下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる?

最近はどこに撮影に行ってもその場所が既にネット等で紹介されていることが多く、昔経験した発見の喜び、楽しみはほとんどなくなってしまった。そこで近頃は変化球と称して流し撮りをよくやるようになったがこれが何年やってもピタリと止まったことがない。ゴルフをやる人、あるいはやった人はよくわかると思うがグリーン周りのバンカーショットも難しい。バンカーショットと鉄道写真の流し撮りはジャンルは全く異なるがどちらも緊張感がある。バンカーは球の手前何センチだったか忘れたがそこに打ち込んで砂を薄く取ってやればうまくい行くと聴いたような気がするが結局マスターできずに終わってしまった。プロはバンカーを苦にせずピンに寄せるが、私は砂を沢山取ろうが出ればホッとしたものである。

さて表題の件であるが、昔のフィルム時代は流し撮りの成功率が低い。これは一発勝負の難しさと思うが、最近のデジカメでは連続撮影ができ、私の場合は2発目、3発目で成功率(といっても1発目よりはマシであるというだけである)が高いようである。デジカメでも列車速度に合わせて1発目を切るのは難しいということである。因みに私の基本はシャッタースピードは1/60秒、ISO100である。当然のことと思うがそれよりシャッタースピードを上げると成功率は高まるが、流し撮りの感じが弱まるし、下げるとその反対であり、私は流しでよく使われている1/60を速い列車も遅い列車も同じように使っている。馬鹿のひとつ覚えかもしれないが1/60の感触で自分なりの流し撮りをマスターしたいと考えていたからである。そうするとこれも当然であるが遅い列車の方が合わせ易く成功率は高い。それでは撮影例である。 続きを読む

謹賀新年2017

本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。今年もデジ青の発展のために近場中心ですが撮影を楽しみ、時々拙作を発表させていただきます。

身近に迫るビネガーシンドローム

お久しぶりです。最近、鉄活動は低調ですが、調べ物をする為に京都府立総合資料館(市営地下鉄、北山駅下車)を訪れました。

古い新聞のマイクロフィルム(長尺)を請求して紙箱を開けると、強烈な臭い! 続きを読む

トワイライトエクスプレス瑞風に関して

今朝の中国新聞の記事をご紹介します。

平成28年9月1日 中国新聞朝刊

平成28年9月1日 中国新聞朝刊

続きを読む

芸備線、福塩北線の9月の臨時列車について

5月21日 71996で福塩線の通学列車の様子をご紹介しました。あれからしばらく足が遠のいていましたが、そろそろ学校の夏休みも終わり、9月に入れば通学列車も走るだろうし、田んぼの稲穂も垂れてくるので初秋の福塩北線や芸備線に行く計画を立てようとしました。しかし臨時列車の運行日がわかりません。ネットで検索してもわからないので 三次駅に電話して 9月の運転日を確認しました。

福塩線(府中・三次間)臨8726D、8727Dの運転日は9/10、17、24、25  芸備線(三次・備後落合間)臨8354D、8357Dは9/20、21、23、24

だそうです。数年前には「三次鉄道部」がネットで公表していたのですが、現在ではネット上での告知もありません。JR発行の時刻表には掲載されていますが(9月の運転日のみ)、JTB発行の時刻表には出ていません。JR西の「おでかけネット」でこれらの運転日を指定して検索しても 駅時刻表には反映されていません。電話口の社員に「運転日は都度電話で確かめないといけないの?」と聞くと、「沿線の駅には掲示してあるのでそれを見てください」との返事。沿線の人はともかく、「遠方からのお客は駅に見に行けないが どうすればいいの?」と聞きましたが、明快な答えはありませんでした。

貸切の臨時列車ならともかく、通学生を主眼にした臨時列車とは言え一般客も乗車できる列車が「知る人ぞ知る」列車になっているのです。これは一種のミステリー列車ですね。要は一人でも多く乗ってもらおうという商売っ気が全く感じられません。いつも空気を運ぶことに慣れてしまった閑散線区はこれでは立ち行きません。ある意味定期通学生は前払いの空気扱いかもしれません。

