DD16とEF55 そしてまたもや江若

       ぷるぷる様

EF55とDD16の完成ご同慶の至りです。DD16は私も多分同時期に買って いまだに完成しておりません。この調子でゆくとレールの上を走る日は来ないような・・・。    EF55もみごとな出来栄えで 工場長の力量に感服しきりです。あの台車を自作する元気は私にはとてもとても・・・。昨今は 度々この掲示板をにぎわしております江若鉄道シリーズの粗製乱造の一環として 先日キハ07キットの改造でキハ5124が一応出来上がり、現在キハ12にかかっているところです。特にキハ12は あの独特のマスクに手こずりました。屋根の曲げに失敗し、たたいて直しているうちに戦災復旧の70系客車のようにボコボコになって これからゴマカシ修理が必要です。これが終われば 次には仕掛かり中のオハ27 3両を完成させて復活シリーズは小休止しようかと思っていた矢先、Yahooオークションでキニ9のエッチング板が手に入りそうなので キニ9までやっつけようか、さりとてあの多くの窓抜きはうんざりだし・・・といったような具合です。そして車両復活はこれぐらいにして いよいよ高島町駅の復活に手をつけようかとネタ集めをしております。先輩諸氏からのアドバイスのおかげで まず日野BT31バスの図面ができました。そのうち 初めてのバス製作もやってみようと思っているところです。ジオラマ製作は全く経験がなく、わからないことだらけだけに かえって楽しい時間が過ごせそうです。それでは 橋本工房さんのご盛況ぶりに刺激されて当方も工場長の尻をたたくことにします。                         

守口の廃車体 ほか1点

拙老の投稿に早速反応があり、気をよくした老人は時間に追われ多忙中(極めて稀にそんな時もある)にも拘らずいそいそと次なるスキャンに取り掛かった。今度は住宅でなく、京阪守口にズラリ並んでいた廃車体である。番号は控えてあるが、二重三重に記されたものもあり、落書き?と思しきインチキ番号もあった。禿筆を以っていい加減な事を書くより、解説はそれこそ乙訓老人の出番であろう。撮影は1955年9月22日。

もう1枚。これは京阪と全く関係がないが、1958年3月27日伊田、ハ2618だったと思うのだが、こんな廃車体があり、半世紀たった現在でも印象深いので押し付けご紹介に及ぶ。これは2本通ったロッカーレール(縦梁)のみが鋼材、端梁は木材で、車体は鋼材上に根太を組み、隅柱、間柱を立て、その上部は長桁で押さえ、と全く当時の木造建築物同様の構造車体である。廃車時売れる鉄は外し端梁を残したが、その高さ分下に古枕木でもかましておけばいいものを、宙ぶらりんにしたから、当然ながらかくも見事に湾曲した、と推定。ごく当たり前の、但し屋根は食パン風ダブルルーフ(雨漏防止で多少加修している)の側戸式3等車である。

客車住宅

拙老も撮っています。時は1957年3月6日、場所は名鉄大江の近辺。バックの架線柱は名鉄常滑線です。大江にズラリ並んだボギー、2軸、木製半鋼製車の一群はかつて諸兄のお目を汚したことがありますが、その際行きがけの駄賃で撮影したナハ22802(仙ココ)の車体ハウスです。当時60系鋼体化改造の種車(といっても使うのは台枠と台車、連結器のみ)にするため、国鉄は全木製車を現車調査し、車体はその程度をAからDまで4段階に評価。Aが最もいいもので、妻面に丸で囲んでA、B、C、Dと白ペンキで記入していました。この住宅の妻にはBとありました。決してスラムではなく、周囲も住宅?自体も綺麗に保たれているのがお分かりでしょう。

かような住宅代用は電車もバスもあり、路面電車廃止時期には各地で幼稚園や公園の自治会集会所等に足を外した車体が流用されていたのは周知の通りです。国鉄では食堂や倉庫、組合事務所にもいっぱいありました。しかもスチーム地域暖房(そのエネルギープラントは蒸機のボイラー)が行き届いていたものも少なくありません。大和鉄道では電化・改軌で不要になった日車製単端式ガソリンカー車体が住宅になっていた由で、その住宅模型を作った奇特な人もいました。

拙老はその時期佐竹先輩とせっせと情報を交換し合い、かような「ハコ」―といっても主目的は旧2軸客車や雑型ボギー車ですが―を撮っていました。

「汽車住宅物語」という写真集をご存知ですか

汽車住宅物語の表紙

汽車住宅物語の表紙

K.H生さまへ

大分交通の客車住宅の写真を見て、「汽車住宅物語 / 乗り物に住むということ」という小さな写真集が書棚にあるのを思い出しました。渡辺裕之著   1993年3月30日発行の INAX ALBUM No.13   A5版48ページの写真集です。終戦直後の住宅難の時代に客車や電車の台車を外して 住宅や教室に転用した風景の記録です。ナハ22000の車内を4世帯の住宅にした平面図もあります。表紙だけをスキャンして添付してみました。 ご興味があれば お知らせ下さい。小さな本ですので、簡単に送れますので お貸し致します。

記憶の中の京阪電車 Ⅲ

京阪電車について過去2回書込みをしたが、よくよく考えると当クローバー会には、乙訓の長老を筆頭に京阪に超詳しい諸先輩方が多数おられるし、また、同社の元役員、社員の方、現役の方も多数おられるため、私如きが出る幕はないが、まあ8年間も乗っていると、たまには、珍しいこと、思いもかけないことに遭遇するものである。そんな思い出等をあと少しだけ書込みしたい。

1900の試運転

1900については、小林純爾氏が「青信号」やJTB Can Books「京阪特急」の中で詳しく解説されておられるので今更という感じであるが、昭和39年3月23日に撮影した「試運転」の写真が出てきた。1950+1913の2連が枚方市を発車したところであるが、周りの景色も何処となくのんびりしている。

 

 

706と並んだ1950

1800の急行

新1900形と交替して1800系はロングシート化され、一般車となったが、塗装は暫くの間そのままであった。1803-1881+1804は最初からロングシートで作られ、主に急行に使用されていた。

 

1809他5連の急行   昭和41年2月19日     丹波橋

 

最初からロングシートの1804  昭和41年2月15日     丹波橋 

スカートの無い2200

2200を初めて見たのは、昭和40年1月8日、3学期の始業式の日のことである。この日は授業がなく午前中に自宅に帰れるので、午後は京都駅で臨時列車の撮影を計画していた。電車が深草を通過した時、東側の留置線に停まっている車両(2205+2255)を見て、昼食もそこそこにカメラを持って深草に引き返した。最初見たときは2000と変わらないと思ったが、初めて営業運転で見たときスカートが付いていたので、逆に吃驚した。

 

 

昭和40年1月8日  深草

宇治線の300形3連

昭和39年頃の宇治線の朝ラッシュ時は殆ど300形3連であった。六地蔵辺りで満員になり、桃山南口、観月橋では超満員、ただでさえ小さな木製車体ははち切れんばかりであった。特に着膨れシーズンともなれば車掌さんは正に命がけの勤務であった。

 昭和39年3月20日  中書島

1000系5連の急行

昭和39年頃、1000系もよく急行運用に入っていた。この編成は中間に1200形を挟んだ綺麗な貫通編成であるが、それ以前は500形がよく入っていた。 

 

昭和39年11月3日   滝井

過渡期の1000形

1000形と1100形は運転室側にジャンパ線がなく、編成の中間には連結できなかったが、運用上不便なため昭和40年頃からジャンパ線の取付け工事が始まった。写真の1005は、準備工事としてジャンパ線の取付座が設置されたところである。

編成の先頭の1204は正面の窓枠がアルミサッシ化され、貫通扉が金属製のものに取り替えられている。

 

昭和41年1月15日  丹波橋

須磨浦公園で見つけたロープウエィ

新春に走る583系(京都車)の臨時列車を迎撃しようと友人と語らい、
須磨浦公園へ来ました。 動画で撮影しましたので、
http://www.ec583.org/~y_square/temp/tetu290104.htm
にて
ご覧になれます。 ところでロケハンの途中で、こんなもの ↓ を見つけました。

