こんなんあるでぇ(再登場)

特派員氏が珍しいお召の写真を載せたらKH生氏も薀蓄を書かれて盛り上がってきたので古い写真を探してみたら出てきた。これで仲間に入れてもらおう。

珍しく日付があるので見ると、昭和40年5月14日二条駅と記録されていた。それだけでどこから来たのかはわからないので教えてください。なお、KH生氏が書いていたが天皇の公務旅行は「行幸」で、皇后や皇太子の場合は「行啓」と書かれます。

KH生氏も書かれていたが国鉄職員のお召しに対する心意気はたいしたもので、その点を写していたのでお見せします。

▲二条駅に到着のお召列車 本務機DF50529 前補機DF50528[米]

▲到着後すぐに引き上げるため整列して待つ整備員。

▲左:本務機DF50529,右:補機DF50528

▲国旗を外す傍らで一生に一度の晴れ姿を写す運転士
▲お召と交換する下り列車C51
▲その日の二条駅頭。今は梅小路機関車館の入り口になっている。

撮り鉄雑感

先日、東西の老友と撮影に出かけた。k氏とは湖西線志賀へ、Y氏、T氏とは高尾へ出かけた。大変楽しかったが、それぞれ、①好天に恵まれ、②同業者に会わず、③何より気心の知れた老友が同行したことで健康的なカメラハイキングができた。下のは「人がいないとやっぱしええわ」と思った写真。撮影の名所志賀~蓬莱間を行く117系で我々二人以外誰もおらず、のんびりと撮影ができた。

2010.4.24 JR湖西線志賀~蓬莱 2842M京都発近江舞子行き117系6連

最近、撮り鉄のマナーがマスコミに取り上げられ、撮影に行くと何となく肩身の狭い気がしてうっとうしい。特にJRの有名列車の廃止、車両の廃止による最終運行、イベント列車の運行等で混乱が予想されるものについては極力行かないようにしている。鉄道写真は楽しくないといけないので罵声が飛ぶようなところは、それだけで気分が悪くなる。しかし、どうしても記録したい場合も出てくるので、その場合は、東京や上野のようなパニックステーションをやめて、他の駅のホームの中間で撮るなどやや盲点的な場所を探す。ホームの端や列車を前がちに撮ろうとすると写角が限定され、どうしても定員がオーバーするので問題が起き易い。老若男女、カメラの良し悪しなど全く関係なく、先に来ている人が優先なのは最低限のマナー。前で撮る時は先に来ている後の人に邪魔にならないか必ず訊く様にしている。しかし、どうしてもいい場所は限定されるので大型脚立を駆使して高い所から狙ったり、人と人との間から撮ったり、はたまた、股の下から覗き込んだり大変である。実際、後に人が居ると落ち着かないものである。そんなことまでする必要があるのかと思う。しかし、適当な数の同業者なら情報をもらったり、共通の話題で盛り上がったりすることもあり悪いことではない。声をかけると嫌がる人もいるし、こちらも声をかけられたくない時もあるので、このあたりはタイミングとか読みと言おうかなにがしの判断が必要である。話が合ったり、仲が良くなり易いのは「共通」と言うことがキーワードのような気がする。すなわち、時代が同じ、地域が同じ、学校が同じと言うことは話が纏まり易い様である。線路際でEF64全機撮った人に、その昔のEF13の話をしても興味がないし、嫌がられる。小生は古い人間なので昭和30年前後が好きであるが、さらに古い明治や大正の鉄道にはもう一つ興味がない。海外の鉄道など行かない人にはなかなか興味がわかないはずだ。関東人と関西人が合わないのもよくわかる。自慢話ばかりでは嫌われるし、人の話に耳を傾けることも必要である。脱線したが、なくなりそうな車両は早い目に撮っておくと言おうか普段から撮っておけば大慌てしなくてもよい。その意味では平日動けるのは有難い。前述のパニックステーションやホームの端はやめて、横一列の撮影は比較的無難であるし、隣の人とも声をかけ易い。そんな例が次の写真。