もうひとつ不思議なことがあります。芸備線の臨8354Dは広島から来た「快速みよしライナー」に2分の乗り継ぎで11:24に三次を発車し、12:40に備後落合に着きます。そして12:59発の「奥出雲おろち号」にベストの接続になっています。要は広島を10:00に発てば、最短で「おろち号」に乗れるわけです。また逆に出雲から「おろち号」で来た乗客は 落合発12:48の臨8357Dに乗れば 三次で3分の乗り換えで15:48には広島に到着します。ということでこの臨8354D、臨8357Dは通学列車の性格もありますが むしろ「おろち号」の広島との連絡列車なのではないのかと思っていました。ところが9月の運転日を聞き、「おろち号」の運転日と突き合わせてみると 9月の「おろち号」運転日と重なるのは2日間だけで、残りの13日間は「おろち号」は芸備線の接続列車のない落合駅で ただ折り返してゆくだけだということがわかりました。通学列車がたまたま「おろち号」とうまく接続していただけだったようです。「おろち号」は米子支社木次鉄道部の管理、芸備・福塩線は広島支社三次鉄道部の管理ということですが、「おろち号」は夏休み中の8月は運休なく31日間すべて運転、9月は15日間、紅葉が始まる10月は20日間運転予定で、日祝は出雲市始発というダイヤで 出雲大社方面からの集客も意識し がんばっている意図が伺えます。一方広島方面からの集客はあきらめているのか、木次と三次の連携は全く感じられません。

またしても「老人の戯言」になってしまいましたが、10月の「秋の乗り放題切符」で中国山地をさまよってみようと思われているご仁は 事前に三次駅(0824-62-2445)に臨時列車の運行日をお確かめ下さい。臨時列車のあるなしでガラッとプランが変わってしまいます。余談ながら10月、11月には岡山管内でも「姫新線開業80周年記念号」、「みまさかスローライフ号」などが姫新線や津山線を走る日があります。以上苦言交じりの乗り鉄、撮り鉄の皆さまへのお知らせでした。

RMライブラリー 200号を見て

NEKO PUBLISHINGから毎月出版されている「RM LIBRARY」を1巻から欠かさず定期購読していますが、この度200巻記念号として「日本の展望客車(上)」が手元に届きました。本誌には今までにもクローバー会先輩諸氏がすばらしい記事、写真を何度も上梓され 各号とも質の高い専門誌として愛読者も多いことと思います。また今回の200号をすでに手にされた方もあろうかと思います。

RMライブラリー 最新号

RMライブラリー 最新号

続きを読む

私の動画撮影(桜の季節)

桜の季節には、残堀川の鉄橋(立川駅の2km位西方)へ毎年通っていました。
この地点ではクランプを愛用していました。

eDSC32899

続きを読む

「さよなら梅小路」に寄せて

総本家青信号特派員氏が梅小路蒸気機関車館の閉館について紹介して頂きました。開館が昭和47年10月10日ですから あれから43年が経とうとしています。特派員氏は社会人1年生、私はDRFC5年生の時でした。実は梅小路の開館には我がDRFCもひと役かっています。と言うのも当時のDRFCには数名の女性会員(今でこそ鉄子と言われますが、DRFCは時代を先取りしていた?!)がいました。どういうルートで話が来たのか判りませんが、開館前日の10月9日には竣工記念セレモニーが行われたようで、そのセレモニーで2名の女性会員が和服姿でテープカットや花束贈呈を行ったのです。そして記念品やパンフレットを頂いています。それらの品は我が家のちょっとした家宝となっていますので ご紹介します。ただ残念ながら当日のスナップ写真等は残っていません。

C57の動輪を模した開館記念品

C57の動輪を模した落成記念品  日付は開館前日の10月9日になっている

 

続きを読む

伊勢神宮参拝の記念カード

実家の箪笥の奥から、お伊勢さんの土産が出てきました。観光絵葉書などに比べると、随分と小ぶりな感じです。
e001

続きを読む

50年前の撮影地を歩く -2-

    “タカバシ”で撮った「替えだま」

IMG_0002syu高倉陸橋から眺めた上り「第2こだま」、新幹線開業数日前の光景(昭和39年9月)

今回の撮影地は、京都駅東側に架かる高倉陸橋、通称“タカバシ”だ。京都駅に発着する列車が眺められる陸橋は、昔から汽車見物の名所地で、多くの写真が残されている。私も小さい頃からよく行ったものだ。構内に梅小路機関区の支区があって、蒸機がいたのを覚えている。支区は、東海道線電化後もしばらくあったから、小学校の1年か2年に行ったことになる。新幹線建設前だから、陸橋上を走っていた伏見線は、廃止前とは違うルートで八条口方面へ向かっていた。

