「老人の戯言」カテゴリーアーカイブ
50年前の撮影地を歩く -2-
“タカバシ”で撮った「替えだま」
▲高倉陸橋から眺めた上り「第2こだま」、新幹線開業数日前の光景(昭和39年9月)
今回の撮影地は、京都駅東側に架かる高倉陸橋、通称“タカバシ”だ。京都駅に発着する列車が眺められる陸橋は、昔から汽車見物の名所地で、多くの写真が残されている。私も小さい頃からよく行ったものだ。構内に梅小路機関区の支区があって、蒸機がいたのを覚えている。支区は、東海道線電化後もしばらくあったから、小学校の1年か2年に行ったことになる。新幹線建設前だから、陸橋上を走っていた伏見線は、廃止前とは違うルートで八条口方面へ向かっていた。
さまざまな列車を眺めるのが、無上の楽しみだった。貨物列車の両数を数えるのも楽しかった。乙訓の老人も同じことをしていたと言う。老人の時代は80両あったそうだが、私の時は45、6両だった。日によって貨物の量も違うだろうが、決まってこの両数だった。さて、50年前の“タカバシ”、ある列車の撮影を目的に自転車で訪れた。
50年前の撮影地を歩く -1-
桜の八瀬から
私が鉄道の写真を撮り始めたのは、公式資料(?)によると、昭和36年、小学校6年のことでした。N電が廃止されると聞いて撮りに行ったのが、我が鉄道写真の起源と言えます。ただ、その時は、父親と一緒に撮っただけで、独り立ちして自分の意思で写したのは、その少しあと、昭和39年のことでした。
今年でちょうど50年目、と言うことになります。昭和39年と言えば、東海道新幹線開業、東京オリンピック開催と、日本が沸き、高度成長の波に乗り始めた、記憶に残る年とも言えるでしょう。そこで、自分の写真で50年前を回顧、と企てたものの、なにせカメラは、当時、席捲していたハーフサイズカメラ、確かに撮影枚数は倍撮れるけれど、フィルムサイズが半分になっては、画質は目を覆いたくなるほどヒドイもの、とても、単独で見せるシロモノではありません。
そんなある日、偶然にも、50年前と同じ場所で撮影する機会がありました。なるほど、50年前と今昔対比なら行ける! と膝を打った次第です。遅ればせながら、まずは桜の話題となりました。
▲50年前の京福八瀬付近である。高野川を渡るのは、デナ1形3+4。デナ1形は大正14年製の木造車で、1~6の6両がいた。当時は、両運・非貫通を片運・片貫通化した2両固定編成となり、叡山線専用となっていた。しかし、阪神から小型車が大量に転入し、デナ1形はまもなく全廃となる。
この年、八瀬では、京都新聞社主催の「新世紀京都博」が開かれて、その見物に来て、横の橋から撮ったものだ。昭和30年代、各地でこのような博覧会がよく開かれていた。その総決算として、昭和45年の日本万国博覧会へ結実していくのだろう。今から見ると、チープな展示だが、娯楽の少ない時期、多くの見物客を集めていた。「新世紀京都博」の目玉展示のひとつは熱海軽便鉄道の7号機で、現在、熱海駅前に保存展示されている“へっつい”である。はるばる熱海から来た蒸機に人が群がっていた。
博覧会終了後の跡地利用として、八瀬遊園地が開業し、「かま風呂」だけで有名だった八瀬は、水族館や大型プールもできて、京都市内唯一の遊園地として、大勢の人を集めることになる。京福の駅名も、翌年に「八瀬遊園」と改称され、八瀬を本格的なリゾート・レジャー施設にしようとする会社の目論見が見えていた。(昭和39年4月)
▲今年の桜シーズン、名古屋から都市交通研究家のHさんが入洛され、一緒に桜の撮影に向かった。嵐電を写したあと、八瀬比叡山口を訪れた。
八瀬遊園はその後、「スポーツバレー京都」、「森のゆうえんち」と名前を変えながら営業を続けてきたが、施設も狭小・老朽化して入園者は激減、平成13年に閉園となり、跡地には会員制のリゾートホテル「エクシブ京都八瀬離宮」が建った。駅名も、遊園地の閉鎖により、平成14年に「八瀬比叡山口」に改称されている。