2009.12.12 IR東海道新幹線三島~新富士の超定番スポット

プロを目差すならいざ知らず、鉄道写真は楽しく行きたい。撮影条件が日々悪くなっており、それだけに無理せずに自分なりに好きな場所をあちこちに用意しておき、なるべく普段着の鉄道を撮るようにしたいものだ。

白鬚駅、探してみましたが‥

西村さま、ご無沙汰しています。
江若鉄道高島町駅に続いて、白鬚駅の模型化に挑戦されているとのこと。ご同慶です。やはり、江若鉄道の廃止は、鉄道趣味の中でエポックメイキングな出来事であり、在学中の最大の思い出でしたね。
白鬚駅の駅舎の写真がないか、すぐに探してみたのですが、残念ながら私の撮った中には、該当する写真はありませんでした。白鬚となると、どうしても湖岸の鳥居に気をとられてしまい、駅舎までは気が回らなかったようです。
関連する図書として、大津歴博が発行した江若鉄道の図録も見たのですが、載っていませんでした。ただ、江若の木造駅舎は、おおよその意匠は共通のようで、他駅から類推することが出来るかもしれません。
お詫びに、つぎの写真2点を貼っておきます。最近、取材で当地を訪れる機会がありました。駅や線路を偲ぶものは何も残っていませんでしたが、湖上の鳥居はそのまま、神社の境内も昔のままでした。

江若最終日、車内から見た白鬚駅付近

40年後の白鬚駅跡。線路跡は国道の拡幅に利用された

「こだま」型 若き日の思い出 (4)

昭和30年代後半になると各地の幹線で電化が推進される。その多くは交流電化が採用され、直流区間にも乗り入れ可能な交直両用の特急用車両が計画された。「こだま」型の人気は絶大で、地方からも「こだま」型電車の到来が待ち望まれていた。
このような背景で生まれたのが、「こだま」型の交直両用電車、60Hz用481系、50Hz用483系で、それまでのDC特急を置き換えたり、新設の特急を誕生させた。
その嚆矢として、北陸本線に「雷鳥」(大阪~富山)「しらさぎ」(名古屋~富山)各1往復が、昭和39年12月から走り始めた。もともと、東海道新幹線開業の同年10月から運転予定で列車ダイヤにもスジも入れられていたが、肝心の車両が間に合わず、年末からの運転開始となった。

山科大築堤を行く、運転開始間もない「雷鳥」。わずか1往復の運転で「第◎雷鳥」でも「雷鳥◎号」でもない、ただの「雷鳥」

 初めての481系も山科で撮っている。151系に比べて床面が高く、その分ボンネット部が圧縮され、ややズングリした印象であるが、60Hz用を示すためスカート部が赤に塗られたのが新鮮だった。今まで電車とは全く無縁だった北陸本線に「こだま」型が走り、しかも京都で見られるとは、大変な嬉しさだった。その後、さらに151系と識別を容易にするため、昭和40年10月改正増備車からは481系、483系ともに赤い”ヒゲ”が入れられた。
北陸に待望の「こだま」型が走ったのだから、その人気ぶりは伺えようというもの。改正後ごとに「雷鳥」「しらさぎ」は増発が続けられ、昭和53年10月改正では、「雷鳥」19往復、「しらさぎ」6往復、計25往復となった。481系の増備車は貫通型になり、すべてが「こだま」型ではなかったし、一部は581系も含まれるものの、たいへんな数の「こだま」型が北陸路を駆け巡った。ボンネット型の「雷鳥」は平成16年まで残り、実に40年もの歴史を持ち、特急の中では最長となった。