駆動装置は山上に設置されている様で、峰には中間鉄塔らしき構造物が
遠望できます。砂防ダムの建設資材の運搬用に設置されたと思いますが、
人間は乗せず、資材を引き上げたり伐採した樹木を下ろしたりするもの
でしょう。施錠されているので近寄って見られませんが、まだまだ現役の
様にも見えます。

カゴの上部(油溜め?)の縁には「一 コケ」なんて表記もあります。
詳細をご存知の方、フォローを頂ければ幸いです。

賀正 秋保電車懐古

「拙老にチョッカイが出た」と須磨が書き込んだ。それに「乙訓は沈黙である」と応じたら、「敵前逃亡まかりならぬ」と、須磨からアームストロング砲による弾丸が乙訓めがけて飛んできた。未だ破裂していないから、どうにか生き永らえている。そこで須磨の大人提供の十六景について知ったかぶりをしてみよう。

 一景目。こんな侘しい風景の中をがったんごっとんと秋保街道沿いを走っている1407号、その兄弟406号の車中で乙訓はどんな思いを持って乗っていたのか、半世紀前のことだから全て忘却の彼方である。まして車庫へ行って在籍車の要目、来歴を教えてほしいとやっていないからピク誌369号が頼みの綱である。和久田氏の調査を下に受け売りを試みる。

二景目、電関はED1011925年日立製、122両あったとか。1両は1938年に福博電車へ譲渡された由。残る1両(旧2らしい)は廃線まで使われたとあるが、記憶にない。見たかどうかも? 花巻にもこんな小型がおったな、の程度。出力は22.4kw×2、運転台には蒲鉾形のコントローラーとハンドブレーキのハンドルしかなかった、ということだ。ブレーキは人力のみに頼っていたのか。電制はどうなのか。重い石を積んだ貨車を従えて大丈夫だったの? と問うてみたい。

三景目(車庫内)は開業時の電動車マハ13の後身、ボギー化されなかったマハ2→モハ402である。さて今も分からないマハなる称号である。「マ」とはなんじゃい。モをマとしたのは、モーターは“マワル”からなのか? 1925年大阪鉄工所製、出力は電関と同じ。兄弟のマハ13はボギー化されモハ14011403を名乗った。ボギー台車は都電の中古品で、ブリル27GEだったと言う。402はブリル21E系そのまま。

四景目(車庫内)。後で出てくるダブルルーフの木造ボギー車と車体形状が異なる。何号なのか分からない。最後まで在籍したモハ8両、サハ4両を消却法で残る車号を探してみたらモハ405号となった。だとすると1912年名古屋電車製造で、新三河電軌に納品されたものだと言うことになる。新三河16→名古屋市電123を兄弟17号と共に193812月に譲り受けたことになっている。出力18.7Kw×2。折扉が付いているのは当地へ来てからのものであろう。

五景目。一景目の延長線と判断する。

六景目。ホームがカーブしているから長町駅であろう。一景目の1407と違い窓が2段上昇型になっているモハ1408である。トレーラーはサハ406のようだ。それにしてもシングルポールは長いなぁ。

七景目。モハ411404の編成。404は自社製、19520126付竣工となっている。

八景目。モハ140319510414付でボギー化の届けが出ている。1401の方12

日遅れての竣工となったようだ。

九景目。モハ410は仙台市電になりそこねた2両のうちの1両である。バッファー、連結器がない。

十景目。同じく仙台市電なりそこなったもう1両である。モハ411は連結可能車である。4104112両は日本鉄道自動車、19466月製造で、19461213の入籍となっている。

十一景目。モハ1408.であろう。14071408は兄弟車両で、元は常南電気鉄道のものであった。峡西電鉄(後の山梨交通)を経て19420108日付けで譲渡された。19261月蒲田車両製の木造4輪車がプロトタイプ。これよりピク誌167号の受け売り。

常南電鉄は根崎(常磐線土浦の0.5km手前)~阿見(霞ヶ浦辺り)間4.1kmを1926(大正15)年109日に開業した。1928322日、根崎から土浦への延長なり全線開業となった。軌間1,067粍、直流!600Vであった。柿岡の地磁気観測所に近い地なのに直流電化が認められたのはどうしてなのか。であるのに利用者は少なく、1938228日に終焉の日を迎えた。もう少し頑張ることができたなら、ガソリン統制にあった代替バスのお世話になることなしに、霞ヶ浦海軍航空隊の足になったであろう。

 開業にあたり蒲田製木造4輪電動車5両(15)と付随車2両(67)新造した。電動車は最大寸法(L×W×H7,925×2,134×3,653粍、自重7頓、定員44人であった。1928年に5号は脱線大破しているが、車籍は残したままであったとか。廃線後、145(車籍のみ)、67の全車が峡西電気鉄道に売却され、15107111(順序不明)と改番された。672両は峡西電鉄では使用されなかったため無番号であったようだ。これらのうち3両が温泉電車となった。

先達の調査によると、

峡西?(常南・付6)→秋保マハ7→モハ1407(ボギー車改造19510414

峡西?(常南・付7)→秋保サハ5→モハ1408(電動ボギー車化19510426

峡西モハ110→秋保サハ3→サハ406 となる。

十二景目。当線オリジナルの付随車サハ1→サハ4011925年1月丸山車両製。19250601日認可とあるから開業以来のものだ。同型にサハ402がある。

十三、四景目。十一景目と共に何処の駅だろうか。電車の運転本数の割には交換可能駅が多かったのは、それだけ石材運搬列車があったのかな?

十五景目。秋保温泉終点の姿で、今もこの光景の雰囲気が残っている。

十六景目。サハ406であろう。

須磨の大人よ、ありがとう。

おじん2人ヨーロッパ軽便 その23-13

THE GREAT LITTLE TRAINS of WALES その6  フェスティニオグ鉄道1

パンクのお陰で VALE of RHEIDOL 列車の追っかけを断念した我々は、当初 Aberystwyth で泊まる算段だったが、中々のリゾート地でホテルも高そうなので北へ走った。パンクしたタイヤを早く修理すべくガソリンスタンド(とは和製英語で、ペトロルステーションといわねば通じないことも学んだ。ついでながら「パンク」も100%日本語?のようで、「タイヤー・フラッテド」という)を探したが、すべて無人化、かつての修理ブースもコンビニに化けていたりで、修理はできなかった。

途中手ごろなB&B(ベッド&ブレックファスト=朝食付き民宿)があったが満室。暗くなって2軒目でいいB&Bが見付かった。連泊の申出は満室の由で断念。廊下に置いてあるノートには、日本人の若い女の子(字から推察)が記入しており、車でないと絶対に来れないこんな田舎まで、女の子が、と感心した。

私事で恐縮だが、二女はイタリアのキャンティのドドドド田舎で結婚式をした。これはイタリア人の友人がそこの出身で、我々親たちはフィレンツェから車で送ってもらい、田舎のホテルに泊まったが、娘の友人はフィレンツェのホテルに荷物を置き、浴衣に着替え下駄履き姿で、一人でバスを乗り継いでやってきたのには驚いた。女性、それも若ければそこいらの男共がやたらと(必要以上に)親切なお国ではあるが、若い人の勇気には、ほとほと感心せざるを得ない。


奥がポーツマドック駅。機関車がいるのは堰堤の入口



ポーツマドック駅

翌朝ポーツマドック(こんな綴りなら読める)に向い、その手前の入江に堤防のような、約1km以上の土盛りの有料橋(通行料たった5ペニー)を渡ってフェスティニオグ鉄道の駅に。この橋というか堰堤はフェスティニオグ鉄道と有料道路の共用である。先ずは車を置き、何軒目かでまずまずの宿を確保。親父は今晩来るからというだけで、我々の人品骨柄卑しからぬを察知したと見え、前金も要求せず入口と部屋の2個の鍵を渡してくれた。パンク修理の店を訪ねたら、親切にも大分離れた場末の修理工場まで案内し、修理の間に自分は徒歩で帰っていった。


途中駅で給水中 機関士(手前)はちゃんとネクタイを締めていた

この鉄道は軌間が1フィート11 1/2インチ(597mm)、勿論スレート運搬目的の産業鉄道として、ウエールズでは最も有名である。当然車輌定規も狭いので、機関車はフェアリータイプが大活躍している。これは一見2輌の蒸機を背中合わせにした双合型のようだが、キャブは中央に1ヵ所で、両方のボイラーを焚く。フレームは1個で両方のボイラーが固着され、台車はボギー式で急カーブに対応。蒸気や排気はセンターピン部分で処理している。つまり機関車2輌分を機関士、助手各1名で運転できる。我国にはないタイプである。


