▲弘前から乗った五能線の列車は雪原を走り続けた。例によって、交換があると、周りの迷惑も顧みず、窓を開けて写真を撮り続けた。藤崎で交換の混合1725レ 美しい弘前区の28683の牽引。
2月6日(日) 五能線へ乗り鉄・撮り鉄
青森 6:38→弘前 7:15急「しらゆき」「きたかみ」 キハ58 1532
弘前 8:07→深浦 11:43 1730レ オハフ61 122
(深浦旅館に宿泊 1200円)
▲青森駅の待合室でゆっくり寝て、急行で弘前へ。弘南電鉄のホームへ行くと、待っていたのは、待望の阪和社型のモハ2025だった。
▲弘前機関区で雪を被ったED75719、スエ7174を撮影。
▲弘南の阪和社型は、松尾鉱業鉄道に2両が移ったあと、同社の解散に伴い、弘南へ来た。数年前に松尾鉱業へ行こうとしたところ、時刻表を読み違えて、訪問が果たせなかった苦い思い出があり、それだけに、真っ先に社型に再会できたのには感激。
▲トップ写真の藤崎で交換の1725レの発車を、乗車列車の後部の貫通路から。
▲交換ごとのシーンも撮影。
▲乗車の1730レは、五所川原に9:22着、ここで1727Dと交換、2本の列車から、人が降りて来る、降りて来る。ホームはびっしりと埋め尽くされた。学生服やセーラー服がいないと思ったら、本日は日曜日、すると平日なら、もっと多いのだろうか。
▲まだまだ跨線橋への列は続いている。右手には、津軽鉄道のオハ31も見えている。津軽鉄道の下車客も加わって、跨線橋はさらに混雑しているのだろう。
▲乗車した1730レは、58666+オハフ61+オハユニ61+オハフ61の編成 乗客もさることながら、オハユニ61からの手小荷物、郵袋も相当な量がある。短い停車時間に、総出で必死に上げ下ろし作業。木造にて▲鰺ヶ沢に到着、時刻は10時を過ぎて、五所川原のような混雑はなく、塾へ行くのか、小学生が乗っただけだった。
▲鰺ヶ沢を出ると海岸沿いを走るようになる。客車は1両が鰺ヶ沢止めで2両だけになったが、貨車が連結されて混合列車になるなど、きめ細かい運用がされている。
▲五能線のほぼ中間の深浦に11:43に到着、3時間あまりのハチロクの旅を終えて下車。
▲深浦の発車シーンを押さえたあと、改札口付近も、時刻表を入れて撮っておく。▲深浦から広戸寄りに歩いて、不意に現われた1739レをまず撮影。
▲岩礁地帯に到着、崖の上の国道からキハ22先頭の1734Dをまず一枚、続いて後追いを一枚。これを撮ってしまうと、蒸機はもちろん、DCの通過もない。
五能線沿いにユースはなく、翌日も五能線で写すため、この日は深浦で泊まることにして、駅に戻り、窓口で紹介してもらった旅館へ早めの到着となった。旅館の名前も忘れたが、「旅館代1200円(深浦)」と手帳には書かれていて、たぶん2食付きの値段なのだろう。学生時代に、旅館に泊まるのは、極めて珍しいことだった。
▲どんな旅館に泊まったのか全く思い出せないが、旅館で食事をしてから、カメラと三脚だけを持って、駅へ行ったのだろう。
▲深浦は、駐泊する蒸機列車もあるので、小さいながらも機関区設備が整っていた。▲木造の一線だけの矩形庫があって、そのなかでハチロクが一両、明日の始発に備えて、早くも寝息を立てていた。
▲20時ちょうどに、深浦が終着となる745レが58666に牽かれて到着した。これが深浦の最終列車、下車客はわずかで、やがて駅の照明も消えて、日本海側の寒村は、深い眠りに入った。
総本家青信号特派員殿
50年前の東北の旅情を堪能しています。特に、津軽では車内で飛び交う言葉が理解できず、外国に来たような気分になったものでした。以前にも同じ写真を載せましたが、平成22年7月に五能線沿線をクルマで走破した際に、深浦で矩形庫を撮っていました。78627の夜景のバックに山肌を削り取った斜面が写っていますが、今も(といってももう11年も前ですが)変わりないようですね。このシリーズを楽しみにしています。