湖西線が昭和49年にできるまでの「雷鳥」は米原回りだった。田村駅の南方、現在の長浜ドーム前付近を行く

赤ヒゲの入った「しらさぎ」。米原を出てすぐの北陸本線。当時は田園が広がり、すがすがしい光景の中を行く、「こだま」型はますます美しかった

「こだま」型 若き日の思い出(3)

昭和39年10月1日、「こだま」型の地図は、一夜で塗り変わる。東海道新幹線の開業によって東海道本線の昼間特急からすべて撤退し、全線の電化が完成した山陽本線に活躍の場を移す。
東海道新幹線と接続して、下関行き「しおじ」、宇野行き「ゆうなぎ」「うずしお」(「うずしお」は昭和36年10月改正から)が、、新大阪、大阪から出発して行った。「つばめ」「はと」は、新大阪を始終発に変更して、サヤ420を介してEF30、ED73に牽かれ交流区間の博多まで乗り入れを果たした。
翌年昭和40年10月改正から、さらに広島行き「しおかぜ」が加わる。、それまで昼間特急は「かもめ」「みどり」のみだった山陽本線は、日本一の特急街道に召し上げられた。その拠点になったのが、向日町運転所(現・京都総合運転所)、一躍、花形車両の配置区となり、151系や、153系やキハ82系などが顔を揃えて全国的に注目を浴びることになる。
私も撮影対象として、本数の増加した「こだま」型を求めて、大阪、新大阪へ出向いた。すべて駅撮りではあるが、現在の駅と違って、障害物も少なく、広々して写しやすい。
151系は出力増強されて順次181系に改造されたほか、181系新造車も増備された。そして、「こだま」型の交直両用版481系が出現する。

大阪駅の「うずしお」。手前のクハ151-9は、博多乗り入れのためジャンパ栓が増設され、連結器カバーもはずされた

昭和39年10月改正で新設された「ゆうなぎ」。先頭はクロ151-1 当時の新大阪駅はすぐ横まで民家が迫っていた

「こだま」型 若き日の思い出 (2)

山科大築堤の「つばめ」

日本の基幹路線ともいうべき東海道本線の全線電化が完成したのは昭和31年のことで、電化を機に、当時の客車特急「つばめ」「はと」を凌ぐ高速列車の計画が立てられた。EH10を使った高速度試験も行われたが、従来の機関車牽引では限界があり、動力分散方式の電車を採用することになった。
こうして誕生したのが初の特急電車モハ20系、のちの151系で、昭和33年に東京~大阪間の「こだま」としてデビューした。すべてに画期的な性能・設備だったが、中でもボンネット型の前面形状は、今だに名車として語り継がれ、「こだま」型を強く印象づけている。
乙訓の老人は、Oさんの世話で「こだま」の試運転に潜り込むという幸運に恵まれ、車内で「こだま」を設計された星晃さんに会われている。その後「トレランス」号で星さんと再会され、「こだまの試運転に乗れたのは一生の思い出です」と礼を言ったと述懐されている。

その後、好評に答えて「つばめ」「はと」「富士」などが相次いで151系で登場したが、旺盛な輸送需要にはまだ追い付かなかった。そこで、全く新設の交流電化の広軌鉄道を建設し、抜本的な改善をすることになり、昭和34年に東海道新幹線が建設起工された。つまり、東海道本線では電車特急の増備を続けながら、新幹線の建設を進めるという、二重の投資をしていたわけだが、それほど輸送力の改善が急務だった。
こうして、昭和39年、新幹線の開業と引き換えに東海道本線の昼行特急は全廃となり、わずか6年で東海道本線から撤退することになる。子供心にもぜひ記録しておきたいという欲望がメラメラと湧いて来る。

中学生ながら“山科の定番撮影”にこだわった一枚。これで後部が切れていなかったら言うことなし  (昭和39年8月3日)

