のような裏話がある。
昭和11年10月鉄道省よりハ4999を購入してハ20、昭和10年11月ハ4995を購入してハ21とした。いずれも明治26年新橋工場製のコンパートメント式の客車であったが、入線に際し前後扉の新製と乗せ換え、旧車体は倉庫として使用されていた。昭和45年9月23日訪問時、倉庫になっていた旧車体が台枠の上に載り、車体の修復作業が行われていた。更に1ヵ月後の10月25日には2号機に連結され、構内展示運転が行われていた。
SL広場にはハ21も展示されている。本来はハ4995→ハ21→ハ4995となるべき処、ハ20と振替られたが、超貴重なコンパートメント式客車が蘇り、大切に展示されていることは大変意義深いことである。
倉庫として使用中のハ4995/昭和39年7月25日
ハ20と車体を交換して修復中/昭和45年9月23日
美しく蘇ったハ4995/昭和45年10月25日
2号機に連結され構内展示運転(実際にはDC351が後押ししている)/同上
DC351+ハ10+サハ3104+フハ2+キハ51
ハ4995と車体交換前のハ20/昭和39年7月25日
ハ21/昭和43年12月22日
乙訓の老人、つくばへ来たる!
栄書紹介
このたび、和久田康雄さんの「日本の市内電車ー1895‐1945-が成山堂書店から上梓された。20日夕、配達を受け「はて、なにを送っていただいたのか」と思ったが、孫に「じっちゃん、嵐電しょう」とねだられプラレールの組み立てを手伝った。気になる図書を開いたのは深夜3時30分になってからのことである。(するっと関西のおもちゃはすべて嵐電となっている。)
紐解くや、「これはこれは」となった。安楽マニアの老人には、とても嬉しい内容が満載されている。和久田さんは東京大学在学中に学内図書館にある鉄道文書に着眼され、私鉄関係について筆写され、それをまとめ鉄道ピクトリアル誌で連載された。それは世の私鉄研究の原本になり、われわれは教本の一つにしてきた。のちに「私鉄史ハンドブック」となり、私鉄史研究者の参考書となっている。これに加え統計資料から考察を加え、われわれが知りたかった車両群解明の手掛かりを提供された。
かねて現役引退後、「公文書閲覧で国会図書館通いです」とおっしゃったことがあり、須磨の大人、名古屋の朋友:重軽氏から「図書館で出会った」と聞かされていた。学生時代から後期高齢者になられた(なる?)この年まで、われわれに常に情報を提供し続けられた和久田さんに国民、いや鉄路栄誉賞をささげたいと思っているところである。
申込みは〒160-0012 新宿区南元町4番51 (株)成山堂書店 TEL:03(3357)5861、FAX:03(3357)5867 出版案内を貰えるようになると、料金、送料が後払いOKとなる。今回は本体3,570円 送料390円 計4,060をご用意ください。
「汽車住宅物語」に寄せて
西村雅幸さんが書き込みされた1月16日付【1572】「汽車住宅物語」の表紙の車両について、乙訓の長老より東武鉄道日光軌道線のハ57形ではないかというご指摘があり、RP誌135号の写真からほぼこれに間違いないというところまで来た。しかしながら写真は電動車テ17の後部に連結されているもので、サイズも小さく今一つ不安があった。もっと鮮明な写真がないものかと探したところ、一昨年東武博物館で購入した一冊の本のことを思い出した。東武鉄道OB岡 準二氏の遺作写真集「なつかしの鉄道とバス」というタイトルの本である。もしやここに載っているのではないかと思い見た処、テ11に牽かれたハ57の美しい風景写真が掲載されており、扉の形状、窓のサイズ、扉上の水切り等が表紙の写真と一致し、ハ57形と確定できた。