終点の BLAENAU FFESTINIOG  ここは標準軌間の BRITISH RAIL に接続している

少し前の飯田線Ⅰ

 年末の同軌講ではD51498の空焚き事件の話題で賑わい、大晦日の掲示板は、総本家・青信号特派員さん、湯口先輩の書込みで大盛り上がりであった。D51の修理が1年半も要するとなれば、当面予定されているものは、真岡鐡道からC11を借りてきて急場を凌ぐにしても、以前からよく運転されている高崎~水上間は、復旧工事完了まで運休を余儀なくされる。ならばEF55の引退先延ばしという選択肢もあると思うが、JR東日本としては今更計画を変更することはないであろう。

 昨年12月は、13日に新幹線0系、20日に京阪1900のさよなら運転が行われ、最後の花道を撮影に行かれた会員の方も多かったのではなかろうか。また、名鉄パノラマカーは26日をもって通常の営業運転は終了したが、あと暫くはイベント等で運転される予定で、タイミングよく犬山総会当日の運転は叶わぬ夢であろうか。

 12月23日、大阪出張時、午前中時間があり、パノラマカーの走行中撮影を計画したが、濃霧のためダイヤが乱れており、万一のアクシデントを考慮して結局前回と同じコースにした。天気がピーカンのため、下り列車はモロ逆行となってしまった。最終日が近いせいか平日にも拘らず、神宮前駅には30人、堀田駅は10人位の同業者がいた。大部分の人は他形式には見向きもしていなかったが、私はこんな時くらいしか名鉄の撮影ができないため、6000系等にもせっせとカメラを向けた。

 前回、JR東海ニュースリリースの紹介から飯田線の119系について書込みしたが、3月14日のダイヤ改正で「ムーンライトながら」の廃止により、同列車と飯田線の特急「伊那路」、身延線特急「ふじかわ」に使用されている「373系」にも大きな動きがありそうである。373系は3両編成×14本=42両在籍し、前述の列車及びその送り込みの普通列車、間合い運用で平日のみ大垣~米原間の普通列車に2往復使用されている。「ムーンライトながら」が廃止されると「伊那路」用として2本、「ふじかわ」用として3本、予備車2本位あれば充分であり、半数弱が余剰となると思われる。車令が若いので廃車にはならないだろうが、普通列車用としては乗客の多い本線筋では使い勝手が悪く、臨時特急、臨時快速、団臨位しか使い道がないのではなかろうか。セントラルライナーの増発、ワンマン化の上中津川以東のローカルに転用等も考えられなくはないが「ムーンライトながら」の廃止が思わぬところに波及することだけは確かである。

 ここからが本題で、過去「飯田線」については乙訓の長老より「クハユニ56」についての書込みや893-2さんの美しい風景写真による紹介等があったが、今回は17mについて少し触れてみたい。飯田線での17m車の活躍は、M車は昭和45年8月19日付廃車のクモハ14013、T車は昭和47年4月17日付廃車のクハ16446と447が最後で、我々の世代ではギリギリ間に合ったという感じである。当時の飯田線は蒸機全盛時代のためか、数少ない旧形国電ファン以外の人から注目されることは殆ど無かったように思われる。今回は「クモハ」と「クハ」のみの紹介とし、クモニ13、クモエ21、クエ28については項を改めて紹介する。本来ならばもっと数多くの車両について書きたいところであるが、自分で撮影したものの中から代表的なものを選択して紹介する。また、配置区は撮影時のものである。

(1)   3扉ロングシート車

飯田線に在籍した3扉ロングシート車は、クモハ11、クモハ12、クハ16、クハニ19、サハ17の5形式である。距離と乗車時間の長い路線には不向きのため、関西から転入したクモハ51形等と交替して昭和40年代の初めには姿を消したが、一部のクハ16は、スカ色に塗り変えられ、昭和47年4月まで在籍した。クモハ12は昭和62年、クモヤ22112からイベント用として復活した12041である。

クモハ11202(トヨ)  40.3.20    豊橋

昭和4年川崎車輌製でモハ31004として誕生、昭和28年6月の改番でモハ11202となった。昭和42年配給車に改造され、クモル24021となり大阪地区で使用され、昭和56年5月に廃車となった。

クハ16219(トヨ)   40.3.20    豊橋

この車の経歴は少々複雑で、昭和2年日車製でデハ73253として誕生、昭和3年10月の改番でモハ30053、昭和24年に電装解除してクハ38065、昭和28年6月の改番でクハ16111、昭和30年二重屋根から丸屋根に改造してクハ16219となった。豊橋→北松本→伊那松島→北松本→富山港線と短期間に転属を繰返し昭和42年4月に廃車となった。

クハ16446(ママ)   46.9.25    伊那松島

最後まで残ったクハ16で、昭和15年7月大井工場で木製車の鋼体化改造車クハ65110として誕生、昭和28年6月の改番でクハ16446となった。昭和34年にトイレが設置されたが番号は変更されなかった。廃車は昭和47年4月である。

クハ16451(ママ)   45.11.23   伊那松島

昭和14年3月大宮工場で木製車の鋼体化改造車クハ65067として誕生、昭和28年6月の改番でクハ16451となった。昭和32年にトイレが設置され、昭和46年8月廃車となった。

クハ16491(トヨ)   40.3.20    豊橋

昭和15年11月大宮工場で木製車の鋼体化改造車クハ65117として誕生、昭和28年6月の改番でクハ16491となった。昭和38年にトイレが設置され、昭和42年6月廃車となり、伊豆箱根鉄道に譲渡された。

クモハ12041(シス)  61.8.6     沼津

昭和62年3月飯田線のイベント用として、モハ10016改増のクモヤ22112を再度旅客車に復帰したもので、クモハ11100番台改造のクモハ12040の続番とした。新AA基準に達していないため、佐久間~相月間の峰トンネル区間の客扱いできない、老朽化等により平成13年廃車となった。現在伊那松島区に保管されているが、近々建設が予定されているJR東海の鉄道博物館で保存されるかどうかは微妙なところである。経歴はかなり複雑で、昭和2年汽車会社でデハ73331として誕生、昭和3年10月の改番でモハ30131、昭和28年6月の改番でモハ11047、昭和29年豊川分工場での更新修繕Ⅰで運転台を撤去してモハ10016、昭和39年浜松工場で牽引車に改造されクモヤ22112となった。画像はクモヤ22112時代のものである。

(2)   2扉クロスシート車

2扉クロスシート車は、クモハ14、クハ18、サハ15の3形式が在籍した。クモハ14は戦前の横須賀線のエースで、低屋根に改造されなかった車は全車飯田線に集結した。距離と乗車時間の長い飯田線には向いていたが、老朽化のため関西から転入したクモハ51形等と交替して昭和40年代前半には姿を消したが、14007と009は富士急行に譲渡され、昭和57年まで活躍した。

クモハ14000(トヨ)   41.9.3   豊橋

昭和5年川崎車輌製でモハ32001として誕生、戦前の横須賀線のエースであった。昭和28年6月の改番でモハ14001、更に昭和34年12月の改番でモハ14000となり、昭和44年8月に廃車となった。更新修繕Ⅱの実施が昭和29年10月と早かったため、正面の雨樋が直線のままで、原型の面影をよく残していた。

クモハ14001(トヨ)   40.3.20    豊橋

昭和5年川崎車輌製でモハ32005として誕生、昭和28年6月の改番でモハ14002、更に昭和34年12月の改番でモハ14001となり、昭和44年6月に廃車となった。更新修繕Ⅱが昭和33年6月に実施され、正面雨樋が曲線となり、正面窓がHゴム化された。

富士急行モハ7031←クモハ14007(チウ) 50.3.23  東桂

昭和6年汽車支店製でモハ32023として誕生、昭和28年6月の改番でモハ14023、更に昭和34年12月の改番でモハ14007となり、昭和44年6月に廃車となったが、富士急行に譲渡され、同社のモハ7031となった。富士急行では、客窓のアルミサッシ化、シートの張替え、車内の塗り潰し等を実施の上、同時に譲り受けた元クハ16425のクハ7061と編成を組んだ。