この時に初めて行ったのが山科の大築堤だった。京阪御陵駅で降りて、駅前の道を南下して築堤をくぐるトンネルの手前に上へ行く小道があり、なんの障害もなく築堤に上れた。
ここで写したのが「つばめ」である。他の「こだま」「はと」などと共通の編成であるが、ただ唯一、ヘッドマークだけが違っていた。他は白地にスミ文字のいたってシンプルなものだが、「つばめ」だけは上下のバック地がグレーになっている。由緒正しき「つばめ」の矜持にも感じられた。
客車時代の「つばめ」には全く記憶も記録も持ち合わしていない私にとって、「つばめ」と聞いて真っ先に思い出すのは、151系の「つばめ」である。
最終日となる昭和39年9月30日も、中学校から帰ってすぐに山科に駆けつけている。前にも書いたが、その時に築堤にいたのはほんの2、3人だった。とくに最後の「こだま」を見送るときは先客も帰ってしまい、私一人で、本日最後の東海道本線の電車特急を見送った。その「こだま」は、フィルムが切れてしまい、写せなかったが、夕闇の大築堤を、赤いテールライトが過ぎ去っていく光景が、今も記憶の片隅に残っている。

最終日、山科の大築堤を下って行く「第二つばめ」。つぎの日は東海道新幹線の開業日、10日後には東京オリンピックが開かれる、日本の歴史を刻んでいく日々だった(昭和39年9月30日)

 

「こだま」型 若き日の思い出 (1)

京都駅の「こだま」

ボンネット形の「こだま」型電車の定期運用がいよいよ3月改正で消えると書いた。昭和33年の151系「こだま」のデビューから数えて半世紀あまり、ついに輝かしい歴史に幕を下ろす時が来た。
デビュー当時の「こだま」型は、撮影の対象というより、乗りたくても乗れない憧れの列車だった。山科の人間国宝は「展望車に乗るのが憧れでした」と折に触れて語っておられるが、私にとっては、まさしく「こだま」型がそれに当たる。そう思いながら、古い鉄道写真アルバムを繰っていると、第一ページにこんな写真が貼ってあった。

京都駅1番ホームの上り「第一こだま」 東京方のクハ151

昭和36年8月3日7時30分、上り「第一こだま」、小学6年生の腕ではさすがに稚拙な写真だが、特徴あるホーム屋根の形状から京都駅と分かる。この日、京都駅の一番ホームに私はいた。と言っても「こだま」に乗った訳ではなかった。
8月の中旬に家族で伊豆箱根への旅行を計画していた。その下調べに、父とともに京都駅へ来たのである。この頃の東海道本線は、逼迫する輸送需要に追いついていなかった。「こだま」が昭和33年にデビューし、その後も「つばめ」「はと」「富士」と電車特急「こだま」型が増発されたものの、電車特急の人気は高く、2週間前発売の指定券はすぐに売り切れていた。ダフ屋が横行していた時代で、何倍もする特急券を泣く泣く購入せざるを得ない。
勢い、自由席のある急行に目が向くが、これも夏のシーズンなどは満員になる。とくに京都から東上する場合、大阪で乗り込まれると、座れる可能性は極めて低い。この頃の交通公社の時刻表には、急行・特急の月旬ごとの前年の乗車率が載っていた。8月号を見ると、東海道本線の主要な急行は、軒並み100を超していた。
そんな状況の中で、実際それを確かめに京都駅へ来て、乗るアテもない「こだま」を写したということである。
これほど左様に、当時の「こだま」型は、日本国民すべての憧れでもあったのだ。ちなみに、その旅行、急行の利用はあきらめ、結局、京都発の普通列車を乗り通し、約10時間かけて沼津に着いた。

満ち欠け

【欠け】 先日、飯田線を訪れたとき、面白い信号機がありました。

単線閉塞区間なので、黄色が不要なんですね。
3灯式信号機の黄色い部分にフタがしてあります。
これなら青の無い色灯式信号機があるのではと探してみると、
案外近くで見つかりました。