ハ57形について改めて書くと、昭和4年汽車会社製の半鋼製ボギー車で、57~61の5両作られた。牽引する電動車はテ10形で昭和4年日車製の半鋼製2軸単車で、10~19の10両作られた。昭和28年に宇都宮車両で100形(101~110)が一気に10両新製、翌昭和29年には宇都宮車両と汽車会社で200形連接車(201~206)が3編成作られ、従来の電車は事業用として残されたテ12を除き全車廃車となった。RP誌135号にはハ57形の廃車年月は書かれていないが、100形の登場した昭和28年度に廃車されたと思われる。「汽車住宅物語」の表紙の住宅は、その直後と考えられるが、終戦直後の混乱も一先ず落ち着き、住宅不足とは縁がないと思われる日光のような山間の観光地に、電車の廃車体を利用した住宅が作られたことは誠に興味深い。古川電工の増産に伴う就業人口増加による住宅の供給が間に合わなかったためであろうか。いつ頃まで存在したのかは勿論不明であろうが、昭和30年代の終り頃まで存在していれば、或いはファンの目に触れていたかも知れない。
11日、HPを開けたところトップページが岡山電軌に変わっており、最初に出てきたのが日光軌道線時代の塗装に変更された3005号車、次はKUROの3007号車であった。893-2さんが「汽車住宅物語」の話題に合わせて変更されたものと思われるので、日光軌道線から岡山電軌に至るまでの流れを簡単に書いてみたい。
昭和28年に車両を一新した日光軌道線であるが、東照宮のみ見学する場合はともかく、中禅寺湖、立木観音、湯元温泉まで行く場合、軌道線を利用すると終点の馬返しでケーブルカーに、更にケーブルカーの終点、明智平でバスに乗換える必要があった。一方、バスは日光駅から中禅寺湖を通り湯元温泉まで直通で運行され、観光客が乗換え不要のバスに流れるのは自然の成り行きであった。それでも沿線の古川電工の貨物輸送のために運行が続けられていたが、こちらもトラック輸送に切り替えられたため、遂に昭和43年2月24日限りで廃止となった。
廃止後の車両の行方であるが、100形は10両全車揃って当時単車のボギー車化を進めていた岡山電軌に譲渡、連接車の200形は大き過ぎるためか、引取り手がなく東武博物館に保存された203+204以外は解体された。また、電機のED611は栗原電鉄に譲渡され、同電鉄廃止後は栃木県の個人宅に保存されている。
岡山電軌では3000形3001~3010となり、ビューゲルから岡電式パンタに取替え、方向幕の移設、後にワンマン化が行われ、同社の主力として活躍したが、平成2年から冷房車と代替で廃車が始まり、現在残っているのは3005、3007、3010の3両である。(それ以前に3001が昭和48年10月に事故で廃車になっている。また、日光時代の旧車号は順に102、105、106、107、110、104、108、101、103、109である)3005は平成17年4月、日光軌道線時代の塗装に復元、3007は平成16年11月、烏城と呼ばれる岡山城のイメージに合わせて黒を基調とした塗装に変更、3010はデザイン賞受賞作品のチェック模様となっている。3005と3007は夏季以外は定期ダイヤで運行、3010は予備車となっているが、各車両とも夏は運転されない。
日光軌道線は、現役時代の昭和42年3月と翌年1月の2回訪問したが、いずれも神橋の鉄橋と国鉄・東武日光駅前での撮影に終わっている。亡母から「日光に行くのやったら菱屋の羊羹を買うてきて」と頼まれた。加えて昭和43年1月の時は東照宮境内に売っている「お札」の購入を頼まれ、ついでに東照宮を見学したため、肝心の電車撮影の時間が大幅に削減されてしまった。
101 昭和42年3月25日 神橋鉄橋
104 昭和42年3月25日 同
110 昭和42年3月25日 同
110 昭和42年3月25日 国鉄日光駅前
110 昭和42年3月25日 同 (バックの山は男体山である)
3004(旧107) 昭和44年3月18日/本や資料によっては、全車両入線時にワンマン改造をしたように書かれているものがあるが、それは間違いで写真のように当初はツーマンで入線している。
3003(旧110) 昭和44年10月22日/ワンマン改造されているが、出入口の表示からも判るようにツーマンで使用されている。
3009(旧103) 昭和44年10月22日/この車は平成14年廃車後、栃木県のファン宅で保存されている。
