けったいな交通信号機

冠雪している景色を撮って投稿しようと思っていたら、いつまで経っても京都駅周辺に積雪はありません。

そこで鉄道ネタではございませんが、以前より不思議に思っていた事を述べます。

七条壬生(壬生川)交差点の、交通信号機の設置状況

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 ◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑫

市電、京電を買収

紆余曲折がありましたが、京都電鉄(京電)は、市に買収され市電の一員となりました。ここで問題が生じました。線路幅が違うのです。京電はJR並みの1067ミリ、市電は新幹線と同じ1435ミリです。ご年配の方なら覚えていらっしゃると思うのですが、四条堀川~四条西洞院のこと。レールが3本2組敷いてありました。京電の路線を引き継いだ北野線は外側の一本と内側の一本を使って走っていました。三線区間と言っていました。 四条西洞院で三線区間に入る北野線

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年末のご挨拶

今年もあとわずかとなりました。
振り返ると当会にとっては変化と発展の年だったように思えます。
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◆ た~ちゃんの電車めぐり  ⑪

平安京の都大路の幅は広く、朱雀大路は84mもあったとか、戦国時代や度重なる大火で、京の街路は幅が狭くなっていました。明治維新後、中心のひとつであった三条東洞院で東西の道幅を測ってみますと、6.5mぐらいです。京都電鉄(京電)が線路を敷く時に選んだルートが川筋を中心としたのは、そのためでありました。西洞院通は、川を暗渠化して道幅を確保しました。

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◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑩ 

梅小路公園のチンチン電車
平成6(1994)年、京都建都千二百年記念事業がいろいろありました。その一つに、梅小路公園建設がありました。西端部では復元されたチンチン電車が走り出し、大変な人気者となりました。

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◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑨

 京の七口を結んだ京電
京の七口に思いを巡らせてみました。平安京時代からある言葉なのだそうですが、太閤さんが京の町を守るために造らせた御土居によって、その位置が今もはっきりし、史跡として10ヵ所指定され地名となって残っているところもあります。京都電気鉄道(京電)が伏見へ向け走り出た地が竹田口、伸びて行った南禅寺橋近くに粟田口、その途中の木屋町松原は伏見口(五条大橋口)となります。

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◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑧

最近、当欄では音信不通になっている“た~ちゃん”が、病院帰りに訪ねて来られました。体力・気力の衰えから、投稿・コメントが滞っている理由を聞かせてもらったあと、“これなんやけど”と差し出されたのが右の写真の資料でした。聞けば、数年前に京都の染色業界向けの機関誌から原稿依頼を受けて、連載をしたものでした。《路面電車から街づくりを考える》のシリーズタイトルどおり、京都市電の歴史から、欧米のLRTまで、路面電車の蘊蓄が詰まった好個の読み物になっています。
“これを、ぜひデジ青に載せてくれ~。ワシの思いが詰まっているんや”。なるほど京都で生ま育った、電車が大好きな“た~ちゃん”ならではの内容です。“介護投稿”の一環として、しばらく本シリーズを綴ることにしました。来年80歳を迎える“た~ちゃん”、これが決して遺言状ではなく、これから一層の活動を願ったエールとして綴っていきます。

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たーちゃんの電車めぐりに寄せて

たーちゃんの電車めぐりシリーズは思わぬビッグヒットになりそうですが、阪和線の項で河昭一郎様より「電車はないのか?」「ED38は?」とのご質問がありました。また、大阪駅の西の端にEF52が捨て子されていた、などの書き込みがありましたが私にも少々写真があります。でも毎度のことでひどい物です。どなたかいい写真を出展されるまでのツナギ、時間稼ぎとして見て頂けたら幸いです。

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 ◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑥和歌山の国鉄瞥見

“た~ちゃん”の和歌山の電車めぐりは、前回で終わりましたが、渡されたアルバムには、最後に国鉄の写真が貼られていました。電車めぐりの際に、和歌山周辺で写されたものです。ご本人は、“行きがけの駄賃”の撮影のつもりでしょうが、国鉄車両に興味を示す私の立場からは、電車もさることながら、アルバムの最終ページに大きな価値を見出しました。おもに写されたのは東和歌山(昭和43年に「和歌山」に改称)で、戦前から電化済みの阪和線(阪和電鉄)の終点であり、そこから続く紀勢西線は、全くの非電化区間であり、電機と蒸機が出会う駅でもありました。△国産初の大型電気機関車として名高いEF52のトップナンバー機が東和歌山駅に顔を見せる。特徴あるデッキが白く塗られて、さらに大きく見える。

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 ◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑤野上電鉄 その後

