貴志川線

乙訓の長老より9月30日【360】「竹藪の傍」の中で1958年和歌山電気軌道時代に撮影された、モハ205、モハ206、クハ801の画像を公開されたが、この時代の画像は極めて少なく非常に貴重な記録である。

私が訪問したのは南海合併後の昭和40年1月17日と翌41年2月27日で、長老が撮影された当時の車両が、パンタ化されて活躍していた。

.歴史

貴志川線の歴史について簡単に述べると、大正3年6月3日に創立された山東軽便鉄道が前身で、大正5年2月大橋~山東(現伊太祁曽)間蒸気列車で営業開始。大正6年大橋~中之島間延長するも、大正11年7月国鉄紀勢西線開通に伴い、中之島~田中口間を廃止し、田中口~東和歌山間を新設。昭和4年11月、社名を山東軽便鉄道から山東鉄道に改称しガソリン車を導入。昭和6年4月、社名を山東鉄道から和歌山鉄道に改称。昭和8年8月、山東を伊太祁曽に改称し、伊太祁曽~貴志間を開業した。

戦時中、燃料入手難から電化を計画し、昭和16年12月東和歌山~伊太祁曽間、昭和17年12月伊太祁曽~大池間、昭和18年2月に全線の電化が完成した。当時、ガソリン動力の鉄道は、燃料入手難から蒸気動力に逆戻りしたケースが多かった中で、電化を選択したのは先見の明があったと言えよう。

 戦後は経営難のため昭和32年11月、和歌山電気軌道に吸収合併。昭和36年11月和歌山電気軌道が南海電鉄と合併したため、南海電鉄貴志川線となった。昭和39年5月、集電装置をポールからパンタに変更。昭和43年3月1日、国鉄が東和歌山駅を「和歌山」に改称したため当線も同時に改称。昭和43年6月、高野線の平坦区間で使用されていたモハ1051形8両とクハ1801形4両が転入し在来車を置換え。昭和46年8月、モハ1201形10両転入により、モハ1051形とクハ1801形を置換え。平成7年2月、高野線22000系を貴志川線用に改造した2270系6編成が転入し、モハ1201形を置換え。同年4月1日ワンマン化。平成16年9月30日、南海電鉄が貴志川線の廃止を申請。平成17年2月28日、後継事業者を両備グループの岡山電気軌道に決定。平成18年4月1日、和歌山電鐡として再発足した。

.車両

昭和40年1月の時点での在籍車両は電動車8両(モハ201、203、205、206、601~603、605)、制御車3両(クハ802~804)の計11両で、翌昭和41年2月の時点では、輸送力増強のため本線から付随車が2両(サハ1821、1827)転入して13両となった。湯口先輩もふれておられたが、気動車からの改造車が電動車4両、制御車2両の計6両が在籍し約半数を占めていた。以下、画像と共に簡単に紹介したい。

 モハ201

元和歌山鉄道キハニ201、昭和6年小島工業製のガソリンカー。昭和17年8月電動車に改造した。和歌山寄りに荷物室と荷物扉が設置されていたが客室化されていた。

 

(昭和41年2月27日)

モハ202

元和歌山鉄道キハニ202、昭和8年日車製のガソリンカー。昭和17年5月モハ201と同時期に電動車に改造した。正面は変則3枚窓で、以前は和歌山側に荷物台が付いていた。

 

(昭和41年2月27日)

モハ205、206

元江若鉄道のキニ1、2を終戦後の昭和22年10月に譲受け、翌年電動車に改造した。江若鉄道では燃料不足もさることながら、小型のため持て余していたものと思われる。製造は昭和6年川崎車輛である。

 (昭和41年2月27日)

モハ601、602

昭和30年、元阪急の車体に南海より譲り受けた台車、終戦直後63形投入の見返りとして入線した元東急(京浜急行)の木製車モハ501、502用の電動機の予備品を組み合わせて誕生した。モハ601は阪急63形の70(大正10年梅鉢鉄工所製)モハ602は51形の60(大正9年梅鉢鉄工所製)である。製造時は木製車であったが、昭和25年に台枠、屋根、主要機器を流用して鋼体化が実施された。

(昭和41年2月27日)

(昭和40年1月17日) 