中央東線、日野駅の下り方の中線(待避線)へ入る信号機がそうでした。
分岐部分でS字にカーブしていて、徐行運転が必須の様です。
でも流石に赤の無い色灯式鉄道信号機なんて、無いでしょう?
工事区間の徐行解除を示す青の円盤(標識)は別として。 (^^;)

【満ち】 さて今度は満ちている方です。
先日、修善寺/花月園のレイアウトを『583』で占拠しました。

しかし最後の画面に写るパトカーには出来すぎの感が。 (大笑い)

 

教えて!なんでも探偵団(その2)

藤本先生、解説をありがとうございます。

少しずつ思い出しております。年代は間違えてないようでした。ただ時間に関しては記憶と誤差があります。ご覧のように西を向いている機関車の正面からの光線ですから午後、それも記憶では16時頃だったように思います。ご高察をお願いします。

教えて!なんでも探偵団(その2)

古い写真を整理していたらこんなモンが出てきよりました。

これはなんでっしゃろ?撮ったのは昭和も華やかなりし頃、そうや37、8年の初秋やったと思います。どなたかご存じでしたら教えてやっとくれやす。

福知山機関区の所属になっていた。

DD911 福知山機関区の所属になっていた。

京都駅山陰線ホーム機回し線

 

懐かしくて涙の出る映画

これをみて下さい。「大いなる驀進」

三国連太郎のカレチ、中村嘉津雄のレボ、その他中原ひとみ、佐久間良子など往年の美男美女も見物ですが主役は20系さくらとC62,EF58です。この数年前に作られた「大いなる旅路」は映画館では見逃しましたが主役は8620でした。これを見たあと、下に並んだアイコンの中で「紀勢線開通」もぜひみて下さい。

http://otou96.iza.ne.jp/blog/entry/1019371/

0系雑感

昨日(2008年11月30日)昭和39年10月1日以来走り続けた新幹線0系が営業運転から引退した。思えば同志社へ入学した年で、8月の夏休み中に試乗会があり米原まで往復した想い出がある。

さて、この引退を巡ってマスコミは一大キャンペーンを繰り広げている。テレビではトップに報道され、新聞でも数面を使って詳細に解説されていた。

たしかに一時代を画した車両ではあったがこのマスコミの報道ぶりにはいささか違和感をおぼえる。涙を流して0系への思いを話す男性、感謝のコメントを書いたパネルを掲げる十に満たない子供をテレビが映し出す。思い入れは人それぞれだから彼ら達には異存はない。しかし、そもそも0系の引退が今日のニュースのトップに座るほどの価値があるのだろうか?マスコミは何を基準にニュースの価値を判断し、軽重を決めるのか。その能力と権限がマスコミにあるのだろうか?かつて某新聞社は自らの政治的プロパガンダのために珊瑚に傷をつけたし某政党を選挙で勝たせるために団結して反対党のネガティブキャンペーンもした。

0系新幹線に話を戻すと今回かなりの国民が“0系”なる新幹線の存在を知ったと思われる。これはマスコミがその様に意図したからに他ならない。自分も鉄道が好きだから引退すると聞けば惜別の情は湧く。でも泣いたりプラカードを立てて見送る気にはならない。車両はいつか更新されるものであり、それであるからこそ趣味の対象となりうる。泣き叫ぶほど擬人化したり、過度の思い入れは趣味の対象への行動としては鼻白む思いがするのだ。

マスコミは株式会社○○新聞社であり××テレビである。利益を出すために今度はこれを煽ってやろうと思えばその様に番組を作る。われわれはそれを見抜く眼力が必要になってくるのでは無かろうか。

それにしても我が愛するスハ43や80系の引退時にもこんなイベントが欲しかった!