昭和30年代の野上電鉄の訪問は、前回紹介どおりですが、一昨日、廃止直前の野上電鉄を写したL版アルバムが送られてきました。野上電鉄は、ご承知のように1994(平成6)年4月に廃止されていますが、“た~ちゃん”は、廃止前にも数回にわたって訪問しており、現役時代の野上との比較のために、ぜひ掲載してほしいと送られてきたのでした。
私も廃止前に訪れています。ところが、廃止をめぐって、労使の対立があったり、社員間でも考えの相違があったりして、現場には張り詰めた空気がありました。その矛先が撮影者に向けられ、駅でカメラを持っているだけで制止されたり、車内でカメラを取り出すと運転士が怒鳴りに来たりと、すさんだ空気が流れていて、私自身は野上への思い出は封印していました。しかしそこは、決して喧嘩をしない、人間のできた“た~ちゃん”、事務所の呼び出しにも誠実に対応し、沿線の子どもたちとは、野上廃止について、話し合い、友好的な訪問を果たします。ホントに電車が好きな“た~ちゃん”らしい、野上電鉄との別れ方でした。
△ 日方車庫に集結した廃止前の車両たち、これを撮っていたら、事務所から呼び出しが掛かった。

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 ◆ た~ちゃんの電車めぐり ④野上電鉄

和歌山紀行、続けます。“た~ちゃん”は現役時代、昭和32年12月、同35年3月の2回、和歌山を訪れています。2回とも、和歌山市内線を撮影・乗車のあと、市内線の終点 近くにある野上電鉄日方駅を訪れています。車庫も隣接していて、事務所を訪れると、30歳代の車両課長に応対してもらい、いろいろな話をしてもらったと述懐しています。中小私鉄ならではの悲哀も聞き、この時の会話が、全国の中小私鉄に目を向けるきっかけになったと言っています。
野上電鉄と言えば、廃止直前の姿しか知らない私など、阪神・富山地鉄から来た小型車という印象が強いのですが、それらが入線する以前で、10両の電車が在籍していました。

△ 和歌山市内線の「野上電車前」で下車、目指す野上電鉄の駅・車庫はすぐだった。

 

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 ◆ た~ちゃんの電車めぐり ③和歌山電気軌道

本シリーズ、前回は和歌山電気軌道の和歌山市内線をご覧いただきました。た~ちゃんが訪れた当時、和歌山電気軌道には、もうひとつ東和歌山(当時)~貴志の鉄道線がありました。昭和36年には、南海貴志川線となり、いまの“たま駅長”、“いちご電車”の和歌山電鐵です。
た~ちゃんの述懐を続けますと、最初に和歌山へ行ったのは、昭和27年、14歳の時で、関西急電の華モハ52に乗りたい一心で、一人でカメラも持たずに東和歌山へ日帰りで行ったそうです、構内にいた4輪車が琴参電鉄から来た電車とは全く知らず、次いで昭和32年には、今回発表する訪問となりました。その時には琴参電車は解体後で、あとで高橋弘さんから、もと琴参車の写真をいただいた感動が忘れられないとのこと、それを使って「関西の鉄道」で貴志川線の琴参電車を紹介したところ、編集長に召し上げられたと思い出しておられます。
△ 東和歌山から和歌山電気軌道の鉄道線に乗り、伊太祁曾の車庫を訪問しての帰りに、岡崎前で801+202と交換した。801は、もとガソリンカーで、ほかにも阪急・東急から来た中古車両ばかりで、新造した電車が1両もないことは、いまも変わらない。

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 ◆ た~ちゃんの電車めぐり ②和歌山電気軌道

和歌山市内線は、和歌山市と海南市を結ぶ都市間連絡の使命も持つものの、国鉄紀勢本線と並行しているため、直通客は少なく、地域の生活路線的な色彩が強かったようです。また和歌山市の鉄道の成立から、和歌山市と東和歌山(当時)と二つのターミナルを持ち、両駅間の移動や、その中間に位置する官庁街・繁華街への往来と言った短距離輸送もかなりあったようです。それと和歌浦、紀三井寺へ向けて観光客輸送も特徴と言えます。とくに和歌浦は、万葉集にも歌われた古来からの名所でした。
老人が写された昭和30年代の半ばは、輸送の最盛期で、系統の重なる公園口~車庫前は本数が多く、ラッシュ時などは数珠繋ぎになって走っていたと言います。実は私は、この軌道線は見たことも乗ったこともありません。廃止が昭和46年ですので、行こうと思えば行けた年代でしたが、路面電車の撮影優先度は低かったのです。廃止の10年以上前の軌道線がいちばん充実していた時代に、2回に渡って貴重な記録を残された当時の老人の進取性には改めて敬服します。