西村様
深浦の思い出、ありがとうございます。そうですね五能線の列車に乗って、乗客の会話に耳を澄ますと、地名とか数字は分かるものの、あとは全く理解できなかった思い出があります。深浦の裏の山は、私の夜景にも写り込んでいました。庫も新しくはなっていますが、一線分の細長いもののようですね。
五能線のハチロクと弘南にいた阪和のモヨ100、実に羨ましい時代を旅行されているなあと思います。
昭和56(1981)年の当会の夏期旅行は新幹線開通前夜の東北で、そこで私も縦横に写真を撮影しましたが、20日間のうち晴れたのは3日だけという残念な夏旅行でした。
この時は平賀の車庫で、休んでいる阪和の社型に遭遇が出来ました。
残念ながらラッシュ用の3連の中間に挟まっていました。
1981年9月1日 モハ2025
撮影場所は黒石、モハ2025は、昭和52年11月にTc化されてクハ2025になっています。
画像は、昭和50年4月29日、平賀車庫です。
KH生さま
藤本様
阪和モハ2025のその後の写真、ありがとうございます。たしか、その後、電装が解除されて、Tc化されていたのでしょうか。弘南の電車で面白いと思ったのは、行き先幕が「弘前方面行」となっていて、“方面”を付加しているのを、写真から見て取れました。
溢れるほどの乗客で埋め尽くされた、五所川原のホームは圧巻ですね。撮影されたのは日曜日ですので、沿線から買い物に来た人たちでしょうか。ネット通販もなく、車も今ほど普及してなかった50年前、地方に暮らす人の日常を垣間見たような気がします。
リヤカーに山と積まれた小荷物と郵袋も、今では見られなくなりました。待合室から見た改札、その向こうには発車を待つハチロク。いいですねえ。鯵ヶ沢の可愛い小学生、たまりません。
深浦の旅館が1200円とは、安いですねえ。私が昭和47年に泊まった若松では、素泊まりで1200円でした。
取り留めもないことばかり書き連ねましたが、駅でのスナップにも注目しております。
紫の1863さま
この時期、人も荷物もホント多かったですね。とくに五能線沿線は、海と山に囲まれた隔絶された区間が多かったですから、鉄道に頼ることが多かったと思います。深浦の1200円は、当時の物価からしても安すぎると思います。素泊まりだったかもしれませんが、そうすると、食事代が別に記入がなく、飲まず食わずの一泊だったのでしょうか。鯵ヶ沢の小学生、かわいいでしょ。別にヘンな趣味はないのですが、この歳になると、小学生が愛おしく見えてきます。その直前に撮った写真です。小学生を見守る駅員さんの暖かい眼差しがありました。
阪和の車両の件はご指摘のように電装解除された晩年の姿だったようです。
興味深い資料を見つけました。
https://www.youtube.com/watch?v=Uwro-lcFDRk
五所川原が最も賑わった1970年代の後半期に、駅付近にデパートが3軒もあったそうです。
駅前は列車が着く度に人々がどっと降りて、1時間くらいで分散すると、また次の列車が着いて、人通りが絶えることが無かったと、駅前で当時から金物店を営む奥さんが証言されておられます。
お時間があればご覧下さい。
見ましたよ。五所川原が賑わっていた時代、私が見た光景の何倍も賑わっていたのですね。五所川原に、丸友、中三、マルキ中島と三軒ものデパートがあって、「汽車が着くとどっと降りてくる」の金物店の奥さんの証言は、真実味がありました。ほかにも、同様の動画があって、楽しませてもらいました。