仙台市電あれこれ話

作並から山を下り仙台市電となった。tsurukame君の2年前に1日半うろついている。その話に入る前、作並機関区の区宝となった筈の物をご披露申し上げる。

 

仙台2日目、11時前に北2番丁車庫を訪問した。2階事務室に案内され、佐藤技師さんから仙台市電30年史を下に講義を受けることが出来た。昼食も御馳走になった。この時のメモ中心にあれこれ話を展開しよう。

1.都電の中古車:モハ70形(707910

19484月、東京都より4輪車10両を譲り受け、改造(整備?)を東京鉄道工業に発注、10月に完成、同年111日付で竣工届が出されている。帳簿価格は300,000円。194946日付で車両設計変更の認可を得て、台枠(ベスチビュール部分か)改造と共に折畳扉設置、窓構造、車内照明を始め外部灯具などの改造も施工している。窓はこの時、70号を除き2段窓になった。1957518日付で7375が廃車、配置は北2番丁に70.71.77、長町に72.76.78.79.となっている。76は衝突事故で休車、これと70724両は次期廃車予定。可動車は予備車的存在で、市内の本線上で見ることは出来なかった。

2.都電、その他の中古車:6169、形式称号なし。

6162)モハ70形の原型である都電400形の車体を購入、61は鶴見臨港の4輪車11号の、62は当局の撒水車の台車と電装品を転用して19417月竣工した。簿価は14,500

6364)江ノ電112122を購入、22の車体に11の台車を組み合わせ63とした。その台車はドイツ・マイネッケ社のものであった。64は都電から譲渡された予備台車を組み合わせた。こららは194212月竣工した。以上4両は東京三真工業所が改造した。簿価は16,100

6566194210月、竹鼻鉄道(19433月名古屋鉄道と合併)から木造4輪車2両(78)を購入した。車体幅が狭いため座席を食い違いにしたタイル張の床を持つ車両であった。これを改造、改修の上、1945年竣工した。このタイル張とはどんなものであったのか、気になる。この頃はアスタイルやPタイルは未だ世になく、あるとすれば高級品のリノリュウムタイルぐらいである。元貴賓車ならわかるとして、庶民の電車にタイル?となったのは当たり前のことである。まさか瀬戸や常滑のタイルを使ったのではなかろうと思うが……。後にこの2両は美濃電岐阜市内線のものであることが、廃車後の解体の時に判明したとか。

676919426月、都電4003両の譲渡をうけた。日本鉄道自動車で整備され19475月竣工となった。6569の簿価は記載なし。

以上9両は19488月:61636566を秋保電鉄に譲渡、19492月:6264が廃車、19551月:6769も廃車となった。NEKO RM90には6268の写真が掲載されている。

3.流線形:モハ43形(43453

これがお目当てであった。1955年、初めて松山に行った時、古町車庫に留置されていた鋼製4輪車、なにか曰く因縁があるに違いないと思っていた。それがTMS7886号で解決したのだが、仙台に行けばその原型に出会えると期待に胸を膨らませていた。初日に仙台駅前で出会い宿願を果たした。

因縁については、佐藤さんから聞くことが出来た。メモでは1938年、18両(4360号)増備の認可を得た。この年の8月に3両、梅鉢車両で完成した。簿価は16,800円であった。43号は北2番丁、4445号は長町所属であった。

次の年は製作割り当てがなく、1940年3両、1941年1両の割当てを得た。当初、製作は木南車両担当であったのが、1941年には日本鉄道自動車に変更となり、19429月竣工の筈が実現しなかった。結果として60形が代替車となった。1946年に購入を断念した結果、日鉄自で完成していた鋼体を秋保電鉄が引き取り、2両を電動車として完成させたが、1両は伊予鉄道に譲った。過去に仙台市が財政難に陥り購入を断念したと紹介された記述もあるが、佐藤氏は原の町線建設が急務であり、市は路線延長に資金を投入したのだ、とおっしゃった。東京から中古車400形購入の目途が立っていたからだろうか。戦中、終戦直後、物資不足に振り回された姿が垣間見える。