たまたまホテル内に迷い込み(?)、50年前と同じ場所からの撮影ができた。バックは比叡山で、高野川に架かる鉄橋も全く変わっていない。ただ線路に沿った桜は、ほとんど無くなってしまった。八瀬比叡山口駅周辺はまだ桜はあるものの、全般に衰えが見え、花の勢いはなかった。家族連れで賑わった駅も、すっかり枯れた駅となっていた。
雪融けを待つ木次線
国鉄時代には考えられなかった冬季運休路線にJR木次線があります。北海道の深名線など あまりの積雪で除雪ができず、何日間か やむを得ず運休するという話はままありましたが、冬は運休するのが常態化しているのは 現在の地方閑散線区の置かれた環境を示しているように思います。スイッチバックで有名な出雲坂根をサミットとする備後落合-出雲横田間は昨年末から冬季運休していましたが、雪融けを待って3月22日から運行再開するそうです。
DD401、ありました
ことし初めての投稿です。正月以来、雑事に振り回されていましたが、ようやく冬眠から覚めて、掲示板に向かいます。
まずは、掲示板に寄せられた問い合わせについて、私なりの回答から。
以前、西村雅幸さんから、「DD40の目撃者、おられませんか」として、新三菱重工で製造された試作ディーゼル機関車、DD91について、配置された梅小路区・吹田区での現役の姿の問い合わせがありました。
同機は製造後、昭和31年5月、梅小路区へ入換用に配置、昭和35年5月から吹田一区で、吹田操車場、尼崎港線で使用され、昭和37年3月に新三菱重工へ返却されています。
昭和37年返却とあれば中学一年生の時、残念ながら私も写していませんが、“何かあったはず”と探しますと、ありました。以前にTさんからいただいた写真でした。ただ、モノクロのため、お望みの塗装は判然としませんが、古いピク誌を見ますと、“ブドウ色”と記されていましたので、茶に白線のような気がします。ただ、鉄道図書刊行会「日本の内燃車両」に掲載されている同機の写真と比べると、白線の太さ・回り方が違い、ある時期に塗装が変更されているようです。模型作りの参考になれば幸いです。
余談ですが、その後に、新三菱重工で試作されたDD91も、福知山区に配属され、山陰本線の京都~福知山で使用されました。返却は昭和40年ですので、私も京都駅で何回か撮っています。返却後、山陽本線すぐ横、三菱三原の工場側線にしばらく置かれていました。呉線へ行った時、電車から見るのが、楽しみのひとつでした。
▲梅小路機関区のDD401。昭和30年代、外国の技術と提携した試作ディーゼル機関車が国内の車両メーカーで製造された。その多くは、国鉄が借り入れて、旅客列車の牽引、入換に供され、ディーゼル機関車の有用性の検討と、無煙化の一助とした。1形式1両ばかりで、当初は40台の追番、のちに90台の形式が付けられた。
叡電、起承転ころぶ
元田中へ行く用事があったので、叡山電鉄をビデオ撮りしました。
出町柳行きの到着、鞍馬行きの発車、出町柳行きの発車と順調に撮影できたのですが最後に転びそうになって、必死に柵へ掴まりました。
続・木次のC56108によせて
京阪500型の思い出
関先生の500型を見て なつかしく当時を思い出しました。とは言え250型はすでになく、晩年の500型しか知りません。当時ぷるぷるさんと同じく墨染駅の各停利用者でしたので宇治行きの500型にはよく乗ったものです。1500型を間にはさんだMTMの時代と、両側貫通に改造された550型、580型の登場で4連になった時代にお世話になりました。ぷるぷるさんと一緒に家から歩いて国鉄奈良線の蒸機と京阪宇治線をよく写しに行ったものです。
小海線合宿のご案内
どですかでんさんが1970年夏の小海線合宿で撮影されたC56149を紹介して頂きました。この合宿記は青信号25号に詳しく述べられていますが、この合宿の案内パンフが手元にありましたので、当時を思いだす意味でご紹介します。なお私はこの合宿には不参加でした。