さまざまな列車を眺めるのが、無上の楽しみだった。貨物列車の両数を数えるのも楽しかった。乙訓の老人も同じことをしていたと言う。老人の時代は80両あったそうだが、私の時は45、6両だった。日によって貨物の量も違うだろうが、決まってこの両数だった。さて、50年前の“タカバシ”、ある列車の撮影を目的に自転車で訪れた。

続きを読む

50年前の撮影地を歩く -1-

の八瀬から

私が鉄道の写真を撮り始めたのは、公式資料(?)によると、昭和36年、小学校6年のことでした。N電が廃止されると聞いて撮りに行ったのが、我が鉄道写真の起源と言えます。ただ、その時は、父親と一緒に撮っただけで、独り立ちして自分の意思で写したのは、その少しあと、昭和39年のことでした。

今年でちょうど50年目、と言うことになります。昭和39年と言えば、東海道新幹線開業、東京オリンピック開催と、日本が沸き、高度成長の波に乗り始めた、記憶に残る年とも言えるでしょう。そこで、自分の写真で50年前を回顧、と企てたものの、なにせカメラは、当時、席捲していたハーフサイズカメラ、確かに撮影枚数は倍撮れるけれど、フィルムサイズが半分になっては、画質は目を覆いたくなるほどヒドイもの、とても、単独で見せるシロモノではありません。

そんなある日、偶然にも、50年前と同じ場所で撮影する機会がありました。なるほど、50年前と今昔対比なら行ける! と膝を打った次第です。遅ればせながら、まずは桜の話題となりました。

IMG_0004sy50年前の京福八瀬付近である。高野川を渡るのは、デナ1形3+4。デナ1形は大正14年製の木造車で、1~6の6両がいた。当時は、両運・非貫通を片運・片貫通化した2両固定編成となり、叡山線専用となっていた。しかし、阪神から小型車が大量に転入し、デナ1形はまもなく全廃となる。

IMG_0008この年、八瀬では、京都新聞社主催の「新世紀京都博」が開かれて、その見物に来て、横の橋から撮ったものだ。昭和30年代、各地でこのような博覧会がよく開かれていた。その総決算として、昭和45年の日本万国博覧会へ結実していくのだろう。今から見ると、チープな展示だが、娯楽の少ない時期、多くの見物客を集めていた。「新世紀京都博」の目玉展示のひとつは熱海軽便鉄道の7号機で、現在、熱海駅前に保存展示されている“へっつい”である。はるばる熱海から来た蒸機に人が群がっていた。

博覧会終了後の跡地利用として、八瀬遊園地が開業し、「かま風呂」だけで有名だった八瀬は、水族館や大型プールもできて、京都市内唯一の遊園地として、大勢の人を集めることになる。京福の駅名も、翌年に「八瀬遊園」と改称され、八瀬を本格的なリゾート・レジャー施設にしようとする会社の目論見が見えていた。(昭和39年4月)

140407_018sysy今年の桜シーズン、名古屋から都市交通研究家のHさんが入洛され、一緒に桜の撮影に向かった。嵐電を写したあと、八瀬比叡山口を訪れた。

八瀬遊園はその後、「スポーツバレー京都」、「森のゆうえんち」と名前を変えながら営業を続けてきたが、施設も狭小・老朽化して入園者は激減、平成13年に閉園となり、跡地には会員制のリゾートホテル「エクシブ京都八瀬離宮」が建った。駅名も、遊園地の閉鎖により、平成14年に「八瀬比叡山口」に改称されている。

たまたまホテル内に迷い込み(?)、50年前と同じ場所からの撮影ができた。バックは比叡山で、高野川に架かる鉄橋も全く変わっていない。ただ線路に沿った桜は、ほとんど無くなってしまった。八瀬比叡山口駅周辺はまだ桜はあるものの、全般に衰えが見え、花の勢いはなかった。家族連れで賑わった駅も、すっかり枯れた駅となっていた。

雪融けを待つ木次線

国鉄時代には考えられなかった冬季運休路線にJR木次線があります。北海道の深名線など あまりの積雪で除雪ができず、何日間か やむを得ず運休するという話はままありましたが、冬は運休するのが常態化しているのは 現在の地方閑散線区の置かれた環境を示しているように思います。スイッチバックで有名な出雲坂根をサミットとする備後落合-出雲横田間は昨年末から冬季運休していましたが、雪融けを待って3月22日から運行再開するそうです。