 

秋保電鉄の本社は市電長町車庫の南隣で、線路は繋がっていた。北2番丁車庫で撮れなかった70型をキャッチするや表通りに出て302号を待つことにした。300形は前日、仙台駅前で一度キャッチしたのだが他車と重なり、そのことを車庫で言ったら「間もなく帰って来るよ」と教えてもらったからだ。301号は北2番丁所属、302号は長町所属のため動静が掴めたのだ。長町駅前で土佐でも話題となった4輪車の連接車化の姿を、無事にキャッチ出来たが乗ることは出来なかった。それは秋保温泉までの一往復を頭に入れていたからだ。

 

1520分過ぎに秋保電鉄長町駅ホームにモハ411号が到着、伊予の兄弟と対面出来た。当車は194612月竣工時マハ10と名乗っていた。同型410号は当初マハ8号であったが後にモハ408を経て現番号になった。こうしたことはピク誌369号:和久田氏の記事の受売りである。本社へ行って形式図拝見と、居座れば最低1時間粘ることになるから明るい内に沿線観察とはならない。

411号は高校生を10人ばかり乗せ、折り返し月ヶ丘行きとなり直ぐに出て行った。1610分発の温泉行きに乗車するため待つうちに、単車をボギー車に改造したモハ1407号が到着。乗り場の奥に引き上げ、代わって乗り場向かいの車庫からモハ1408+サハ406号が出て来て乗り場に横付けになった。乗ったのは4輪車のサハの方である。市電からの乗り換え客のほとんどは高校生で、サハはゆったりした車内で出発した。16㎞を60分ぐらいの行程、田舎電車そのものである。25馬力×2でトレーラー牽いてだから最大速度は25/hがやっとか。田圃の中をがったんごっとんと走る。そのうち山裾に取りつくや車内灯は一段と暗くなってきた。東北の秋の夕暮れは京より早いなぁーと思っている内に終点到着。

温泉駅は川べりで、温泉街は川の対岸のようだ。電車は入換作業をして直ぐ長町へ戻ると言う。今度はモハの方に乗って温泉電車とはお別れにした。

以上で車号が出てきたのが電動車4両、付随車1両だが、和久田氏の記事では4輪車をボギー車にした開業以来の140114034輪車のままの4023両に1938年に名古屋市電譲受けの405の電動車があり、付随車はいずれも4輪車のサハ4014041959年には在籍していることになっている。車庫で見かけたのはモハ1403とサハ402のみで後は分からない。本稿が誘い水となり、須磨の大人のお出ましを期待している。

 

かって1994年夏、35年ぶりに栗原電鉄へ行ったことを紹介したが、秋保温泉へは1995年秋に行くことが出来た。泊まったのは「勘助」で、翌朝ベランダから川を見下ろす内、対岸はかっての温泉駅であることに気付いた。フロントの年寄りに尋ねてみるとやはりそうであった。朝食前に行ってみたが36年前は夕闇の中でのこと故、何も記憶に残っているものはなかった。平泉へ移動するバスは左側の座席を確保、温泉街を出て名取川を渡ってから山裾を注視した。電車用地とはっきり認められる個所があり、バスはそれに沿うルートを辿っていた。茂庭バス停を過ぎると東北高速道路に入り、一路北上であった。

竹薮の傍から

このところ、話題が明治に及び、顧問も「すまんけど、私も仲間に入れてんか」と、草葉の陰から現れそうである。京津電軌開業80年を直前に、1992年8月14日が命日だから16年の歳月が経過した。顧問は、吉川文夫さんとは絶えず「京電」のことを中心に文通しておられたようで、1993年秋の彼岸を前にして「お参りに行きたいが、案内して欲しい」と電話があった。2人でお伺いしたら奥様から「主人は吉川さんからのお手紙を全部残していました」と、段ボール箱を取り出された。そして「京電関係はこちらの箱です」。2人は顧問の遺品となったものを整理の上、紙袋などに詰め合わせ、頂戴して辞去した。鹿島さんの事務所で荷造り、宅急便で鎌倉へ送った。「関西の鉄道」32号には吉川さんが顧問を偲び、お二人で探索した「京電」の話が掲載されている。ぜひ購読してほしい。DRFCとの「絆」はここにもあったのである。