京都駅のC5711
C5711の記事は大変楽しく、懐かしく読ませて頂きました。
当時の記録があったと思い出して探したら出てきました。
例によって、いつ撮ったものかが不明確です。この当時は私もまだ子供で、時間があれば梅小路機関区や京都駅構内が遊び場となって徘徊しておりました。実家がカメラ店なので、新品カメラやフィルムはもらえませんでしたが、中古カメラやお客さんが捨てていったフィルムはふんだんにあり、使わせてもらえたので、ろくな写真はありませんが枚数だけはかなりあります。
そんな中に京都駅山陰線側留置線で待機するC5711を撮ったものがありました。記録では昭和37年頃(1962年頃)になっていますがわかりません。
梅小路機関区で撮ったのは記録がありませんが煙突のクルクルパーが無いので時期は違うのでしょう。どなたか検証をして下さい。
さて、C5711は子供心に他とは違う、なにか特別な機関車だと感じました。それはテンダー周りや、キャブの窓周りにクロームメッキした帯が貼り付けられていたからです。
遠い昔が懐かしく思い出されました。ありがとうございました。
老いて益々意気軒昂
【老いて益々意気軒昂】
湯口徹兄の新著「日本の内燃動車」が先日上梓された。これで何冊目なのだろうか?
発行者も古くはエリエイ社から始まり、今回は成山堂書店である。同書店は「陸海空の交通がよくわかるシリーズ・交通ブックス」を刊行しているが、その執筆者はその筋の玄人である。
今回、湯口兄は趣味者から「その筋の専門家」に認定されたことになる。
それはそうだろう、2005年大作「内燃動車発達史」、2006年「戦後生まれの私鉄機械式気動車」に始まり、2008年「日本の蒸気動車」、2009年「石油発動機関車」をネコ・パブリッシング社から上梓され、日本全国に「湯口徹あり」と鉄道趣味界に銘記されるようになった。
彼は学生時代から気動車の研究家であった。私が気付いたのは京都鉄道趣味同好会会誌【急電】誌上で、高校2年の時であった。投稿内容からして彼は社会人だと思っていた。
1957年同志社進学の時、経済学部新入生として彼の名があり実は驚いたのである。当時、師事していた奥野利夫さんからも「湯口徹さんが君とおんなじとこへ入ったぞ」、と言われたのを今も覚えている。翌年5月、DRFC旗揚げに際し駆けつけてくれ、羽村兄から紹介され付き合いが始まった。
今回の著書を紐解いてみよう。彼ならではと思う箇所を幾つか探してみる。先ず1頁、第1章・黎明期のわが国内燃動車、「1内燃動車の定義」以下を熟読してみた。彼は若い頃から趣味者として追い求める内容を整理していたのである。趣味者は鉄道の一部分としての車両を対象とする事が多いが、その範囲を定義づけた上で調査活動に入る人は少ないようだ。
私が彼を知って、先ずこれに気付いた。一種の頑固者である。そして調査を始めると徹底的に追いかける。一次資料として鉄道事業者のものを入手するや、それを彼なりの観察記録に基づき裏づけを取っていく。その範囲を広げ、検証を1点に絞ることなく多角的に展開して行くのである。交通博物館の倉庫に続き、国立公文書館での調査を今も続けているのはその証と言えるであろう。
“半世紀前の電車特急”によせて
tsurukame先輩の151系特急「第2富士」、たいへん興味深く拝見しました。新幹線開業前のこだま型のいちばん華やかな時代ですね。50年前とは思えない、あざやかなカラー発色には驚きました。
よく似た構図だと思って、ネガを探してみると、私も姫路駅で写した、こだま型がありました。ただし、私のはモノクロ、撮影年も、その翌年、東海道新幹線開業後の昭和40年で、新大阪発下関行き「しおじ」です。手前は、狭軌記録163km/hのチャンピオンマーク付きのクハ151-3です。「第2富士」は上りで、「しおじ」は下りですので、ホームは違いますが、上のテルハが同じで、姫路駅と分かります。
