少し前の飯田線Ⅰ

 年末の同軌講ではD51498の空焚き事件の話題で賑わい、大晦日の掲示板は、総本家・青信号特派員さん、湯口先輩の書込みで大盛り上がりであった。D51の修理が1年半も要するとなれば、当面予定されているものは、真岡鐡道からC11を借りてきて急場を凌ぐにしても、以前からよく運転されている高崎~水上間は、復旧工事完了まで運休を余儀なくされる。ならばEF55の引退先延ばしという選択肢もあると思うが、JR東日本としては今更計画を変更することはないであろう。

 昨年12月は、13日に新幹線0系、20日に京阪1900のさよなら運転が行われ、最後の花道を撮影に行かれた会員の方も多かったのではなかろうか。また、名鉄パノラマカーは26日をもって通常の営業運転は終了したが、あと暫くはイベント等で運転される予定で、タイミングよく犬山総会当日の運転は叶わぬ夢であろうか。

 12月23日、大阪出張時、午前中時間があり、パノラマカーの走行中撮影を計画したが、濃霧のためダイヤが乱れており、万一のアクシデントを考慮して結局前回と同じコースにした。天気がピーカンのため、下り列車はモロ逆行となってしまった。最終日が近いせいか平日にも拘らず、神宮前駅には30人、堀田駅は10人位の同業者がいた。大部分の人は他形式には見向きもしていなかったが、私はこんな時くらいしか名鉄の撮影ができないため、6000系等にもせっせとカメラを向けた。

 前回、JR東海ニュースリリースの紹介から飯田線の119系について書込みしたが、3月14日のダイヤ改正で「ムーンライトながら」の廃止により、同列車と飯田線の特急「伊那路」、身延線特急「ふじかわ」に使用されている「373系」にも大きな動きがありそうである。373系は3両編成×14本=42両在籍し、前述の列車及びその送り込みの普通列車、間合い運用で平日のみ大垣~米原間の普通列車に2往復使用されている。「ムーンライトながら」が廃止されると「伊那路」用として2本、「ふじかわ」用として3本、予備車2本位あれば充分であり、半数弱が余剰となると思われる。車令が若いので廃車にはならないだろうが、普通列車用としては乗客の多い本線筋では使い勝手が悪く、臨時特急、臨時快速、団臨位しか使い道がないのではなかろうか。セントラルライナーの増発、ワンマン化の上中津川以東のローカルに転用等も考えられなくはないが「ムーンライトながら」の廃止が思わぬところに波及することだけは確かである。

 ここからが本題で、過去「飯田線」については乙訓の長老より「クハユニ56」についての書込みや893-2さんの美しい風景写真による紹介等があったが、今回は17mについて少し触れてみたい。飯田線での17m車の活躍は、M車は昭和45年8月19日付廃車のクモハ14013、T車は昭和47年4月17日付廃車のクハ16446と447が最後で、我々の世代ではギリギリ間に合ったという感じである。当時の飯田線は蒸機全盛時代のためか、数少ない旧形国電ファン以外の人から注目されることは殆ど無かったように思われる。今回は「クモハ」と「クハ」のみの紹介とし、クモニ13、クモエ21、クエ28については項を改めて紹介する。本来ならばもっと数多くの車両について書きたいところであるが、自分で撮影したものの中から代表的なものを選択して紹介する。また、配置区は撮影時のものである。

(1)   3扉ロングシート車

飯田線に在籍した3扉ロングシート車は、クモハ11、クモハ12、クハ16、クハニ19、サハ17の5形式である。距離と乗車時間の長い路線には不向きのため、関西から転入したクモハ51形等と交替して昭和40年代の初めには姿を消したが、一部のクハ16は、スカ色に塗り変えられ、昭和47年4月まで在籍した。クモハ12は昭和62年、クモヤ22112からイベント用として復活した12041である。

クモハ11202(トヨ)  40.3.20    豊橋

昭和4年川崎車輌製でモハ31004として誕生、昭和28年6月の改番でモハ11202となった。昭和42年配給車に改造され、クモル24021となり大阪地区で使用され、昭和56年5月に廃車となった。

クハ16219(トヨ)   40.3.20    豊橋

この車の経歴は少々複雑で、昭和2年日車製でデハ73253として誕生、昭和3年10月の改番でモハ30053、昭和24年に電装解除してクハ38065、昭和28年6月の改番でクハ16111、昭和30年二重屋根から丸屋根に改造してクハ16219となった。豊橋→北松本→伊那松島→北松本→富山港線と短期間に転属を繰返し昭和42年4月に廃車となった。

クハ16446(ママ)   46.9.25    伊那松島

最後まで残ったクハ16で、昭和15年7月大井工場で木製車の鋼体化改造車クハ65110として誕生、昭和28年6月の改番でクハ16446となった。昭和34年にトイレが設置されたが番号は変更されなかった。廃車は昭和47年4月である。

クハ16451(ママ)   45.11.23   伊那松島

昭和14年3月大宮工場で木製車の鋼体化改造車クハ65067として誕生、昭和28年6月の改番でクハ16451となった。昭和32年にトイレが設置され、昭和46年8月廃車となった。

クハ16491(トヨ)   40.3.20    豊橋

昭和15年11月大宮工場で木製車の鋼体化改造車クハ65117として誕生、昭和28年6月の改番でクハ16491となった。昭和38年にトイレが設置され、昭和42年6月廃車となり、伊豆箱根鉄道に譲渡された。