富士急行モハ7032←クモハ14009(ママ) 50.3.23  河口湖

昭和6年汽車支店製でモハ32031として誕生、昭和28年6月の改番でモハ14031、更に昭和34年12月の改番でモハ14009となり、昭和44年6月に廃車となったが、富士急行に譲渡され、同社のモハ7032となった。富士急行での改造は、前述のクモハ14007と同じで、同時に譲り受けた元クハ16467のクハ7062と編成を組んだ。2編成ともに昭和57年11月に廃車となった。 

クハ18001(ママ)   41.3.13    三河川合

戦時中の昭和19年3月大井工機部で身延線用に木製車の鋼体化改造車クハ77001として誕生、昭和28年6月の改番でクハ18001となった。本長篠から乗車したのがこの車両で、途中停車時間の長い交換駅で撮影しようと思っていたところ、三河川合で切離されてしまいこのような写真しか撮れなかった。昭和41年9月に廃車となった。

サハ15000(トヨ)   41.3.13    本長篠

昭和4年田中車輌製でサロ37001として誕生、昭和28年6月の改番でサロ15000、昭和38年11月格下げでサハ15000となり、昭和41年7月に廃車となった。戦後長らく横須賀線で活躍していたが、昭和37年10月伊東線に転属、格下げ後の昭和39年2月日光線と東北本線宇都宮~黒磯間のローカル用として小山区に転属、昭和40年7月豊橋区に転属となったが僅か1年で廃車となった。

(3)   373系

3月14日のダイヤ改正で大きな動き予想される373系について少し触れておきたい。平成7年から8年にかけて老朽化した165系の代替として作られ、クモハ373+サハ373+クハ372の3両が1編成となっている。特急からローカル使用までの汎用性を持たせているため、扉は両開きでデッキの仕切りがなく、冬季「ムーンライトながら」に乗車する場合は座席の位置(特に進行方向前方の扉付近)によっては非常に寒く、それなりの防寒対策が必要である。

 

クハ372-5他3連の特急「伊那路」 19.11.3 中部天竜

 

クモハ373-5           19.11.3 中部天竜

高島町駅の写真ありがとうございます

新年明けましておめでとうございます。昨年は江若鉄道に関してこの掲示板上をにぎやかしましたが、今年もしつこく江若鉄道にこだわってゆきますので よろしくお願い致します。総本家様より高島町駅のスナップを提供頂きありがとうございました。今は車両の復活に時間を費やしていますが、是非レイアウトセクションも作りたいという夢を描いています。三井寺下の再現も考えましたが、カーブポイントが多いのと6帖ひと間はいるだろうと思うととても手が出ず、構内写真が少しあったり オハ27が留置されていた高島町なら作れるのではと何となく考えているところです。総本家さんとは同じ日に同じようなアングルで数枚スナップを撮っています。これが私の持っている高島町駅の写真のすべてで、大胆にもこの情報から再現を夢見ている次第です。高島町駅周辺を含め 写真などがありましたら是非ご提供ください。駅舎の前に停まっている江若バスも当然復活させたいのですが、これも自製するしかないかと覚悟しつつ、1/80の犬バスの出物でも見つかればいいのに・・・と横着心が首をもたげてきます。何はともあれ 本年もよろしくお願い致します。

江若近江今津/鹿児島市電

なぜかしばらく鳴りを鎮めていた総本家青信号特派員氏が、憑き物でも落ちたか、心機一転されたか、俄然連続投稿。江若となると拙老も負けてなるものかと奮起したいところだが、その実あれだけ江若に通いつめたのに、終点近江今津まで行ったのはたったの1回、それも就職してからで、要は運賃がすこぶる高い鉄道だったから、に尽きる。

近江今津の本屋は屋根が尖って著しく高く、一見山小屋風?だったと記憶する。画面右側に半分写っているだけだが、ご推量願いたい。構内は広かった。撮影は1969年7月27日。

電車と、それも路面電車なんぞとは無縁と思われがちの拙老だが、少しは撮っている。これは1955年3月20日の撮影で、ドイツ製バルジーナという35mmスプリングカメラだったが、なまじファインダーにパララックス矯正装置がついているのが仇になり、例えば製造銘板や台車など、接写の際修正して、その後ほぼ間違いなく戻し忘れる。と、これも間違いなくその後の撮影はパンタやポールが切れる、という始末となる。

1955年時点での鹿児島市電は2軸単車の方が多かったように記憶する。解説は本来なら乙訓老人のお役目であろうが、このところ沈黙を続けて御座らっしゃるので、どなたか、代稽古(といっては大変失礼だが)を努めて下され。

なおフイルムは純正品を買う金がなく、写真屋で得体の知れぬ代物を使った。現像するまで種類や感度が分からない、というのは、太秦あたりの映画カメラマン助手の助手あたりが、残尺と称する、撮影時中途半端に残ったネガフイルムをくすね、小遣い稼ぎに写真屋に売り、写真屋はそれを何回使ったか分からん古パトロ-ネに詰めて売り、カネのない我々が買う、という仕組みである。

それでもその後の「純正ネオパンSS」と違い、53年経過してもビクともしていないのが何とも皮肉である。

33年前のニアミス

【1123】で8932さんが「EF52さよなら運転」の時に和歌山駅で撮影された画像を公開されたが、実は私も同じ場所で撮影していた。893-2さんが書込みされている通り昭和50年8月24日のことである。

 当日のことはあまり記憶に残っていないが、「きのくに53号」を紀伊駅の近くで撮影しているので、京都の自宅は朝早く出発したと思われる。唯、列車通過まで時間がなかったためか、良い場所では撮影していない。その後、和歌山駅で撮影し、帰りの「きのくに54号」までの間、有田鉄道と野上電鉄に行った。有田鉄道は富士急行から購入したキハ58はまだ使用されておらず、キハ07が使用されていた。また、野上電鉄は富山地鉄からデハ5031、5034、5035、5037の4両を購入した直後で、5034が車庫内で野上仕様に改造中、他の3両は富山地鉄時代のままの姿で留置されていた。

 和歌山に戻り、再度EF527を撮影後、紀伊駅へ、六十谷寄りで「きのくに54号」を撮影した。あの日から33年も経過しているが、感覚的には20年位前のことのように思える。

 和歌山駅構内で展示中のEF527(50年8月24日)

 

 EF527お別れ列車「きのくに54号」(50年8月24日) 紀伊~六十谷

 EF527「きのくに53号」(47年8月6日) 山中渓~紀伊

 

ED608「きのくに55号」(47年8月6日) 山中渓~紀伊

 ED604 貨物列車(47年8月6日) 山中渓~紀伊

 ED607 貨物列車(47年8月6日) 山中渓~紀伊

 EF526 貨物列車(47年8月6日) 山中渓~紀伊

 EF52 単機回送 (47年8月6日) 山中渓駅

 

ED6117+EF58 貨物列車 (50年8月24日) 紀伊駅

EF58の次はマニ60で関西線の荷物専用列車から竜華操車場で切り離され、貨物列車に併結され和歌山まで行っていた。

 EF525+ED60 貨物列車 (46年10月31日) 和歌山

 EF525 新宮発天王寺行115レ (42年5月28日) 長居駅

 

 EF525他重連回送 (49年1月4日) 杉本町駅

名鉄パノラマカー・EVE見学記

名鉄パノラマカーが12月26日をもって定期運用を離脱することが確定した。京阪1900形は10月18日をもって定期運用を離脱、新幹線0系は11月30日で定期運用を離脱し、昭和30年代の名優が揃って引退することになった。最終日に新大阪6時12分発こだま629号に乗った友人の話では、ホームの警備の物々しさに比べ、早朝のためか乗客は少なく、自由席で40%、指定席も空席が目立っていたそうである。

 11月27日、午後から大阪で仕事があり、午前中時間が空いていたので、パノラマカーの撮影を計画した。同社のHPにダイヤが公開されており、撮影には大いに参考になった。東京を朝出発して、午前中撮影可能な列車は、神宮前駅を基準にすると、上りは8時54分発急行内海・常滑行(後4両常滑行がパノラマカー)と11時16分発普通東岡崎行、下りは9時24分発、普通金山行と9時35分発普通岩倉行の4本で、11時16分発の東岡崎行は、9時35分発の岩倉行の折返しのため、撮影できるのは実質3本である。