平成26年3月13日 中国新聞朝刊

平成26年3月13日 中国新聞朝刊

続きを読む

DD401、ありました

ことし初めての投稿です。正月以来、雑事に振り回されていましたが、ようやく冬眠から覚めて、掲示板に向かいます。

まずは、掲示板に寄せられた問い合わせについて、私なりの回答から。

以前、西村雅幸さんから、「DD40の目撃者、おられませんか」として、新三菱重工で製造された試作ディーゼル機関車、DD91について、配置された梅小路区・吹田区での現役の姿の問い合わせがありました。

同機は製造後、昭和31年5月、梅小路区へ入換用に配置、昭和35年5月から吹田一区で、吹田操車場、尼崎港線で使用され、昭和37年3月に新三菱重工へ返却されています。

昭和37年返却とあれば中学一年生の時、残念ながら私も写していませんが、“何かあったはず”と探しますと、ありました。以前にTさんからいただいた写真でした。ただ、モノクロのため、お望みの塗装は判然としませんが、古いピク誌を見ますと、“ブドウ色”と記されていましたので、茶に白線のような気がします。ただ、鉄道図書刊行会「日本の内燃車両」に掲載されている同機の写真と比べると、白線の太さ・回り方が違い、ある時期に塗装が変更されているようです。模型作りの参考になれば幸いです。

余談ですが、その後に、新三菱重工で試作されたDD91も、福知山区に配属され、山陰本線の京都~福知山で使用されました。返却は昭和40年ですので、私も京都駅で何回か撮っています。返却後、山陽本線すぐ横、三菱三原の工場側線にしばらく置かれていました。呉線へ行った時、電車から見るのが、楽しみのひとつでした。

EPSON scanner image

 梅小路機関区のDD401。昭和30年代、外国の技術と提携した試作ディーゼル機関車が国内の車両メーカーで製造された。その多くは、国鉄が借り入れて、旅客列車の牽引、入換に供され、ディーゼル機関車の有用性の検討と、無煙化の一助とした。1形式1両ばかりで、当初は40台の追番、のちに90台の形式が付けられた。

叡電、起承転ころぶ

元田中へ行く用事があったので、叡山電鉄をビデオ撮りしました。
出町柳行きの到着、鞍馬行きの発車、出町柳行きの発車と順調に撮影できたのですが最後に転びそうになって、必死に柵へ掴まりました。

http://youtu.be/S83gPK_ylr4

e20131120153102 

 

続・木次のC56108によせて

昭和38年~40年にかけてはたびたび木次線を訪ねました。そのうちの一回はDRFC新入生歓迎旅行として昭和39年5月に行きました。今回、キハ02の車内写真と出雲坂根での写真はその時のものです。この中に、いま一部の方々で騒がれている63年度生の“M・紘明”さんが写っています。顔を思い出さない、とか知らない、と言っている方、思い出しましたか?11月10日に天野さんの思い出を話して下さいますので天野さんと同じように思い出して上げて下さい。s-FH030006 s-FH030016 s-FH030017 s-FH030023 s-FH030032

京阪500型の思い出

関先生の500型を見て なつかしく当時を思い出しました。とは言え250型はすでになく、晩年の500型しか知りません。当時ぷるぷるさんと同じく墨染駅の各停利用者でしたので宇治行きの500型にはよく乗ったものです。1500型を間にはさんだMTMの時代と、両側貫通に改造された550型、580型の登場で4連になった時代にお世話になりました。ぷるぷるさんと一緒に家から歩いて国鉄奈良線の蒸機と京阪宇治線をよく写しに行ったものです。

昭和44年8月16日 丹波橋駅にて 宇治行急行 1500をはさんだ3連

昭和44年8月16日 丹波橋駅にて 宇治行急行 1500をはさんだ3連
宇治急は本線内中書島まで急行、宇治線内は各停だった?