モハ603

東急から譲り受けた木製車モハ501の車体の老朽化が激しいため、昭和31年、元阪急81形84(大正12年川崎造船所製)の車体と振り替えた。

 

(昭和40年1月17日)

モハ605

長老が紹介された片ボギーのクハ801の代替として昭和34年に登場した車両で、車体は元阪神の701形702に南海から購入した台車、電動機の組み合わせである。(台車はその後603と振替)車体は昭和7年大阪鉄工所製。尚、阪神701形は野上電鉄にも704、707、710の3両が入線し、廃止まで使われた。

 

(昭和40年1月17日)

クハ802

元片上鉄道のガソリンカー、旧車号はキハニ102、昭和6年日車製である。昭和30年ナニワ工機で制御車に改造の上入線した。片上鉄道では戦時中燃料不足により客車化(フハ102)されており、戦後は岡山臨港鉄道に貸与されていた。

(昭和40年1月17日)

 クハ803

クハ802と同じく、元片上鉄道のガソリンカーで、旧車号はキハニ120、昭和10年加藤車輛製。昭和30年ナニワ工機で制御車に改造の上入線した。この車も戦時中燃料不足により客車化(フハ120)されていた。

 (昭和40年1月17日)

クハ804

東急から譲り受けた木製車モハ502の車体の老朽化が激しいため、昭和30年、元阪急1形8(明治43年川崎造船所製)の車体と振替の上クハ化した。元阪急1形は、戦後京阪石坂線で長く活躍していたので、高齢者予備軍以上の方には馴染み深いと思われるが、8と7は1形中最後までMとして甲陽線で働いていた。昭和30年、夙川駅で7がホームに乗り上げ破損した時、8も一緒に廃車となった。但し、書類上は610形に改造されたことになっている。

 

(昭和40年1月17日)

サハ1827

昭和40年、輸送力増強のため、1821と共に本線から転属した。昭和14年、木製車の台枠他、使用可能な部品を使って鋼体化した「簡易半鋼車」と呼ばれたグループ。本線では17m車のため中形車の部類に属していたが、貴志川線では超大形車に見えた。

 

(昭和41年2月27日)

貴志行の混合列車

貴志川線は昭和43年まで貨物営業を行っており、混合列車が運行されていた。

 

(昭和40年1月17日)

クハ801(廃車

長老が【360】で紹介された、クハ801の廃車後の姿であるが、ご覧のように集電装置はボウが付いている。集電装置は、当初大阪軌道線のパンタ化で不要になったボウを使用する予定であったが、この車でテストをしたところ結果が芳しくなかったため、結局パンタに変更となったと思われる。

(昭和40年1月17日)

 モハ300(廃車体)

昭和18年12月、大池~貴志間の電化により全線電化が完成したが、その時に南海電鉄より軌道線の電2形57(大正10年川崎造船製)を譲受け鉄道線用に改造した。昭和30年7月に廃車となったが、昭和40年まで廃車体が残っていた。

(昭和40年1月17日) 

モハ1058

昭和43年、在来車の置換えのために転入した車で、高野線の平坦区間で使用されていた。モハ1058は、昭和24年川崎重工泉州工場製のクハ1844を貴志川線転属の際、電装したものである。

 

(昭和46年10月31日)

 モハ1214

昭和11年日車製、この車は昭和47年水間鉄道に売却され、同社のモハ508となっている。

 

(昭和46年10月31日)

 モハ1220

昭和12年汽車製造で、前述のモハ1214より窓の上下幅が広くなったため、保護棒が設置されている。この車は昭和47年京福電鉄福井支社に売却され、同社のホデハ2008となった。尚、モハ1201形は車両交換が行われていたことを、本稿を入力して初めて知った。

 (昭和46年10月31日)

モハ1214+モハ1213 (昭和46年10月31日)

モハ1220+モハ1221(昭和46年10月31日)

 以上、過去貴志川線で活躍した車両を簡単に解説したが、モハ2270系と交替するまで働いたモハ1201形、元高野線の急行車クハ21201、モハ2270系及び和歌山電鐡転換後の状況、「いちご電車」「おもちゃ電車」「たま駅長」の話題等について報告いただけると有難く思う。

 

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