3006(旧104) 昭和46年7月28日
尋ね人
子供の頃、ラジオから「北支派遣軍第○○部隊におられた●●さんをxxさんがさがしておられます。・・・」という声が流れていたのを記憶しています。乙訓の老人や須磨の人間国宝などはリアルタイムに聞かれたはずです。それではありませんが事情があって下記の方を探しています。
会員で、78年に法学部法律学科に入学した方を探しております。知っている方がおられればご一報下さい。よろしくお願いします。
モハ33、34
澤村達也様よりモハ33、34についての質問があったので、今回はこの系列の解説をする。モハ33形は昭和7年山手線用として2両(001、002)モハ34形は、モハ33を両運転台付にしたタイプで、昭和8年、中央線、山手線(赤羽~池袋間)、横浜線の増結用として、26両(001~026)作られた。【1678】でも書いたが、関西地区ではすでに20m車が投入されていたが、東京地区は受入れ準備が整っていなかったため17mとなった。
戦時中モハ34011~026の後部運転台を撤去してモハ33に編入する工事が計画されたが、実施されたのは9両であった。両運で残った3両と片運に改造したモハ33の1両が戦災のため廃車となった。戦後木製荷物電車の廃車補充のため、モハ34、10両、更に片運改造したモハ33の内5両を両運に戻して荷電に改造し、形式を1形式1両のモニ53に編入して002~016となった。
その結果、片運のモハ33はオリジナルの2両と、モハ34の片運改造車9両の内、戦災廃車1両と荷電改造の5両を差引いた残り3両の計5両、モハ34は片運改造車9両、戦災廃車3両、荷電改造の10両を差引いた残りの4両が残った。
昭和28年6月の改番でモハ33はモハ11300番台となり、11300、301~307の奇数、モハ34はモハ12000番台となり、12000~12003となった。また、荷電に改造されたモニ53は、番号はそのままでモニ13となった。
① クモハ11300番台
最終配置は300が中原、301と307は弁天橋、303は北松本、305は陸前原ノ町で、307が昭和48年11月、それ以外は昭和42年8月までに廃車された。305と307の2両は、元50系のクハ16559と共に昭和36年に大井工場でモデル更新車として、内装のビニールクロス張りハードボード化等の近代化改造が実施されていた。
② クモハ12000番台
最終配置は、000が大垣、001は北松本を経て構内入換及び牽引車として沼津、002と003は陸前原ノ町で、001は昭和58年に、他の3両は昭和42年中に廃車された。000は廃車後昭和44年に伊豆箱根鉄道に譲渡され、最後は大雄山線の事業用車であったが、平成9年まで使用された。
クモハ12001(長キマ)/昭和8年汽車会社製、旧車号はモハ34005で、新製時の配置は三鷹であった。戦後、中野に転属し、品川、弁天橋を経て昭和26年5月に北松本に転属、昭和48年8月まで大糸線で使用されていた。同年9月1日付で沼津に転属して入換、工場への入出場車の牽引車、控車として使用され、関東地区にも顔を出していたが、昭和58年に廃車された。大糸線時代の昭和41年11月、下り向きに霜取り用パンタを増設して2丁パンタとなり、下りの朝一番電車の先頭車に使用されていた。その後のダイヤ改正で一番電車が新宿発の急行「穂高」に変わった時にクモヤ90803と交替したが、霜取りパンタは沼津に転属するまで残された。
この写真を撮影した時点では大糸線の17m車はこの車両1両のみで、まさか撮影できるとは思っていなかった。この日は物凄く寒い日で信濃大町駅の温度計は零下15℃を指していたが、この車両を見た途端に寒さは吹っ飛んだ。(昭和48年1月14日 信濃大町)