姫路駅も完全に高架化されてしまい、半世紀前の面影も全くなくなりましたね。
急ぐ時は 在来線に乗ろう
連日掲示板を占領してスミマセン。私の暮らす広島県三原市は山陽新幹線が停車する街なので、それなりの街だろうと思われるでしょうが、こと新幹線に関しては僻地並みの街です。JR西日本に知り合いがいないので、この掲示板に愚痴をこぼすことにします。時々、京都、大津に出かけるときに新幹線を利用するのですが、いつも腹立たしい気分で乗り降りします。九州新幹線開業や当地の乗降客減少もあって、度重なるダイヤ改正ごとに不便さが増しているように思えてなりません。上り下りすべての時間帯とは言いませんが、基本的に1時間に1本しか停まらないのです。例えば下りで例をとると、関西方面から三原に帰るときには岡山か福山で必ずこだまに乗り換えねばなりません。マアこれはよしとしましょう。この乗り換えが問題です。要は1時間に1本しかないので、中途半端な列車に乗ると随分待たねばなりません。大阪からさくら563号で16:31に福山に着くとすると17:22発のこだま749号まで51分待ちです。それではたまらないのでもう1本あとのさくら565号にすると17:03福山着で19分待ちでこだま749号に接続です。こだまは殆どが8両と長くなりましたが、1両に数名という感じです。これで目と鼻の先の三原にさっと着けば良いのですが、17:22に福山を出てノロノロと進み17:31新尾道着、「お急ぎのところ恐縮ですが、17:42の発車まで11分停車します」ということで、少なくとも2本の通過列車を待ち、やおら出発してまたノロノロと備後トンネルを抜けて17:49に三原着となります。営業キロ30.7Kmに27分かかります。表定速度68Kmです。もともとのさくら563号で16:31に福山に着き、山陽本線の465Mに乗り換えれば17:09には三原に着きます。まさに「急がば回れ」の世界です。のぞみの増発で長距離客は速くて便利になる一方でこういうことも起きているわけです。それではと他の交通機関にしようと思っても新幹線に乗るしかないので、苦々しい思いでキップを買います。隣接駅間は特定特急料金ということで福山-三原間だけ乗ると830円となっていますが、特急料金を返してくれと言いたくなります。競合路線の多い関西の私鉄ではかつて優等列車のあいだをすり抜けて走る高加速高減速のスーパーカーやラビットカーなどが次々登場し、サービス低下を抑えようとしのぎを削ったものでした。空気を運んでいるようなこだまに代わって、ロングシートの両開き車でもいいのでMc2両の高加減速ワンマン車を開発しようというようなアイデアは出てこないのでしょうか。15分程度なら座れなくてもいいのです。あるいは山陽本線に急行電車を復活させてくれた方が利用客が増えると思います。最近もうひとつ腹の立つことがありました。三原から確か新神戸以東に行く際に新幹線を往復利用すると三原駅駐車場が72H無料になるサービスがありました。田舎のこととて、駅に向かうにはマイカーか何千円かを払ってタクシーを呼ぶのです。関西に行くときにはこの72H無料(確か3000円分)は有難かったのですが、このサービスがなくなり 新横浜、東京往復のみになってしまったのです。まさに航空機との競争だけを考えて、どうせ他に手段のない関西行きの客は逃げないだろうという匂いがプンプンして気分が悪い昨今です。準特急さま、美しい日本はどこに行ってしまったのでしょう。うら若き女性車掌さんやみどりの窓口の女性に愚痴を言っても始まらないので、掲示板を利用させて頂きました。悪しからず。
無電装63型によせて
けったいな切符
連休明けの一昨日、ライナー券の販売異常に遭遇しました。