 当日、東京駅6時発の「のぞみ1号」に乗車、名古屋着7時36分で、パノラマカーは早すぎるため、8時30分頃まで中央線の電車を中心に撮影、211系と313系の併結10連が次々と発着する光景は中々のものであった。また、2扉転換クロスの213系5000番台はラッシュ以外殆ど姿を見せないのでこの時間帯がチャンスである。

 名鉄名古屋駅から豊川稲荷行急行に乗り神宮前へ、ここで撮影するのは30年振りである。まず、内海・常滑行を撮影するが上り電車と被ってしまい、辛うじて後追いで撮影した。続いて上りの金山行を撮影するが、どこからともなく同業者が2人現れた。白帯車であったが、下り電車と被ってしまい、発車直前に辛うじて撮影することができた。この電車は恐らく金山で折返し、回送で戻ってくるが、岩倉行を撮影するため、快速急行吉良吉田行で次の堀田へ、ところが岩倉行はパノラマカーではなく、6000系の4連でガックリ。折返しの東岡崎行も期待できないため、地下鉄で大曾根に行き、瀬戸線の吊掛車を撮影しようと思い駅を出たが、もしかすると岩倉で車両交換するかも知れないと思い、再びホームへ。昭和40年代前半は、7000系の他、5000系高性能車、流線形の3400、830、戦前形のAL車、3700系HL車等バラエティーに富んでいたが、今は6000系と3500系が主力で変化に乏しい。撮影中に携帯の着信音が度々鳴るが勤務時間中のため、これは仕方がない。1編成のみの1380系が撮れたのはラッキーであった。やがてパノラマカーの到着予定時刻になり、ホームの端で待っていると、4コのヘッドライトが見え、7041の編成が来た。やはり岩倉で車両交換したのであった。

 新名古屋の戻り、在来線ホームを覘くと多治見行のラスト2両に213系が連結されていたので大急ぎで撮影後、発車間際の「のぞみ19号」に乗車、午後1時前には楽々新大阪に到着した。

 1. 神宮前を発車した急行新鵜沼発内海・常滑行の8連、後4両のパノラマカーが、太田川で分割し普通常滑行となる。(後追い) (7043-7754-7753-7044)

 2. 神宮前駅に到着した普通知多半田発金山行  (7011-7162-7061-7012)

 3. 本来はパノラマカー運用の普通東岡崎発岩倉行であるが、本日は6000系。(後追い)

4. 先頭のモ6912

 5. 岩倉で車両交換して本来の運用に戻った普通東岡崎行。午前中の運用はこれで終わり。

(7041-7082-7081-7042)

 6.1000系6連の快速特急豊橋行

 7.ク3303他6連の快速急行豊橋行

 

8.モ1384他4連、普通東岡崎行

一部特別車の特急編成 (113411841384133415841534)が平成4年9月、踏切事故で特別車両の1134と1184が大破して廃車となったが、一般車の4両は被害の少なかったため、1384に運転台を取付け一般車とした。車内は特急時代の転換クロスのままであるが、専ら普通列車に使用されている。

 9.ク3521他4連、準急東岡崎行

平成5年から7年にかけて作られた通勤形車で、GTO素子を用いたVVVFインバータ制御車である。

 

10.ク6247+モ6047 普通豊明行

昭和51年から59年にかけて作られた通勤形車で、写真の車は昭和58年製の9次車である。正面のデザインから「鉄仮面」と呼ばれている。

 

11.蒲郡線と広見線の末端区間ワンマン化に伴うポスター

地元では「廃止を前提とした合理化」と相当反発を招いているようである。

 仕事は順調に進み、17時30分に終わった。朝が早かったので(4時起床)、このまま真っ直ぐ帰ろうと思ったが、今日は「EVE」。ここまで来て展示を見て帰らない訳には行かないと思い、新快速で京都へ。会場には18時30分頃到着した。今年の展示のメインは「加悦鉄道」で、DB201の引く客車列車、修復工事中のハ10、キハユニ51の写真等、貴重なものが多く見応えがあった。また、伊賀鉄道のイベントに使用したヘッドマークの実物の展示もあり中々充実していた。個人の好みにもよるが、ここ5年位毎年展示を拝見しているが、今年が最高ではないかと思った。会長の田中君としばし懇談し、青信号66号を購入し会場を後にした。「のぞみ96号」に乗車し、本日3食目の駅弁を食べた後「青信号」を読んだが、読み終えたのは掛川駅通過後で、総本家青信号特派員さんや中国特派員さんの記事もあり、こちらも充実した内容であった。

 おなじみの9mmの大レイアウト

 

伊賀鉄道の行先板(本物)

 加悦鉄道の現役時代を知るものにとっては非常に懐かしく、今尚大切にメンテナンスを行いつつ保存されている状況を知り、安心すると共に、活動が何時までも続けられることを切に願うばかりである。

貴志川線

乙訓の長老より9月30日【360】「竹藪の傍」の中で1958年和歌山電気軌道時代に撮影された、モハ205、モハ206、クハ801の画像を公開されたが、この時代の画像は極めて少なく非常に貴重な記録である。

私が訪問したのは南海合併後の昭和40年1月17日と翌41年2月27日で、長老が撮影された当時の車両が、パンタ化されて活躍していた。

.歴史

貴志川線の歴史について簡単に述べると、大正3年6月3日に創立された山東軽便鉄道が前身で、大正5年2月大橋~山東(現伊太祁曽)間蒸気列車で営業開始。大正6年大橋~中之島間延長するも、大正11年7月国鉄紀勢西線開通に伴い、中之島~田中口間を廃止し、田中口~東和歌山間を新設。昭和4年11月、社名を山東軽便鉄道から山東鉄道に改称しガソリン車を導入。昭和6年4月、社名を山東鉄道から和歌山鉄道に改称。昭和8年8月、山東を伊太祁曽に改称し、伊太祁曽~貴志間を開業した。

戦時中、燃料入手難から電化を計画し、昭和16年12月東和歌山~伊太祁曽間、昭和17年12月伊太祁曽~大池間、昭和18年2月に全線の電化が完成した。当時、ガソリン動力の鉄道は、燃料入手難から蒸気動力に逆戻りしたケースが多かった中で、電化を選択したのは先見の明があったと言えよう。

 戦後は経営難のため昭和32年11月、和歌山電気軌道に吸収合併。昭和36年11月和歌山電気軌道が南海電鉄と合併したため、南海電鉄貴志川線となった。昭和39年5月、集電装置をポールからパンタに変更。昭和43年3月1日、国鉄が東和歌山駅を「和歌山」に改称したため当線も同時に改称。昭和43年6月、高野線の平坦区間で使用されていたモハ1051形8両とクハ1801形4両が転入し在来車を置換え。昭和46年8月、モハ1201形10両転入により、モハ1051形とクハ1801形を置換え。平成7年2月、高野線22000系を貴志川線用に改造した2270系6編成が転入し、モハ1201形を置換え。同年4月1日ワンマン化。平成16年9月30日、南海電鉄が貴志川線の廃止を申請。平成17年2月28日、後継事業者を両備グループの岡山電気軌道に決定。平成18年4月1日、和歌山電鐡として再発足した。

.車両

昭和40年1月の時点での在籍車両は電動車8両(モハ201、203、205、206、601~603、605)、制御車3両(クハ802~804)の計11両で、翌昭和41年2月の時点では、輸送力増強のため本線から付随車が2両(サハ1821、1827)転入して13両となった。湯口先輩もふれておられたが、気動車からの改造車が電動車4両、制御車2両の計6両が在籍し約半数を占めていた。以下、画像と共に簡単に紹介したい。

 モハ201

元和歌山鉄道キハニ201、昭和6年小島工業製のガソリンカー。昭和17年8月電動車に改造した。和歌山寄りに荷物室と荷物扉が設置されていたが客室化されていた。

 

(昭和41年2月27日)

モハ202

元和歌山鉄道キハニ202、昭和8年日車製のガソリンカー。昭和17年5月モハ201と同時期に電動車に改造した。正面は変則3枚窓で、以前は和歌山側に荷物台が付いていた。