続きを読む

小海線合宿のご案内

どですかでんさんが1970年夏の小海線合宿で撮影されたC56149を紹介して頂きました。この合宿記は青信号25号に詳しく述べられていますが、この合宿の案内パンフが手元にありましたので、当時を思いだす意味でご紹介します。なお私はこの合宿には不参加でした。

IMG

続きを読む

京都駅のC5711

C5711の記事は大変楽しく、懐かしく読ませて頂きました。
当時の記録があったと思い出して探したら出てきました。
例によって、いつ撮ったものかが不明確です。この当時は私もまだ子供で、時間があれば梅小路機関区や京都駅構内が遊び場となって徘徊しておりました。実家がカメラ店なので、新品カメラやフィルムはもらえませんでしたが、中古カメラやお客さんが捨てていったフィルムはふんだんにあり、使わせてもらえたので、ろくな写真はありませんが枚数だけはかなりあります。
そんな中に京都駅山陰線側留置線で待機するC5711を撮ったものがありました。記録では昭和37年頃(1962年頃)になっていますがわかりません。
梅小路機関区で撮ったのは記録がありませんが煙突のクルクルパーが無いので時期は違うのでしょう。どなたか検証をして下さい。

さて、C5711は子供心に他とは違う、なにか特別な機関車だと感じました。それはテンダー周りや、キャブの窓周りにクロームメッキした帯が貼り付けられていたからです。

遠い昔が懐かしく思い出されました。ありがとうございました。

s-c5711-1 s-c5711-2s-c5711-3

 s-c5711-4

老いて益々意気軒昂

【老いて益々意気軒昂】

日本の内燃動車湯口徹兄の新著「日本の内燃動車」が先日上梓された。これで何冊目なのだろうか?
発行者も古くはエリエイ社から始まり、今回は成山堂書店である。同書店は「陸海空の交通がよくわかるシリーズ・交通ブックス」を刊行しているが、その執筆者はその筋の玄人である。

今回、湯口兄は趣味者から「その筋の専門家」に認定されたことになる。
湯口徹それはそうだろう、
2005年大作「内燃動車発達史2006「戦後生まれの私鉄機械式気動車」に始まり、2008「日本の蒸気動車」2009「石油発動機関車」をネコ・パブリッシング社から上梓され、本全国に「湯口徹あり」と鉄道趣味界に銘記されるようになった。

彼は学生時代から気動車の研究家であった。私が気付いたのは京都鉄道趣味同好会会誌【急電】誌上で、高校2年の時であった。投稿内容からして彼は社会人だと思っていた。
1957年同志社進学の時、経済学部新入生として彼の名があり実は驚いたのである。当時、師事していた奥野利夫さんからも「湯口徹さんが君とおんなじとこへ入ったぞ」、と言われたのを今も覚えている。翌年5月、DRFC旗揚げに際し駆けつけてくれ、羽村兄から紹介され付き合いが始まった。

今回の著書を紐解いてみよう。彼ならではと思う箇所を幾つか探してみる。先ず1頁、第1章・黎明期のわが国内燃動車、「1内燃動車の定義」以下を熟読してみた。彼は若い頃から趣味者として追い求める内容を整理していたのである。趣味者は鉄道の一部分としての車両を対象とする事が多いが、その範囲を定義づけた上で調査活動に入る人は少ないようだ。
私が彼を知って、先ずこれに気付いた。一種の頑固者である。そして調査を始めると徹底的に追いかける。一次資料として鉄道事業者のものを入手するや、それを彼なりの観察記録に基づき裏づけを取っていく。その範囲を広げ、検証を
1点に絞ることなく多角的に展開して行くのである。交通博物館の倉庫に続き、国立公文書館での調査を今も続けているのはその証と言えるであろう。

続きを読む

“半世紀前の電車特急”によせて

IMG_0002sytsurukame先輩の151系特急「第2富士」、たいへん興味深く拝見しました。新幹線開業前のこだま型のいちばん華やかな時代ですね。50年前とは思えない、あざやかなカラー発色には驚きました。

よく似た構図だと思って、ネガを探してみると、私も姫路駅で写した、こだま型がありました。ただし、私のはモノクロ、撮影年も、その翌年、東海道新幹線開業後の昭和40年で、新大阪発下関行き「しおじ」です。手前は、狭軌記録163km/hのチャンピオンマーク付きのクハ151-3です。「第2富士」は上りで、「しおじ」は下りですので、ホームは違いますが、上のテルハが同じで、姫路駅と分かります。

姫路駅も完全に高架化されてしまい、半世紀前の面影も全くなくなりましたね。