青梅ライナーは下の写真右上の磁気券で発売され、中央ライナーも同様の磁気券または右下の携帯かPC利用の予約システムを利用するのが常ですが、朝5時過ぎの予約システム開始直後に携帯で予約しようとすると既に満席との回答です。
仕方なく立川駅の券売機の前に並ぶも、いつもの発売開始時刻を過ぎても「準備中」の表示が出たままです。
やきもきする内に駅員が数名現れ「今朝は発売機がつかえませんので駅員が販売します」と宣まいました。
ここで発売されたのが左側の軟券です。しかもファーストナンバー!(青梅ライナーは3号車が先頭車です)
JRではいろんな事態を想定して準備しているんだなぁと改めて感心しましたが、切符収集マニアにとっては美味しい異変です。
かつてライナーの運転取り止めで払い戻しの経験はしましたが、こんなのは初めてです。
5月14日からスマートフォンでも予約サービスが可能になる由で、その関係で券売機のプログラム設定などが入れ替えられたのが原因ではないかと“勝手に推測”しています。
私は朝錬と称し通勤途上で出逢う車両達の定点観察を行っていますが、立川駅で朝錬(次の写真が撮影対象)したあと、ライナーに乗車すると新宿駅でわずか1~2分の間に観察できる非情に効率の良い朝錬(撮影対象は下の写真)が出来ます。
新宿朝錬は丁度、大相撲の幕内力士による土俵入りを見ている様な感じがします。しかも通勤ラッシュによるダイヤの乱れなどで登場順序が日々変わるのも、程好い緊張感を生じます。
JRの輸送体制
千年に一度とかの大災害が東北地方を襲いました。毎日テレビは惨状を報告しますが、正直、つらすぎて見てはいられません。ニュース大好きの小生もテレビを消しております。こんな事は今までの人生で始めてのことです。そんなときにこんな話を聞きました。
東北本線や奥羽本線は使えるが、電力を止めるのと電圧の低下で電機が使えず支援物資の貨物列車が動かないという話です。実際テレビ画面で見るとEH200の牽くコンテナ列車が止まっていました。
そこでこんな妄想が頭に浮かびました。DD51重連の貨物が十三本木峠を越えていく姿、復活したD51やC61の牽く貨物列車が復旧物資を満載して東北の山野を走る姿を。
不謹慎と怒らないでください。節電を、というなら鉄道の節電が効果的で、それでいて輸送量を保つには過去の遺物とバカにされ捨て去られたDLやSLの再登場があればいいのに・・と夢を見たのでした。
いわき市に住む友人から早朝鶴見に住む息子のところへ疎開すると連絡がありました。黒磯か那須塩原までタクシーで出て行列に並んで列車に乗るとのことでした。「疎開」「並んで汽車に乗る」・・・これもずっと昔に聞いた言葉でした。
ユースで巡った鉄道旅 -1-
昨年末になりますが、地元の新聞で気になるニュースを見つけました。京都にある東山ユースホステルが廃業するという記事で、利用客の減少と建物の老朽化を理由に、40年の歴史を閉じると結んでいます。記事によると、現在、ユースホステルは258軒、会員数6万人、利用客は年間47万人ですが、ピークの昭和47年には585軒、会員63万人、利用客は340万人にも達していたと言います。
昭和47年といえば、ちょうど特派員の大学生時代と重なります。確かに、その当時、大学生の旅行と言えば、ユースホステルしか選択肢はありませんでした。休みともなれば、猫も杓子もユースを使った観光旅行、ユースはすぐ予約で満員になり、ハガキで申し込んでも断られることが多く、スケジュール作りに難渋したものです。
ユースが満員だったり、近くになかった場合、止むを得ず駅前旅館に泊まったこともありますが、高い、汚い、まずいで、いい印象は全くありません。片やユースは、一泊二食で公営450円、民営550円という、考えられないような破格の宿泊料ながら、一部を除いては、設備・食事とも十分に満足がいくものでした。
