モハ33、34

澤村達也様よりモハ33、34についての質問があったので、今回はこの系列の解説をする。モハ33形は昭和7年山手線用として2両(001、002)モハ34形は、モハ33を両運転台付にしたタイプで、昭和8年、中央線、山手線(赤羽~池袋間)、横浜線の増結用として、26両(001~026)作られた。【1678】でも書いたが、関西地区ではすでに20m車が投入されていたが、東京地区は受入れ準備が整っていなかったため17mとなった。

戦時中モハ34011~026の後部運転台を撤去してモハ33に編入する工事が計画されたが、実施されたのは9両であった。両運で残った3両と片運に改造したモハ33の1両が戦災のため廃車となった。戦後木製荷物電車の廃車補充のため、モハ34、10両、更に片運改造したモハ33の内5両を両運に戻して荷電に改造し、形式を1形式1両のモニ53に編入して002~016となった。

その結果、片運のモハ33はオリジナルの2両と、モハ34の片運改造車9両の内、戦災廃車1両と荷電改造の5両を差引いた残り3両の計5両、モハ34は片運改造車9両、戦災廃車3両、荷電改造の10両を差引いた残りの4両が残った。

昭和28年6月の改番でモハ33はモハ11300番台となり、11300、301~307の奇数、モハ34はモハ12000番台となり、12000~12003となった。また、荷電に改造されたモニ53は、番号はそのままでモニ13となった。

 クモハ11300番台

最終配置は300が中原、301と307は弁天橋、303は北松本、305は陸前原ノ町で、307が昭和48年11月、それ以外は昭和42年8月までに廃車された。305と307の2両は、元50系のクハ16559と共に昭和36年に大井工場でモデル更新車として、内装のビニールクロス張りハードボード化等の近代化改造が実施されていた。

 クモハ12000番台

最終配置は、000が大垣、001は北松本を経て構内入換及び牽引車として沼津、002と003は陸前原ノ町で、001は昭和58年に、他の3両は昭和42年中に廃車された。000は廃車後昭和44年に伊豆箱根鉄道に譲渡され、最後は大雄山線の事業用車であったが、平成9年まで使用された。

 

クモハ12001(長キマ)/昭和8年汽車会社製、旧車号はモハ34005で、新製時の配置は三鷹であった。戦後、中野に転属し、品川、弁天橋を経て昭和26年5月に北松本に転属、昭和48年8月まで大糸線で使用されていた。同年9月1日付で沼津に転属して入換、工場への入出場車の牽引車、控車として使用され、関東地区にも顔を出していたが、昭和58年に廃車された。大糸線時代の昭和41年11月、下り向きに霜取り用パンタを増設して2丁パンタとなり、下りの朝一番電車の先頭車に使用されていた。その後のダイヤ改正で一番電車が新宿発の急行「穂高」に変わった時にクモヤ90803と交替したが、霜取りパンタは沼津に転属するまで残された。

この写真を撮影した時点では大糸線の17m車はこの車両1両のみで、まさか撮影できるとは思っていなかった。この日は物凄く寒い日で信濃大町駅の温度計は零下15℃を指していたが、この車両を見た途端に寒さは吹っ飛んだ。(昭和48年1月14日 信濃大町) 

伊豆箱根鉄道モハ66←クモハ12000(名カキ)/前述の通り元クモハ12000で、昭和44年1月に伊豆箱根鉄道に譲渡され、三島~修善寺間の駿豆本線に配置された。譲渡の対象は車体のみと云われ、台車はDT11を履いている。廃車後、譲渡までの間は浜松工場に保管されていたと思われるが、車体のみを伊豆箱根に運んだとは考えにくく、恐らく売却の対象になったのが車体のみで、実際には足回りも付いていたのではなかろうか。ちなみに同時期に車体新製の新車1000系3次車(モハ1005-モハ1006-クハ2003)が作られている。昭和52年1月大雄山線に転属、平成4年4月27日付で工事車コデ66に改造され、平成9年3月24日付で廃車となった。尚、パンタ側の乗務員室は通常は3両編成の連結面となるため営業運転で使用されることはなかったため扉は撤去され窓に改造されていた。(昭和62年6月23日 大雄山)

③ クモニ13002~016

荷電に改造された15両は、東京地区と大阪地区に配置され、長く新聞輸送等に使用され、大半の車両が昭和50年代後半まで在籍した。特に007は廃車後も東京総合車両センター(旧大井工場)に保管されているが、昨年の一般公開時に見たところでは、痛みが激しくなってきており早急な補修が望まれる。(旧掲示板8月25日付【1550】参照)

クモニ13013(南シナ)/昭和8年日車製、旧車号はモハ34013として作られ、昭和19年3月大井工機部で片運化してモハ33005、昭和26年4月大井工場で両運化の上荷電に改造された。昭和56年1月廃車された。(昭和50年12月31日 大森~蒲田)

クモニ13009(大タツ)/昭和8年日車製、旧車号はモハ34011として作られ、昭和23年10月汽車会社で荷電に改造された。昭和24年4月、品川より宮原に転属、後に高槻に転属し、昭和54年12月に廃車された。003、008も関西入りしたが、配給車に再改造クモル23003、010となった。(昭和42年2月20日 大阪)

クモル23010(大タツ)/クモニ13008からの改造車で、昭和8年日車でモハ34010として作られ、前述の009と同様に昭和23年10月汽車会社で荷電に改造、昭和27年5月に関西入りして、昭和36年12月に配給車に再改造された。廃車は昭和57年1月であった。(昭和46年1月15日 大阪)

【質問に答える】

【1678】澤村達也様からの質問の回答

.1 [前文省略]謎はその車体に1両だけ「クハ」と書かれていることです。Wikipediaのモハ33系電車を見てもクハが存在したとは書かれていません。窓配置はモハ34と同じですので、モハ34として作れば良いようなものですが、気になって安眠できません。

.1 「クハ」と書かれている車体をお持ちとのことですが、モハ33系にクハは存在しません。

.2 制御器サイドの床下がわかる写真はないでしょうか。

.2 探したのですが残念ながらありません。旧形国電関係の知人、友人のHPも見たのですが、皆さん同じ向きで撮影されており制御器サイドはありませんでした。代わりにモハ31系のクモハ12052の写真を貼り付けましたので参考にして下さい。

                                (昭和47年5月1日 大川)

.3  連結器を自連に取り替えたことはありませんか。

.3  昭和26年大糸線に転属時に自連に取り替えられています。前身の信濃鉄道買収車が廃車になった時点で密連化されますが、貨車引いていたクモハユニ64000の予備車を兼ねていましたので、同車が検査入場時等に一時的に自連に取り替えられたことがありました。