 

(昭和41年2月27日)

モハ205、206

元江若鉄道のキニ1、2を終戦後の昭和22年10月に譲受け、翌年電動車に改造した。江若鉄道では燃料不足もさることながら、小型のため持て余していたものと思われる。製造は昭和6年川崎車輛である。

 (昭和41年2月27日)

モハ601、602

昭和30年、元阪急の車体に南海より譲り受けた台車、終戦直後63形投入の見返りとして入線した元東急(京浜急行)の木製車モハ501、502用の電動機の予備品を組み合わせて誕生した。モハ601は阪急63形の70(大正10年梅鉢鉄工所製)モハ602は51形の60(大正9年梅鉢鉄工所製)である。製造時は木製車であったが、昭和25年に台枠、屋根、主要機器を流用して鋼体化が実施された。

(昭和41年2月27日)

(昭和40年1月17日) 

モハ603

東急から譲り受けた木製車モハ501の車体の老朽化が激しいため、昭和31年、元阪急81形84(大正12年川崎造船所製)の車体と振り替えた。

 

(昭和40年1月17日)

モハ605

長老が紹介された片ボギーのクハ801の代替として昭和34年に登場した車両で、車体は元阪神の701形702に南海から購入した台車、電動機の組み合わせである。(台車はその後603と振替)車体は昭和7年大阪鉄工所製。尚、阪神701形は野上電鉄にも704、707、710の3両が入線し、廃止まで使われた。

 

(昭和40年1月17日)

クハ802

元片上鉄道のガソリンカー、旧車号はキハニ102、昭和6年日車製である。昭和30年ナニワ工機で制御車に改造の上入線した。片上鉄道では戦時中燃料不足により客車化(フハ102)されており、戦後は岡山臨港鉄道に貸与されていた。

(昭和40年1月17日)

 クハ803

クハ802と同じく、元片上鉄道のガソリンカーで、旧車号はキハニ120、昭和10年加藤車輛製。昭和30年ナニワ工機で制御車に改造の上入線した。この車も戦時中燃料不足により客車化(フハ120)されていた。

 (昭和40年1月17日)

クハ804

東急から譲り受けた木製車モハ502の車体の老朽化が激しいため、昭和30年、元阪急1形8(明治43年川崎造船所製)の車体と振替の上クハ化した。元阪急1形は、戦後京阪石坂線で長く活躍していたので、高齢者予備軍以上の方には馴染み深いと思われるが、8と7は1形中最後までMとして甲陽線で働いていた。昭和30年、夙川駅で7がホームに乗り上げ破損した時、8も一緒に廃車となった。但し、書類上は610形に改造されたことになっている。

 

(昭和40年1月17日)

サハ1827

昭和40年、輸送力増強のため、1821と共に本線から転属した。昭和14年、木製車の台枠他、使用可能な部品を使って鋼体化した「簡易半鋼車」と呼ばれたグループ。本線では17m車のため中形車の部類に属していたが、貴志川線では超大形車に見えた。

 

(昭和41年2月27日)

貴志行の混合列車

貴志川線は昭和43年まで貨物営業を行っており、混合列車が運行されていた。

 

(昭和40年1月17日)

クハ801(廃車

長老が【360】で紹介された、クハ801の廃車後の姿であるが、ご覧のように集電装置はボウが付いている。集電装置は、当初大阪軌道線のパンタ化で不要になったボウを使用する予定であったが、この車でテストをしたところ結果が芳しくなかったため、結局パンタに変更となったと思われる。

(昭和40年1月17日)

 モハ300(廃車体)

昭和18年12月、大池~貴志間の電化により全線電化が完成したが、その時に南海電鉄より軌道線の電2形57(大正10年川崎造船製)を譲受け鉄道線用に改造した。昭和30年7月に廃車となったが、昭和40年まで廃車体が残っていた。

(昭和40年1月17日) 

モハ1058

昭和43年、在来車の置換えのために転入した車で、高野線の平坦区間で使用されていた。モハ1058は、昭和24年川崎重工泉州工場製のクハ1844を貴志川線転属の際、電装したものである。

 

(昭和46年10月31日)

 モハ1214

昭和11年日車製、この車は昭和47年水間鉄道に売却され、同社のモハ508となっている。

 

(昭和46年10月31日)

 モハ1220

昭和12年汽車製造で、前述のモハ1214より窓の上下幅が広くなったため、保護棒が設置されている。この車は昭和47年京福電鉄福井支社に売却され、同社のホデハ2008となった。尚、モハ1201形は車両交換が行われていたことを、本稿を入力して初めて知った。

 (昭和46年10月31日)

モハ1214+モハ1213 (昭和46年10月31日)

モハ1220+モハ1221(昭和46年10月31日)

 以上、過去貴志川線で活躍した車両を簡単に解説したが、モハ2270系と交替するまで働いたモハ1201形、元高野線の急行車クハ21201、モハ2270系及び和歌山電鐡転換後の状況、「いちご電車」「おもちゃ電車」「たま駅長」の話題等について報告いただけると有難く思う。

 

おじん2人ヨーロッパ軽便 その23-11

THE GREAT LITTLE TRAINS of WALES その4 TALYLLYN RAILWAY その2


タリスリン鉄道始発駅 いかにもこじんまりとし、実に綺麗である ポストはやっぱり赤い

17号客車 日本にも明治時代あったメトロポリタン製で、コリス鉄道から到来


3コンパートの2軸車

終点駅で

先述のように、この鉄道は本来終点→基点(港)間のスレート搬出を目的とする産業鉄道だったから、途中駅は大した側線もない単なる停留場ないし離合施設だが、沿線には羊の放牧場が展開している。道路や隣接放牧場とは背高の生垣で仕切られ、戦車なら別だろうが、突き抜けたり、上を越すなど物理的に不可能で、考えすらも及ばない程厳重で深くびっしり詰まった茂みである。


僅かだが羊が点在している

マン島でも記したが、これはまさしく高校の西洋史で習った「囲い込み運動」Enclosuer Moovement の表徴なのである。すなわち土地所有者は、それ以外の者の自己土地立入を極めて厳しく拒絶していることに外ならず、我々農耕―中でも水耕―民族には理解の及ばない、それはそれは厳重な拒否表現である。土地立入や通り抜けが銃撃を伴う争いになる西部劇のテーマが多いが、牧畜民族の(広大な)土地に対する執念は、土地本位制とまでいわれる日本人の土地に対する価値観念とは、別次元のものがある。

それでいて面白いのは、恐らくは英国特有の事象であろうが、非土地所有者は「通行権」なるものを裁判で土地所有者から勝取っている。厳重に囲い込まれた放牧場の中に小道が、縦横とまではいわないが走っていて、これが「通行権」によって設定された道= Foot Path なのである。シャーロック・ホームズシリーズに4つある長編のひとつ「バスカーヴィル家の犬」に、村の裁判マニヤの爺さんが、誰それの土地に「通行権を設定してやった」と威張る一幕がある。

そこで問題です。上記のように放牧地は厳重極まる生垣に囲まれているのに、フット・パスはどうしてそれ越えるのか。この鉄道のとある途中駅に近づき、車をおいて小路を歩いたが、駅目前に到り厳重な扉があって近づけない。鍵はないから開けて入るのは容易だが、これが私有地だったら侵入すなわち犯罪になる。標識の類は何もなく、結局我々は入るのをあきらめた。帰路行き違った人に聞くと、あの柵を開け、そのあと閉めておけばよいとのことであった。これが「通行権」かと、身をもって体験した事であった。


鉄道に募金を呼びかける看板

なおマン島 Grodle Glen Railway (555=10月9日)、ウエールズの Welshpool & Llanfair Railway (1035=11月10日)で、BANK HOLIDAY とは?との疑問を呈した。澤村達也氏から、これは英国の休日のことだとご教示があり、辞書をひくとちゃんと出ているではないか。すなわち拙老の「もの知らず」以外の何者でもなく、その上分からん事は辞書を引くという、最低限の努力さえ怠っていた事がはからずも露呈した。お詫びして以下の通り加筆しておく。

BANK HOLIDAYS とは、英国の(法定)公休日で、▽New Year’s Day (1月1日)▽Good Friday(聖金曜日=復活祭の前の金曜日) ▽Easter Monday (復活祭明けの日曜日) ▽May Day (5月第一月曜日) ▽Spring Bank Holiday (5月最終月曜日) ▽August Bank Holiday (8月最終月曜日) ▽Christmas Day (12月25日)▽Boxing Day (クリスマスの翌日) 、の8日を示す。

因みに米国では Leagal Holidays と称し、リンカン誕生日、ワシントン誕生日、独立記念日、コロンブス祭などを含む13日の由。


終点駅で 

都電荒川線と阪和貨物線

[967]で都電荒川線が[1105]で阪和貨物線の話題がでましたので、
いつものごとく便乗して投稿します。
私が都電荒川線を初めて見たのは中学1~2年の頃、母方の親戚が東京都
北区の滝野川団地の近くに住んでおり、そこを訪ねるのに京浜東北線の
王子駅から歩いていくときに走っているのを見かけたのが初めてです。
それまでは写真などでしか見たことが無かったので非常に興味を持ち
親戚の家から近いこともあり、数枚撮影しました。
そのときは7020、7505、7512の写真が残っています。

都電荒川線滝野川1丁目付近を行く7505。(昭和50年前後?)