伊豆箱根鉄道モハ66←クモハ12000(名カキ)/前述の通り元クモハ12000で、昭和44年1月に伊豆箱根鉄道に譲渡され、三島~修善寺間の駿豆本線に配置された。譲渡の対象は車体のみと云われ、台車はDT11を履いている。廃車後、譲渡までの間は浜松工場に保管されていたと思われるが、車体のみを伊豆箱根に運んだとは考えにくく、恐らく売却の対象になったのが車体のみで、実際には足回りも付いていたのではなかろうか。ちなみに同時期に車体新製の新車1000系3次車(モハ1005-モハ1006-クハ2003)が作られている。昭和52年1月大雄山線に転属、平成4年4月27日付で工事車コデ66に改造され、平成9年3月24日付で廃車となった。尚、パンタ側の乗務員室は通常は3両編成の連結面となるため営業運転で使用されることはなかったため扉は撤去され窓に改造されていた。(昭和62年6月23日 大雄山)
③ クモニ13002~016
荷電に改造された15両は、東京地区と大阪地区に配置され、長く新聞輸送等に使用され、大半の車両が昭和50年代後半まで在籍した。特に007は廃車後も東京総合車両センター(旧大井工場)に保管されているが、昨年の一般公開時に見たところでは、痛みが激しくなってきており早急な補修が望まれる。(旧掲示板8月25日付【1550】参照)
クモニ13013(南シナ)/昭和8年日車製、旧車号はモハ34013として作られ、昭和19年3月大井工機部で片運化してモハ33005、昭和26年4月大井工場で両運化の上荷電に改造された。昭和56年1月廃車された。(昭和50年12月31日 大森~蒲田)
クモニ13009(大タツ)/昭和8年日車製、旧車号はモハ34011として作られ、昭和23年10月汽車会社で荷電に改造された。昭和24年4月、品川より宮原に転属、後に高槻に転属し、昭和54年12月に廃車された。003、008も関西入りしたが、配給車に再改造クモル23003、010となった。(昭和42年2月20日 大阪)
クモル23010(大タツ)/クモニ13008からの改造車で、昭和8年日車でモハ34010として作られ、前述の009と同様に昭和23年10月汽車会社で荷電に改造、昭和27年5月に関西入りして、昭和36年12月に配給車に再改造された。廃車は昭和57年1月であった。(昭和46年1月15日 大阪)
【質問に答える】
【1678】澤村達也様からの質問の回答
Q.1 [前文省略]謎はその車体に1両だけ「クハ」と書かれていることです。Wikipediaのモハ33系電車を見てもクハが存在したとは書かれていません。窓配置はモハ34と同じですので、モハ34として作れば良いようなものですが、気になって安眠できません。
A.1 「クハ」と書かれている車体をお持ちとのことですが、モハ33系にクハは存在しません。
Q.2 制御器サイドの床下がわかる写真はないでしょうか。
A.2 探したのですが残念ながらありません。旧形国電関係の知人、友人のHPも見たのですが、皆さん同じ向きで撮影されており制御器サイドはありませんでした。代わりにモハ31系のクモハ12052の写真を貼り付けましたので参考にして下さい。
(昭和47年5月1日 大川)
Q.3 連結器を自連に取り替えたことはありませんか。
A.3 昭和26年大糸線に転属時に自連に取り替えられています。前身の信濃鉄道買収車が廃車になった時点で密連化されますが、貨車引いていたクモハユニ64000の予備車を兼ねていましたので、同車が検査入場時等に一時的に自連に取り替えられたことがありました。
CRHの旅Ⅲ Part2 京津城際鉄路 『はやて』 運行激減の理由
1週間前から、京津城際鉄路の記事をまとめて投稿しましたら、本日2月2日の朝日新聞朝刊のGLOBEに下記の記事が出ていまして、びっくりしました。CRH2-300についての記事を転載しますので、お読み下さい。 続きを読む
少し前の飯田線 Ⅱ
前回は17m車を解説したが、今回から20mに入り、以降80系まで続けたいと思っている。飯田線に在籍した車両から旧形国電の概略を掴んでいただければ幸いである。時期は原則として昭和52年3月末現在の車両配置を基準にした。
(3)戦前形2扉車
戦前形2扉車は、大きく次の3グループに別れる。
① 17mモハ32(前回解説したクモハ14000番台)と同一グループのクハ47000番台(事故復旧名義で車体を新製した011も含む)、050番台、サハ48、サハ45(旧サロ45)
