記憶の中の京阪電車 Ⅲ

京阪電車について過去2回書込みをしたが、よくよく考えると当クローバー会には、乙訓の長老を筆頭に京阪に超詳しい諸先輩方が多数おられるし、また、同社の元役員、社員の方、現役の方も多数おられるため、私如きが出る幕はないが、まあ8年間も乗っていると、たまには、珍しいこと、思いもかけないことに遭遇するものである。そんな思い出等をあと少しだけ書込みしたい。

1900の試運転

1900については、小林純爾氏が「青信号」やJTB Can Books「京阪特急」の中で詳しく解説されておられるので今更という感じであるが、昭和39年3月23日に撮影した「試運転」の写真が出てきた。1950+1913の2連が枚方市を発車したところであるが、周りの景色も何処となくのんびりしている。

 

 

706と並んだ1950

1800の急行

新1900形と交替して1800系はロングシート化され、一般車となったが、塗装は暫くの間そのままであった。1803-1881+1804は最初からロングシートで作られ、主に急行に使用されていた。

 

1809他5連の急行   昭和41年2月19日     丹波橋

 

最初からロングシートの1804  昭和41年2月15日     丹波橋 

スカートの無い2200

2200を初めて見たのは、昭和40年1月8日、3学期の始業式の日のことである。この日は授業がなく午前中に自宅に帰れるので、午後は京都駅で臨時列車の撮影を計画していた。電車が深草を通過した時、東側の留置線に停まっている車両(2205+2255)を見て、昼食もそこそこにカメラを持って深草に引き返した。最初見たときは2000と変わらないと思ったが、初めて営業運転で見たときスカートが付いていたので、逆に吃驚した。

 

 

昭和40年1月8日  深草

宇治線の300形3連

昭和39年頃の宇治線の朝ラッシュ時は殆ど300形3連であった。六地蔵辺りで満員になり、桃山南口、観月橋では超満員、ただでさえ小さな木製車体ははち切れんばかりであった。特に着膨れシーズンともなれば車掌さんは正に命がけの勤務であった。

 昭和39年3月20日  中書島

1000系5連の急行

昭和39年頃、1000系もよく急行運用に入っていた。この編成は中間に1200形を挟んだ綺麗な貫通編成であるが、それ以前は500形がよく入っていた。 

 

昭和39年11月3日   滝井

過渡期の1000形

1000形と1100形は運転室側にジャンパ線がなく、編成の中間には連結できなかったが、運用上不便なため昭和40年頃からジャンパ線の取付け工事が始まった。写真の1005は、準備工事としてジャンパ線の取付座が設置されたところである。

編成の先頭の1204は正面の窓枠がアルミサッシ化され、貫通扉が金属製のものに取り替えられている。

 

昭和41年1月15日  丹波橋

5 thoughts on “記憶の中の京阪電車 Ⅲ

  1. 1度見たいと思っていた300形の3連。神様、仏様、藤本様!
    先日は1000、1200の超珍しい編成。さすが元祖ガラクタ編成の京阪です。
    近々耳寄りなメールを入れます。内緒話ですが、そのうちばれる話です。

    読者の皆さん、半年ばかりお待ちの程を。

    乙訓の老人

  2. 珍しい写真をいつも拝見させていただいております。昔の丹波橋など、一瞬何処の駅だろうかと思うほどです。1200形はATSの時でしたか中間車化されてしまいましたので先頭になった写真はあまり見たことがなく、模型化を考えている身には貴重です。2200のスカートなし!!(?)写真はかのハレハレ写真集に貼ってありましたね。現役時代の室町BOXが懐かしいです。今日もけったいな編成が走ってたなんて話を、ボロ机をボリボリ削りながらされる先生のお姿・・・あと少しだけと言わずにこれからもお願いしますよ。

  3. 300形3連とは、車掌は実に8か所の扉を閉め、ラッチの確認をせにゃならず、発車前に走り回わっていたわけで、雨の日もあるから、よく組合から苦情が来なかったもんだと感心。それとも特別手当が出た? (故吉谷先輩の話だが、大阪市電で3扉車に乗務すると、乗客が多く疲れる?として1乗務10円の割り増しが付き、通称⑩といったそうな)拙老は1960年12月まで山科の住人だったから、200型の2連はたっぷり経験している。車掌が走り回る扉は5か所で、傍目でも大変だったから、8か所は想像に余る。800型の3連もあったが、これは自動扉でしたな。

  4. 200形の3連も走った。その時期は老人が富山在勤中で、鶴君に五条下手、疎水対岸から三条行きを狙ってくれ、朝1本だけだと指令を発したところ、お見事キャッチしてくれた。
    3人目の車掌は中間車先頭部に位置し、停車寸前に飛び降り過ぎ行く扉のラッチ操作するや前方に全速移動、運転手後部の扉操作の後は後部へ移動。後部車掌は中間車の中間扉を閉め後部へ。3人目の車掌が中間車扉にとりつくや笛を鳴らし電鈴を送る。3人目は指定位置に再び全速。扉に到着した時はノッチが入ったころ、絶妙のタイミングで客扱いをしていた。組合との関係はどうだったか、近々その頃に乗務員だった方に取材してみる。
    これら3連は朝ラッシュの通学生対策であったと、聞いている。スーパーカー増備でこうした苦肉の策は解消された。

  5. 300形の3連の件、湯口先輩と長老からコメントをいただき、恐縮しております。私が京阪で通学を始めたのは、昭和35年からで、市電で中書島まで行き、京阪に乗換えておりました。当時は長老の書込みの通り、宇治線の朝ラッシュ時には200形3連もよく走っておりました。車掌は1人ではなく、2人だったように思います。一方、昼間は2000形2連のスーパーダイヤで格差が激しかったですね。200形は昭和36年2000形2次車の登場により廃車となりましたが、300形共々、昭和36年頃まで2連で昼間の本線通しの普通に使用されることがあり、土曜日の下校時に何度か乗ったことがあります。車掌は停車寸前に飛び降りてドアを開けて、電車が発車するときは動きにあわせてドアを閉め、最後部のドアから飛び乗ることの繰返しで、大変な重労働と思いました。2000形は2次車が出た頃から本線急行にも進出し、それに伴い、昼間の宇治線は2000から、当時未だ転換クロスであった1700+1750に変わりました。写真を撮り始めたのが高校に進学した昭和38年の夏頃からで、もうチョット早くから撮り始めたらよかったと思っても後の祭りです。

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