△ 30形と60形が交換する。出自はどちらも創業時の1形だが、改造時期が違い、面相も異なる。撮影地は「車庫前」と判明。

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 ◆ た~ちゃんの電車めぐり ①和歌山電気軌道

「デジ青」誌上では、米手さんによる“介護”が相次いでいます。東にデジタル難民がいれば、湖畔のマンション13階まで行って訪問介護し、西に投稿をさぼっている会員がいれば、尻を叩きに押しかけて叱咤激励し、暑さで体力・気力の落ちた老人会員に向けて、東奔西走の介護活動をされています。
おっと、私の住む乙訓地方にも難民がいました。以前はしょっちゅう投稿されて、デジ青の常連でしたが、最近は、とんと投稿がありません。聞いてみますと、周囲の環境が変わって、手足をもがれた状態になっていることが分かりました。こんな時こそ救援の手を差し出すべきと、先日、私も“訪問介護”して打ち合わせして来ました。
老人は電車少年として、小学校の時から京都市電、京阪に親しみ、DRFCの頃には全国の電車巡りに出掛けます。その中から、今まで未発表のものについて、代理投稿で報告するように指示がありました。なお、タイトルの「た~ちゃん」は老人の幼名です。今回は、昭和32年12月と、翌33年5月の2回に渡って訪れた和歌山地方の私鉄、第1回目として和歌山電気軌道をご覧ください。その後、中小私鉄の研究を始める契機となった、思い出に残る訪問だと述懐されています。

△ 終点の東和歌山駅前(現・和歌山)ではポール回しの光景も見られた。

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保津峡駅の午後の思い出ほか

総本家青信号特派員殿より「はしだてビーチ」の紹介がありました。そのなかで昭和44年7月の合宿が宮津線・加悦鉄道で行われたとありましたが、私は参加していません。ただ当時のチラシ類が残っていないかと探してみますと 次のようなものが見つかりました。

非常に見づらくてスミマセン。この年昭和44年の夏頃から全学封鎖だった時期で、クラブ活動は非常にやりにくい時期だったと記憶します。そんな中で熱心な旅行班長T君はいろいろな企画を考え、このようなガリ刷りのチラシでみんなに呼びかけを行っていました。

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瑞風と三江線

今月17日から山陰・山陽を走り出した「瑞風」ですが、瑞風が停車する沿線自治体は 豪華列車がわが町に停車することを自慢げにPRし、マスコミもそれに乗っかって 新聞、TVで盛んに報じています。

平成29年6月28日 中国新聞朝刊

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明暗さまざま

来る3月4日のJRダイヤ改正で 広島地区では可部線延伸開業が話題になる一方で 三江線廃止・代替交通案の話も動き始めています。

平成29年2月23日 中国新聞朝刊

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闇鉄「淡い冠雪」

関東の友人から「闇鉄」との撮り鉄の中での小分野名(渾名?)を頂きましたので、今後それで行きます。(笑)
京都駅の辺りで雪が積もるのは年に数回です。従って今年は2度目の出動となります。満月が優しく照らしていました。

サンライズ瀬戸・出雲、258系、5031M

サンライズ瀬戸・出雲、258系、5031M

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画像サイズの投稿ありがとうございました。

掲示板管理人さまより投稿画像の寸法についての記事が、阿吽の呼吸でありました。1月26日に48年前の画像を投稿しましたが、初めてスキャン経験で適当に縮小した画像を挿入しました。画像が小さすぎてお見苦しい記事となりました。鉱石ラヂオを組み立て、エナメル線の接触不良を紙ヤスリで磨いていたアナログ爺さまにはネットの仕組みは解りません。見かねての御教示、このOB会は誠にありがたい集団です。さっそく細工をして再掲とさせていただきます。

投稿後しばらくして米手作市さんよりDVDが届きました。EF58150とマイテ492展望車の同志社大学鉄道同好会三十周年記念列車の映像が収録されたものです。あまりの時機の良さに思わず投稿のご褒美かと思いました。

展望車の三軸台車の走行音を聞いて懐かしんでいると、一畑電鉄の古いクハ111が三軸台車だったとの投稿がこれまた米手作市さんよりあって吃驚仰天。1962年に一浪の末に同志社大学に合格。大阪からの通学は当初は国鉄を使っていました。その頃の快速は80系湘南電車で、京都交通博物館にある三枚窓の正面を持つクハ86も現役でした。京都駅の留置線には三軸台車の格下げ客車マハ29を見ることができました。まだ客車の普通列車が残っていて京都姫路間の増結用に使われていたので、下校時に乗ることもあり、独特のジョイント音をがらんとした車内で聞いたものです。京都長崎の夜汽車急行「玄海」の食堂車は三軸台車のマシ29だったのを見たように思います。

この掲示板をご覧の方はたくさん居られるとのことですが、案ずるよりするが易し一度投稿いかがですか。失敗しても教えてもらえます。身近な情報や珍しい画像があればお見せください。コメント投稿ならもっと簡単ですよ。

雪の超朝錬

総本家青信号特派員さんと同様、雪は撮影上の大きなインシデントって思いです。
早朝(未明?)に京都駅を通過する列車達のビデオ撮影を行いました。

5031M、サンライズ瀬戸・出雲

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