② 元関西国電のクモハ42、43、53、クハ47100番台(元クハ58)
③ 元関西国電、流電グループのクモハ52、53、クハ47150番台(元サロハ66)、サハ48(034、1両のみ)
今回は①のモハ32と同一グループのクハ47、サハ48、サハ45を紹介する。
このグループの昭和52年3月末時点での配置は次の通りである。
クハ47 009、011、069、070、074、076(全車両伊那松島区配置)
サハ48 021、024(全車両豊橋区配置)
サハ45 昭和52年3月末は配置はないが、昭和43年9月まで012が配置され、富士電車区に転属した。
1.クハ47000番台
横須賀線の付属編成用として昭和6年に10両製造、全車両偶数(下り)向きであった。戦時中4扉化が計画されたが、004と010の2両が実施されたのみで終戦となった。この2両は後に関西に転属して、最後は片町線で終焉を迎えた。残る8両は戦災に遭うことなく終戦を迎えたが、70系の進出により身延線に転属。この時、静岡局の電動車偶数向き、制御車奇数向きの方針により、奇数(上り)向きに方転した。002と009は飯田線に転属したが、002は3扉化の上、クハ68200となり長岡区に転属。009のみが伊那松島区に残り、昭和58年8月に行われた、お別れ運転の先頭に立った。
クハ47001/昭和6年日車製、本来47009を掲示すべきであるが、良い写真がないため、トップナンバーの001を掲示した。(昭和48年5月6日 富士電車区)
2.クハ47050番台
横須賀線のサハ48を70系進出に伴い、ローカル線に転用するにあたりクハ化したものである。サハ48は28両作られた内、16両がクハ化されている。一部の車両はサハ時代に戦後代用2等車としてロングシート化されていたが、クハ化の際もシートはそのままであった。000番台との外観上の相違は殆どない。074と076は一時期(昭和36年頃)新前橋区に配置され、湘南色に塗られてクハ86と同様に使用されていた。鉄ピクNo.768(2005/11)のP38に準急「軽井沢号」(上野~横川間・横川~軽井沢間はバス連絡)に使用中の写真が掲載されている。
余談になるが昭和36年7月、安中市の新島 襄先生の所縁の場所を見学する学校行事があった。大阪14時55分発姫路発東京行の普通列車(144レ)で出発、当日中に東京に到着すると思ったら大間違いで、到着は翌朝の4時51分であった。ちなみに現在では15時発の新快速で出発すれば楽々当日中に到着する。上野から快速新前橋行に高崎まで乗車。車両は3枚窓のクハ86で、停車駅は赤羽、大宮、熊谷、深谷、本庄、高崎あった。車窓から畑ばかりの関東平野を見て、関西との違いを実感した。この時、上野駅で湘南色のクハ47とサハ48を見て、「何だ、これは」と思った。
クハ47069/昭和6年汽車会社でサハ48015として製作、昭和31年日車支店でクハに改造。(昭和48年3月26日 伊那松島)
クハ47070/昭和6年に日車でサハ48010として製作、昭和31年東急車両でクハに改造。(昭和52年5月4日 沢)
クハ47071/昭和6年汽車会社でサハ48017として製作、昭和31年汽車会社でクハに改造。昭和43年8月29日、平岡付近を走行中に崩壊した土砂に乗り上げ事故廃車となった。画像は豊橋区で湘南色の時であるが、廃車時の所属は伊那松島区であった。(昭和41年3月23日 中部天竜)
3.クハ47011
昭和27年豊川分工場で、昭和25年8月身延線内船~寄畑間のトンネル内で失火全焼したモハ30173の改造名義で作られた車両で当初クハ47023を名乗り、昭和34年12月の改番で47011となった。改造とは名義だけで、台枠、車体は完全な新製で座席は当時の湘南形と同じものを使用した。台車は廃車となった豊川鉄道の買収車サハ1、サハ2が履いていたTR11を流用したが、後にクハ16011のTR23と振り替えた。
(昭和40年3月20日 豊橋)