ただ、このときは7000形はすでに車体が更新されており、少しがっかりした
ことを覚えています。そのためか写欲が湧かず(下手な写真の割りに偉そう
ですが)あまり撮影することもなく、またそう東京に来る機会もなく次に
訪れたのは昭和54年の7月にひょんなことで知り合いになった秋田の
年上の鉄道ファンの方を訪ねるときに、当時は秋田新幹線どころか
東北新幹線もなく、特急「つばさ」か寝台特急「あけぼの」が一番早く秋田に
たどり着ける手段だったため大阪からの行き帰りに泊めてもらった時でした。
このときは7030、7031、7502、7505の4輌を撮影しています。
個人的には飛鳥山から滝野川あたりの下町っぽい雰囲気が好きでしたので
(というか怖くて全線乗ってみることができませんでした。今でも東京の地下鉄は
苦手です。)
藤本先輩の撮影されていた写真は子供の頃本やテレビで見た都電そのもので、
直に見られたことを羨ましく思います。

都電荒川線滝野川1丁目付近を行く7031。バックは桜丘高校か?
(昭和54年7月28日前後)

また、先日JR西日本のHPを見たときに「阪和貨物線の廃止について」の
ニュースリリースを見つけとうとう来たかという思いでした。
すでに休止状態でしたが、休止に入る前にすでに廃止が決定的との噂が
流れていたのがいよいよ来たかという気持ちでした。この線は以前阪和線の
話題のときにも書きましたが、自宅が大阪市住吉区長居にあったため
チャリンコで15分くらいで行くことができた場所でした。
子供の頃は営業列車の走らない(「あすか」はすでに走っていませんでした)
不思議な路線でしたが、頻繁に貨物列車が行き来していたので貨物の専用線
だろうなという認識しかなく、関西本線の電化後は藤本先輩の投稿にも
ありましたが時折回送列車が通るようになり、少し車種が増えましたが
それでもなお地道に貨物が走っていました。そのうえ高校が丁度この線の
横にあり授業中によく列車を眺めていました。また、冬場は風向きの関係で
夜更けになるとこの線の貨物列車の汽笛と近鉄南大阪線の大和川橋梁を渡る
列車の音がよく響いてました。結構、夜中でも汽笛が響いていたのを布団の中で
聞いていました。それだけに、感傷的になってしまうのです。
この貨物線を走る電気機関車はバリエーションがありEF52、EF15、ED61、
ED60などやEF58などが走っていました。
特に大型のEF52には重厚さをED60・61には新しさを感じておりましたが
藤本先輩のように綺麗な写真は残っていません。
特に「あすか」などは私から見れば涙物です。
貨物線の写真は殆どありませんが2枚見つけましたのでそのうちの1枚を。

阪和貨物線依羅付近を行くEF52-2牽引貨物列車。(昭和49年頃)

また、藤本先輩の掲載していたEF52-7はさよならEF52の運転となった
臨時きのくに53・54号を牽引した機関車です。そのときは撮影に行きましたので
写真が残っていますが走行写真はとても見れたものではないので、
和歌山駅の側線でファン向けに展示されたときの写真を。
国産大型機として無骨ながら均整の取れたスタイルが好きでした。

EF52サヨナラ運転和歌山駅で展示されたEF52-7。(昭和50年8月24日)

竜華区のカマは貨物にも旅客にも活躍していたためいろんな場面で見ることが
できました。ED61はよく多客期の12系臨時急行きのくにをよく牽引していました。
当時は和歌山以南は非電化のため和歌山駅でDF50からED61などへの
付け替えが頻繁に行われていました。この写真もそんなひとコマです。
よく考えるとこのころの和歌山駅はずっといても飽きない駅でしたね。
国鉄では阪和線の旧型国電・113系やEF60・61、EF52、EF15、紀勢本線の
キハ81、キハ82、キハ58、キハ35、キハ40、キハユニ16、南海電鉄のキハ55、
貴志川線の旧型電車、和歌山線のキハ52やDF50の客レや貨物など非常に
バラエティに富んで(車輌の掃き溜めとも言えましたが)ました。
和歌山駅で機関車を付け替え出発を待つ12系臨時きのくに牽引はED61-17。
(昭和50年頃)

時代の流れで廃線や休止路線がでるのは止むを得ないですが、やはり子供の
頃から馴染みのある路線が廃止されるのは残念です。
相変わらず先輩方とは異なりいい加減な記憶と下手な写真で申し訳ありません。

我が家の江若鉄道に仲間が増えました

8月3日にDD1352とオハ4連、8月15日にワフ450の写真をご笑覧頂きましたが、その後YAHOOオークションで天賞堂のDD13を手に入れて、江若DD1351に改造しました。改造前のDD13DD1352、オハ4連、ワフ450の塗装も終えたのですが、特にワフには江若の社紋がないと ただのワフにしか見えず、思い切ってオリジナルの江若インレタを特注し お化粧してやりました。今後の江若車両の増加を見越して いろんな大きさの社紋を作り、全車に貼って ぐっと江若らしくなりました。更にYAHOOオークションで珊瑚のキハ05キットを入手しましたので、これをキハ14に仕立てようとたくらんでいるところです。作りかけのオハ27 3両の完成がいつになるか・・・ 今年のスキーシーズンには間に合いそうにありません。車両ばかりでなく レイアウトセクションも作りたいと考えていて オハの留置されていた高島町駅を再現したいのですが、駅舎や駅構内の写真が少なく、行き詰まっています。諸先輩方で高島町駅の写真をお持ちであれば、是非お知らせ下さい。

おじん2人ヨーロッパ軽便 その23-8

THE GREAT LITTLE TRAINS of WALES その1 Welshpool&Llanfair Railway 1 

1999年7月20日、我々は早朝リバプールのタウンウオッチングを兼ね、昨夜「素面」の内に確かめた河底トンネルでの町脱出ルートを再度確認。レンタカーを借り出し、先ずは銀行を探したが見付からず。走り回っている内に方角を失うなどし、約1時間遅れて出発。昨夜、今朝と確認を重ねたややこしくやたら狭いインターチェンジで見事間違ってやり直すなどややパニック気味で30分をロス。河底トンネル通行料は1ポンドだった。

これから4日間はウエールズの軽便鉄道を巡るのだが、英国の中の異国と称せられるウエールズは、未だにウエールズ語が健在で、道路標識も先ずウエールズ語、その下に英語での地名が表示されている。文字はアルファベットでも、発音が独特で、まず読めない。例えば最初に訪ねた鉄道はWelshpool&Llanfair Light Railway だが、頭はウェルシュプールで文字通りでも、次がいけない。常識的?にはランフェアと読みたくなるだろうが、これをスランベイルと読まねばならない。

ウエールズに展開し、互いに競いかつ協力し合っている小鉄道は The Great Little Trains of Wales というグループをつくり、パンフレットの置き合いや、共通乗車券の発行をしている。我々が買ったのは有効期間8日、中4日どの鉄道でも使用可能の Great Little Breaks Ticket で、大人32ポンドと一見高いが、個別に買うともっと高いし、その手間も省ける。現在では10鉄道が加盟しているが、1999年時点では8社(バラ・レイク、ブリーコン登山、フェスティーニオグ、スランベリス・レイク、タリスリン、ヴェイル・オブ・ライドル、ウエルシュ・ハイランド、それにウェルシュプール・スランベイルの各鉄道)であった。購入時は年号のみ記入してくれ、あとは自分で日付を書き込む。