クモハ12041(シス)  61.8.6     沼津

昭和62年3月飯田線のイベント用として、モハ10016改増のクモヤ22112を再度旅客車に復帰したもので、クモハ11100番台改造のクモハ12040の続番とした。新AA基準に達していないため、佐久間~相月間の峰トンネル区間の客扱いできない、老朽化等により平成13年廃車となった。現在伊那松島区に保管されているが、近々建設が予定されているJR東海の鉄道博物館で保存されるかどうかは微妙なところである。経歴はかなり複雑で、昭和2年汽車会社でデハ73331として誕生、昭和3年10月の改番でモハ30131、昭和28年6月の改番でモハ11047、昭和29年豊川分工場での更新修繕Ⅰで運転台を撤去してモハ10016、昭和39年浜松工場で牽引車に改造されクモヤ22112となった。画像はクモヤ22112時代のものである。

(2)   2扉クロスシート車

2扉クロスシート車は、クモハ14、クハ18、サハ15の3形式が在籍した。クモハ14は戦前の横須賀線のエースで、低屋根に改造されなかった車は全車飯田線に集結した。距離と乗車時間の長い飯田線には向いていたが、老朽化のため関西から転入したクモハ51形等と交替して昭和40年代前半には姿を消したが、14007と009は富士急行に譲渡され、昭和57年まで活躍した。

クモハ14000(トヨ)   41.9.3   豊橋

昭和5年川崎車輌製でモハ32001として誕生、戦前の横須賀線のエースであった。昭和28年6月の改番でモハ14001、更に昭和34年12月の改番でモハ14000となり、昭和44年8月に廃車となった。更新修繕Ⅱの実施が昭和29年10月と早かったため、正面の雨樋が直線のままで、原型の面影をよく残していた。

クモハ14001(トヨ)   40.3.20    豊橋

昭和5年川崎車輌製でモハ32005として誕生、昭和28年6月の改番でモハ14002、更に昭和34年12月の改番でモハ14001となり、昭和44年6月に廃車となった。更新修繕Ⅱが昭和33年6月に実施され、正面雨樋が曲線となり、正面窓がHゴム化された。

富士急行モハ7031←クモハ14007(チウ) 50.3.23  東桂

昭和6年汽車支店製でモハ32023として誕生、昭和28年6月の改番でモハ14023、更に昭和34年12月の改番でモハ14007となり、昭和44年6月に廃車となったが、富士急行に譲渡され、同社のモハ7031となった。富士急行では、客窓のアルミサッシ化、シートの張替え、車内の塗り潰し等を実施の上、同時に譲り受けた元クハ16425のクハ7061と編成を組んだ。

富士急行モハ7032←クモハ14009(ママ) 50.3.23  河口湖

昭和6年汽車支店製でモハ32031として誕生、昭和28年6月の改番でモハ14031、更に昭和34年12月の改番でモハ14009となり、昭和44年6月に廃車となったが、富士急行に譲渡され、同社のモハ7032となった。富士急行での改造は、前述のクモハ14007と同じで、同時に譲り受けた元クハ16467のクハ7062と編成を組んだ。2編成ともに昭和57年11月に廃車となった。 

クハ18001(ママ)   41.3.13    三河川合

戦時中の昭和19年3月大井工機部で身延線用に木製車の鋼体化改造車クハ77001として誕生、昭和28年6月の改番でクハ18001となった。本長篠から乗車したのがこの車両で、途中停車時間の長い交換駅で撮影しようと思っていたところ、三河川合で切離されてしまいこのような写真しか撮れなかった。昭和41年9月に廃車となった。

サハ15000(トヨ)   41.3.13    本長篠

昭和4年田中車輌製でサロ37001として誕生、昭和28年6月の改番でサロ15000、昭和38年11月格下げでサハ15000となり、昭和41年7月に廃車となった。戦後長らく横須賀線で活躍していたが、昭和37年10月伊東線に転属、格下げ後の昭和39年2月日光線と東北本線宇都宮~黒磯間のローカル用として小山区に転属、昭和40年7月豊橋区に転属となったが僅か1年で廃車となった。

(3)   373系

3月14日のダイヤ改正で大きな動き予想される373系について少し触れておきたい。平成7年から8年にかけて老朽化した165系の代替として作られ、クモハ373+サハ373+クハ372の3両が1編成となっている。特急からローカル使用までの汎用性を持たせているため、扉は両開きでデッキの仕切りがなく、冬季「ムーンライトながら」に乗車する場合は座席の位置(特に進行方向前方の扉付近)によっては非常に寒く、それなりの防寒対策が必要である。

 

クハ372-5他3連の特急「伊那路」 19.11.3 中部天竜

 

クモハ373-5           19.11.3 中部天竜

少し前の飯田線Ⅰ」への1件のフィードバック

  1. 若い人からの質問が出ないので代わりに。

    関西の国電は20m級が基本であったが、関東はおそらく院電からのなごりか
    鋼製車両や鋼体化車両の時代になっても17m級車両が作られた理由。

    横須賀線の電車化に際し初の2扉大型電車が作られたが、T車、Ts車、Tc車が
    20m級の設計であったのにMcのモハ14型はなぜ17m級で作られたのか。

    クハ77とモハ62は身延線用に作られた限定車両と推察されるが買収車や
    他の17m級国電を配置換えせずにわざわざ異端の新製車を作る理由はあったのか。

    以上、これまでに読んだ本の中にそれぞれ理由があったような記憶があるのですが
    今回の写真作品を見て素朴な疑問が復活しました。
    それぞれの理由説明がつくと、サブテキストとして興味関心も深まるのではないかと
    思い敢えて投稿しました。どなたかよろしくお願いします。

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