(昭和45年11月23日 辰野)
4.サハ48
昭和6年と7年に28両製作され、70系が登場するまで終始横須賀線で活躍した。戦後6両が代用2等車としてロングシート化された。戦災と事故で各4両、計8両が廃車、16両がクハ47に改造され、サハ48として残ったのは、18、21、24、27の僅か4両であった。21、24の2両は一時期宇都宮区に配置され、湘南色に塗られてサハ87と同様に使用され、後に豊橋区に転属し、30番台の4連運用に使用された。18と27は昭和39年2月まで横須賀線に残ったが、伊東線の元クロ49改造の48040、41と共に岡山区に転属した。
サハ48021/昭和6年汽車会社製(昭和48年7月28日 豊橋)
サハ48024/昭和7年日車製(昭和48年9月1日 豊橋)
5.サハ45
昭和5年と6年に横須賀線専用形式車として13両製作。戦時中の昭和19年4月、2等車廃止により、4扉化してサハ78に編入する改造が行われたが、沿線に海軍基地があり、要人の乗車を考慮して8月に復活、4、5、7、8、12の5両はサロのまま残ることになった。4扉改造車は4両が戦災廃車となったが、未改造の5両は70系登場後もサロとて活躍した。昭和39年から40年にかけてサハに格下げとなり、4、5、7、8は富士区に、12は豊橋区に転属した。
サハ45012/昭和6年日車でサロ45012として製作、昭和39年8月に格下げでサハとなった。豊橋区では湘南色に塗られ、30番台の4連運用に使用されたが、後に富士区に転属した。(昭和43年4月4日 豊橋)
【質問に答える】
【1487】でH.Kさんよりの質問の回答
Q.1 関西の国電は20m級が基本であったが、関東はおそらく院電からのなごりか鋼製車両や鋼体化車両の時代になっても17m車が作られた理由。
A.1 関西地区で国電(当時は省電)が運転されたのは昭和7年12月1日、片町線の片町~四条畷間の電化開業に合わて、省電初の20m電動車としてモハ40、モハ41が作られた。鉄道省が半鋼製車を製作したのは大正15年で、東京地区では昭和8年前期のモハ33、モハ34まで17m車で作られた。これは車両基地の設備の準備が整っていなかったことが原因とされ、この問題が解決した8年後期からは20m車が投入され、以降は17mの新製車はない。鋼体化車は50系のことと思われるが、17m木製車の台枠以下の下回りを始め、使えるものを流用して作られたので、必然的に種車と同じ17m車になる。戦時中の昭和19年度から20m車化することになり、クハ79001~025の25両が計画されたが完成したのは8両であった。当件については、昨年11月に発売されたネコ・パブ社のRM LIBRARY「鋼体化国電モハ50系とその仲間たち」に詳しく解説されているので参照いただきたい。
クモハ11307/昭和8年新潟鐵工製、両運のモハ34036として誕生、昭和19年5月大井工機部で片運改造でモハ33018、昭和28年6月の改番でモハ11307となった。(昭和43年4月7日 弁天橋)
Q.2 横須賀線の電車化に際し初の2扉大型電車が作られたが、T車、Ts車、Tc車が20m級の設計であったのにMcのモハ32形(後のモハ14)はなぜ17級で作られたのか。
A.2 モハ32形が作られたのは昭和5年で、当時20m車体の電動車は昭和3年製の大阪鉄道デニ500形(後の近鉄南大阪線モ6600形)位しか存在せず、車体延長による重量増加に対する従来の主電動機(MT15A)への不安、台枠、床下機器配置の新設計が間に合わなかったこと等が理由とされている。
Q.3 クハ77とモハ62は身延線用に作られた限定車両と推察されるが買収車や他の17m級国電を配置換えせずにわざわざ異端の新製車を作る理由はあったのか。