学生時代といえば、全泊夜行という猛者もいましたが、特派員は体力的な自信がなく、夜行は最大でも連続3泊までとし、その間は必ずユースに泊まるようにしていました。
思い返せば、高校生から始まって社会人に至るまで、実に多くのユースホステルを利用したものと改めて思います。北から南まで、夏も冬も、ユースを基地にして写しまくった若き日々を、写真とともに少し思い返してみましょう。
▲ユースに一泊するたびに会員証にスタンプが押される。今も大事に残している会員証を見ると115泊していることが分かった。100泊記念にもらえるバッジも大事に残している。カメラは、その当時の愛機、アサヒペンタックスSV
撮り納めは、雪の八瀬で
雪を見ると、居ても立ってもいられないのは、この歳になっても変わりません。はやる心を抑えながら、午後から叡山電鉄の八瀬比叡山口まで出かけました。約20センチ、しばらく経験したことがないような積雪です。
八瀬比叡山口駅では、四季を通じて狙ってきたシーンがあります。
ホームから電車の入構を見ると、カーブした大屋根の向こうに、四季の光景が額絵のように広がます。桜、新緑、紅葉と、四季のテーマをとらえることができたものの、雪だけは、何回行っても空振りに終わっていましたが、今日ようやく、それが叶いました。
この一年、まぁ、よく出掛けて写しました。好き勝手に行けるのも、心身ともに健康であるからこそ、この環境に感謝しながら、来たる年の飛躍を誓うのでした。
皆さま、よき年をお迎えください。
山陰線 四条踏切のこと
米手さまがお尋ねの高架前の山陰線四条踏切について、たまたま横が以前の勤務先の本社工場だったため、いくつかの記録を残していました。
▲写真1 四条踏切を行くDF50。 ちなみに四条大宮~西大路四条間に、市電ではなくトロリーバスが走ったのも、この踏切が原因
▲写真2 山陰線高架化の前日、同踏切を行く特急「あさしお」
まず踏切ですが、ウンと以前のことは知りませんが、私の知る限りでは、通常の第一種踏切で、特殊なものではなかったようです。写真1は高架工事が始まる前の昭和48年4月の同踏切で、腕木式の遮断桿が見えます。左に見える塔屋は、この地下を走る阪急京都線の排気塔で、ここを通ると、地下鉄特有の熱気を伴った匂いが漂っていたものでした。写真2は、山陰線高架完成の昭和51年3月16日の前日、最終日の四条踏切で、高架橋が頭上を覆います。その翌日、C11の牽く記念列車が京都~二条間を走りました。
▲写真3 地上の山陰線をオーバークロスする京福のポール電車
▲写真4 高架化前日の様子。この日、一晩で上下が入れ替わってしまう
いっぽうの山陰線高架化による京福嵐山線の処遇ですが、写真3は高架化前の様子。山陰線は地上、京福はその上を越えています。確かに、このまま高架化してしまうと、京福側のクリアランスがなくなってしまいます。そこで採ったのは、京福の盤下げ化でした。写真4は2と同じ高架化前日で、中央の複線の両脇に、路盤が下げられた仮線が見えます。翌日から、この仮線を電車が走り、平行して中央の現在線を盤下げする工事に掛かり、現在見られる関係になりました。
宵山の京都から
北海道余話、ぶんしゅうさんと連携しながら書き進める必要もあり、その調整として、別テーマでちょっと横道にそれることにしました。
きょう7月16日、京都は祇園祭の宵山で賑わっていました。
以前は、電車と祇園祭を組み合わせを写すために、京阪四条駅や、古くは市電四条河原町新京極へよく行ったものでした。
今では、鉾町から離れたJR京都駅で、それをかろうじて叶えることができます。
毎年、烏丸口改札の上に駒形提灯が掲げられ、コンコースに祇園囃子が流れ、祭りへの高揚感を演出しています。
そんな中、今や1往復にまで減ってしまった485系「雷鳥」が0番ホームに到着します。折からの、急な夕立落雷でホームが混雑する中、懐かしい国鉄色はひときわ存在感を持っていました。
▲今年が最後? 485系「雷鳥」と祇園祭