最初に入れたパンフでは8番がウエルシュプール&スランベイル鉄道である。英国では珍しい762mm軌間で、古くは馬車鉄道だったものを蒸気鉄道に改めたもの。元来が農産物や羊の運搬を主目的とする鉄道だったが、1960年、保存鉄道として再発足した由。訪ねた時点では本来の車両は散逸あるいは廃棄されていて、各地―といっても世界的規模?で掻き集めている。それもその日走行していた機関車14号は英国ハンスレット1954年製1C1だが、何とシエラ・レオーネ(アフリカ)から購入したのだからいささか驚く。



同様客車もオーストリーのチラッタール鉄道はじめ、アフリカなど各地から買い集めた由。新旧取り混ぜである。


現在では随分車両も揃い、整備が行き届いている様子だが、1999年でも機関車などは結構どっさり集めていて、一応外見は綺麗だが整備が追いついていないようだった。

先頭はハンスレット製DL

No.10 Sir Drefaldwyn号 これはフランス製

No.12 Joan 西インド諸島で砂糖黍を運んでいた機関車でカー・スチュアート1927年製

No.2 The Countess バイヤー・ピーコック1902年製で、Great Western鉄道823号

何度もお断りするように、このときは原因不明のレンズ不具合?で、発色もピントもヌケも著しく悪い。見苦しいがお許し下さい。なお当鉄道のサイトhttp://www.wllr.org.uk/もご覧あれ。 

先回の[860]マン島の最後で、4コマ目マンクス電気鉄道のオープン客車を連結している電車を1号と記した。実は老眼鏡をかけるのを怠っていたのだが、その報いは歴然で、クリック拡大したら7号でありました、というお粗末。歳に免じてこれもお許しあれ。

都電荒川線

【345】で9月27日に都電荒川車庫で開催されたイベントの模様を紹介した。ご存知の方も多いと思うが、荒川線の前身は「王子電気軌道」という私鉄で、戦時中の昭和17年2月1日付で電力統制、交通統制により、当時の東京市に買収されたものである。昭和42年都電撤去計画が策定された時、荒川線も計画に入っており、モノレール化が検討されたこともあったが、元々乗客が多く専用軌道が多いこと、沿線住民の反対等により存続が決定した。但し、併用軌道の王子駅前~赤羽間は昭和47年11月12日に廃止された。買収路線であるため、「買収都電」が存在した。旧国鉄の「買収国電」は「阪和形」以外は、車齢の若い車両も含めて早々に姿を消したが、「買収都電」は昭和43年まで在籍し、その内の1両は現在も宇都宮市郊外の企業で保存されている。

昭和40年台から現在の車両に変わるまでの間、荒川線で活躍した車両は、下記の通りである。

160形、170形

王子電気軌道200形として昭和2年から4年にかけて201~223の23両が作られた。昭和17年東京市買収時にメーカーの相違により下記の通りの形式に別けられた。

201~207 田中車輛製 → 150形(151~157)

208~215 日本車輛製 → 160形(161~168)

216~223 川崎車輛製 → 170形(171~178)

 150形は川崎市電に譲渡した1両を除き、昭和27年3000形の改造種車となり廃車。160形は事故廃車された1両を除き、昭和42年~43年に廃車。170形は川崎市電に譲渡された1両、3000形の種車となった2両を除き、昭和42年~43年に廃車となった。廃車後176が宇都宮市郊外の企業に屋根付で保存されている。

 

昭和41年3月11日    王子駅前

 昭和42年3月25日    大塚駅前

 昭和41年3月11日    王子駅前

1000形

昭和7年から11年にかけて木製車の台車、部品を使用して作られた車両である。昭和40年頃の状況では、160形、170形は主力として終日使用されていたが、昼間は殆ど見かけなかったので、ラッシュ時以外はあまり使われていなかったのかも知れない。

                 昭和41年3月11日    須田町

荒川線で撮影したものがないので20系統を掲載した。20系統は江戸川橋から護国寺、駒込千駄木町、上野公園を通り須田町を結んでいた。

2500形

1067mm軌間の杉並線の廃止に伴い、1372mmに改軌の上、転属してきた車両で、バス車体の工法で造られた。昭和33年に2501、2502が交通局芝浦工場で、昭和34年に2503~2510が富士重工伊勢崎工場で作られた。車体幅が狭く、乗客の多い荒川線には不向きのため、早々に早稲田車庫に転属した。

 

昭和41年3月11日    王子駅前

 昭和43年9月6日 早稲田(早稲田車庫に転属後) 

 昭和41年3月11日    王子駅前

3000形

昭和24年から28年にかけて、主に木製3000形、王子電気軌道からの引継車を種車として作られた車両で、一部純然たる新製車も存在する。290両在籍し、4000形、6000形と共に都電の顔として活躍した。

                 昭和41年3月11日    王子駅前

 

昭和44年9月13日    王子駅前

19系統は王子駅から飛鳥山まで荒川線を走り、駒込駅前、東大赤門前、神田明神前、須田町、日本橋を通り、東京駅八重洲口を望む「通り3丁目」を結んでいた。

 6000形

昭和22年から27年にかけて290両作られた、戦後の都電を代表する形式の一つである。製造年別、製造所別の差異、初期の車両は更新による差異があり、細かく観察すると興味が尽きない。6000形については、江本廣一氏著、ネコ・パブ社RM LIBRARY19「東京都電6000形」に詳しくかつ判りやすく解説されているので、興味のある方はお読みいただきたい。

【345】で紹介した保存車6086は、昭和24年日本鉄道自動車製で、昭和41年大栄車輌で車体の更新修繕を施工している。

 

昭和52年1月24日  荒川車庫前(荒川線で現役の頃)

 

昭和52年1月24日 荒川車庫前(昭和26年 局工場製)

  7000形

6000形に代わって昭和28年から31年にかけて93両作られた。正面2枚窓、前中扉と従来の都電スタイルから大きく脱却し、都民からも大きな関心を持って迎えられ、不満が出ないように各車庫にばらまくように配置された。製造年度によりスタイルに差があり、28年製の7021~7030の10両は旧型車の部品流用車である。現在の7000形は旧7000形の昭和31年製第3次グループ(7055~7089)の内の31両で、昭和52年から53年にかけて施工された新造車体に乗せ替え時に、旧番の若い順に7001~7031に改番したものである。

 

昭和52年1月24日   荒川車庫前

8000形

昭和31年から32年にかけて100両作られた。都電の将来を見越して耐用年数を10~12年程度に抑えたため、シンプルな作りとなっている。上記の7000形同様、各車庫に分散配置された。

 

昭和44年9月13日    王子駅前

 

昭和44年9月13日    王子駅前

7500形

昭和37年、都電が荒川線のみとなる前の最後の新車として20両作られた。ヘッドライトが2個となり台車と連動して可動した。当初は青山車庫の所属で都心で使用されていたが、路線廃止により余剰廃車となった7517、7519以外は、最終的に全車荒川車庫に集結した。昭和59年から62年にかけて、7502、7504、7508の3両以外は新造車体に乗せ替え、7502、7508は直ぐ廃車されたが、7504は朝のラッシュ専用車として平成10年頃まで使用され、現在「都電おもいで広場」に保存されている。現存車両も車体乗せ替え後20年以上経過しており老朽化は否めず、新製車と代替される予定となっている。

 

昭和52年1月24日   荒川車庫前

都電荒川線は我が家から比較的近い所を走っている。5年前までは、早稲田から徒歩15分の所に職場があり、会社の帰り、気が向くと、町屋、大塚、王子まで利用した。王子駅前を境に雰囲気が異なり、三ノ輪橋方面は下町でかつての伏見線の雰囲気とダブってくる。今は休日に町屋駅前から利用することが多いが、一日を通して乗客が多く、昼間は5分間隔で運転されているが満員である。しかも高齢者の利用が多いため座席に座ったことがない。7500形の引退が報じられているが、車齢を考えると引続き7000形も引退するものと思われる。