 インドネシアの孫(2年7ヶ月)が里帰り中である。藪を通して阪急が行きかいする光景がお気に入りである。その阪急、98日朝やって来た7400先頭の8連、8300系新を垂直にしたようなマスクの持ち主であった。車内扉上3ヶ所に薄型テレビの案内装置がある。扉間座席は323で肘掛の区切り付。1週間後、9300系の5本目に出会った。近々6本目も登場するらしい。そしてさらに増備を重ねると噂されている。正雀で観察している「鉄」に、桂で休車となっていた6300系が1本見当たらないので去就を尋ねたら、それは事故編成の代替となり、事故編成1本をあの世へ送ったらしい。9300系増備により2300系の終焉が近づいてきたようである。そしてもう一つ、洛西口駅の前後、東側の田圃や道路で工事の準備が始まっている。道路付け替え工事となっているが、地元紙乙訓版では洛西口駅の踏み切り改良工事のためで、阪急は高架線になるとのこと。この踏み切り前後だけで、川岡、山陰街道の踏み切りは関係ないようだ。勿論、東向日駅高架化も関係なく、向日市民としては寂しい。

月代わりと共に水泳列車の話も陰を潜めた。高校入学するや新聞局に入局したが、6月に入ると水泳バスの切符売りをやらされた。青柳浜往復で朝7時に校門前出発だったと記憶している。料金は忘れた。校下の京都帝産バスの重役さんが安くバスを提供してくださる、とのことで新聞局をはじめ水泳部や他のクラブでも主催し、クラブ運営費の足らず前を稼いでいた。往路は良いとして、復路は帰校がいつになるやら?となり、卒業後は話をきかなくなった。その年、江若鉄道に1957号登場。大鉄車両なる聞き慣れないメーカーにつき高山師匠に尋ねてみたら、「あぁ、あれなぁ向日町駅の東北隅の掘っ立て小屋でごそごそやってるとこや」と、教えてくれた。まだ下鴨の住人で親のすねかじりであった頃で、自転車で向日町へ行った。木造トタン張りの建屋があり、2線引き込まれていた。1958号となるべし車両が工事中。その傍らでタンク車が整備中であった。察するに大鉄車両とは、私有貨車の定期検査を主たる業務としていたようであった。

その年、195810月は阪神の小型車を追いかけている。一段落したところで近鉄名古屋線へ。ジェットカー登場や改軌の事を師匠から教えて貰ったからだ。1225日には和歌山へ。発端は阪急甲陽線の7,8号の姿が消えたからだ。師匠から「和歌山に行けば阪神700と共に頑張っている」と聞かされた。このころピクとTMSが頼りだったが、ローカルのことなど報じられることなく先輩に教えられ行動したものだ。その和歌山ではガソリンカーの成れの果てを7両も見る事ができた。車庫で形式図を見せてもらったら205206の2両が江若から流れ着いたものであることを知った。そして珍車、片ボギーの801。元は8001なる高松琴平顔負けのインフレナンバーであったとか。片ボギーを見たのは初めてで、伊太祁曽~貴志間往復してきたが、2軸貨車より乗り心地は良かった。こうした電車の部類に入れられた気動車については須摩の大人の銘著を紐どいて頂くと、故事来歴がよく分かる。なに、高過ぎて買えなかった、どなたか解説をよろしくお願いします。

本来、彼岸の日に顧問を偲ぶ一端として「新規投稿」とすべしが、またしても新機軸となりスカタンを恐れ遅延してしまった。