A.3 身延線の前身、富士身延鉄道は、運賃が日本一高いと言われながらも赤字続きの経営難で、昭和13年10月1日国営に移管、昭和16年5月1日「輸送力増強をはかるため十分な改良を加えたい」という名目で買収された。(赤字の原因は、建設費及び電化工事費の多額の借入金金利の支払いと思われる)富士地区には、大規模な製紙工場や肥料工場があり、これらの工場が軍需産業への転用に伴う通勤者の激増で車両増備の必要性に迫られていたが、時節柄、電車運転線区は全国的に同じような状況のため、他線からの転用もままならず、鋼体化改造車の一部を身延線用に振向け、セミクロス、トイレ付きで製作したものと思われる。その意味ではこの車両も転用車である。
汽車住宅物語を拝借して
西村氏の投稿画面を見て驚いた。鋼製車体の元電車らしい汽車住宅ではないか。こんな電車があったのかな? あれば知らない電車となる。時代は戦後、老人の目の届くところでこんな電車が走っていたのだろうか。鋼製車体にリベットがあるが、大正時代でも、終戦直後のものでもなさそうだ。扉窓の下線が客室部分より低く、扉部の客溜まりも客室より低いようだ。台車はブリル21E、モーターは高床車用のものなのか。正面窓の巾は狭いようだ。と言うことは車体巾2m位? ならば軽便電車規格かな、と解釈してみた。ここまで頭に画いて地図を出し、若い頃の日本の電車を思い出してみた。思い当たるものがない。仙台市電43形についてひねくりまわした時もこんな電車は考えつかなかった。第2次世界大戦中、鋼製車体は完成したのに電装が出来ず、達磨さんとなっていたものが各地にあったとか。京都市電600形686~695の車体は九条車庫に戦中に搬入されたが、終戦を迎える迄そのままであった。仙台市電43形増備車3両は戦後になってやっと陽の目をみて、秋保と伊予で職場にありついた。こうしたことが実現できなかった汽車住宅がどこかにあったのか。
大戦中の日本鉄道界のことを回想してみた。統制品である鉄道車両は武器の一つに位置づけられ、軍需工場や鉱産物採掘地帯での輸送用以外の新造は認められなかった。そこで先ず、軽便規格から目をつけたのは東武鉄道日光軌道線である。ここには戦時中、大分交通別大線から木造4輪電動車が送られていた。これを鋼製車体に取替えのためのものかと思った。早速ピク135号を探し出してみた。別府形テ20形3両、簡易鋼体化の車体はダブルルーフのまま。関係なし。別の戦時形5両はシングルルーフの木造車で、窓配置、数も異なり2段窓である。5両共に戦後、部品をかき集め電装したとある。全て当て外れとなった。考え直さねば……。
西村氏から汽車住宅物語が送られてきた。表紙絵の説明では「写真は1950年代の栃木県日光市にあった電車住宅を撮影したものである」とある。当たりである。だがピク135号掲載の写真に該当する電車が見当たらない。老人が初めて日光を訪れたのは1958年春のことである。この時すでに開業以来の旧型車は、1953年新造の100形、1955年新造の200形に取り換えられており、なにも残っていなかった。もう一度ピク誌の小林さんの紹介記事と写真を点検してみた。トレーラー、ハ57~61の車体形状がもう一つ分からない。昭和4年汽車会社製造のボギー車となっている。これではないかと思ったが、確証がない。どなたかご存知の方、老人の探求欲を叶えさせ毛下さい。御願いします。
1月25日、長岡天神駅で22時38分発河原町行きを待っていた。目の前に停車した梅田行き快急は9305・8Fである。耳にした話では9300系は6本で終わりだとか。
4本目からロングシート部の背もたれが50ミリ高くなり、最初に乗った時に気になった「しゃっくり」も収まり完成度は高くなったと思っている。細かいことを取り上げるといろいろ言いたいが、少なくとも京阪3000系より、老人の評点は高い。
1年前にニュースを入れた都電の新車、2年度で5両を2回の新造。これで7500形を追放するのだそうだ。何時登場するのか聞き忘れた。
伊予鉄に貰われの井の頭線3000系の残党、VVVF化して海を渡るのだとか。
今回も写真がなくてごめんなさい。











































































































