さっそく菱屋・藤田光一さんの次の作品をご紹介します。
なお、写真にはデータが付いておりません。撮影時期や場所は皆様の知識にお任せしますのでおわかりの方は投稿してお知らせください。
今回は国電です。藤田さんによると「飯田線へ行ったときに撮った物」だそうです。時期は聞いておりませんので塗装や風景で判断してください。
↑ これは河様のご解説にお任せしますが豊橋でしょうか?新城行きです。
↑ 同じ駅で写した物と思われますが分かりません。塗装は茶色の基本色。
↑ 藤田さんによると前照灯上の樋の位置がオリジナルより下がっているので改造後とか。そういえばもう一枚の写真とは位置が違った。
↑ 私が見たモハ52は塗装がスカ線色だったように思いますが、どちらが新しいのか教えてください。
↑ これはオマケです。ゆうなぎと言う特急は記憶がありません。でも”こだま型”と言われたこの電車は本当に気品と誇りを感じます。敗戦から十数年でこんな電車特急を創った国鉄に鉄道員だけでは無く全国民が喜びました。鉄道の青春時代だったのです。
↑ 山陽本線の特急だったが、新大阪から下関方面だったのであまりなじみがありませんでした。
これが藤田さんからお借りした国電の写真です。皆様のご投稿をお待ちしています。
ここで場所をお借りして、前回の丹波口編に1900生さんからお尋ねの大阪ガスのタンク機関車の写真を投稿させていただきます。たしか以前に載せたことがありまして、その時湯口先輩からコメントを頂いておりましたが退役時期は書かれていなかったと記憶しております。
これが1900生さんが言う機関車なのかは分かりません。夕方でぶれているため機番が読めませんがお許しください。
米手作市さま
早速に大ガス5号機?の写真をご披露くださり有難うございました。5号機かどうかわからないとのことですが、小生にはもう明確な記憶がありませんから、撮られたのが工場ということであればおそらく小生が見たカマだと考えて差し支えないと思います。5号機以外の機番の記憶がないのと、そう何両も居たとは考えにくいので、小生としては幻の5号機だと思いたいですね。
飯田線の電車については会員のF本氏や河様にお任せしたいと思いますが、小生なりの感想を少々。なお御両氏からコメントがあればそちらを優先して下さるようお願いします。
1葉目を見た瞬間はいわゆる「静鉄色」が退色した写りだと考えました。この色は飯田線の主に快速用車両の塗色で、ちょっと表現しずらいのですが下半紺色窓周り濃いオレンジ色でした。昭和39年に小生が初めて飯田線に乗車した際に、豊橋17時前発の辰野行と途中駅で交換したのを目撃していますから、少なくともその頃までは存在していたことになります。
ところが3葉目の写真には2両目にスカ色が編成されています。ここで前述の静鉄色の根拠が揺らいできました。なぜならその後小生がDRFC現役生だった昭和40年代初めの頃に湘南色に塗り替えられ、更に暫く(数年位?)してスカ色に落ち着いたという記憶があるからです。
ということはこれらが同時期に撮られたのであれば1葉目も湘南色の可能性が大きく、静鉄色の可能性はほぼなくなります。結論が出せず不確実な話で申し訳ありません。
さて「ゆうなぎ」ですが、東海道新幹線開業後に登場した四国連絡宇野発着の特急です。同系統特急としては36.10改正で東京発着の「富士」と大阪発着の「うずしお」が新設されましたが、ゆうなぎは富士のダイヤを立替えて大阪発着とした、いわばうずしおの増発に当たるものでした。余談ですがゆうなぎとは名乗ったものの、運転時刻は上下とも昼過ぎに走る特急で、夕刻にはもう運転を終了していました。
「しおじ」は旅行でご一緒した際にパーラーカーに乗り損ねた(乗せてもらえなかった)憎っくき特急です。
藤田さんは”湘南色”と言っておられたのですが、静鉄色なる色があったのですか?
しおじの思い出はそれに尽きますね!
米手作市様
大阪ガスの貴重な写真ありがとうございます。私が東山区に住んでいた小中学生時代、我が家は料理旅館をやっていて、よく父親について市電に乗って中央市場に買い出しに行っていました。その際チラチラと小さな機関車を見た記憶があるのですが、写真を撮っていません。確か市電の線路が中央市場に入って行っていたような記憶もあるのですが・・・。ところで米手様の写真の小型機はドームが丸いことから1950年日立製の25Ton機 8号機だと思われます。もう1両の立山重工業製の25Ton機7号機とともに、昭和39年に安治川口にあった北港工場へ転出しています。昭和38年に構内火気厳禁となったためディーゼル機関車に置き換えられたようです。1900生殿がご覧になったのが5号機だとすると、5号機は蒸気動車の走行ユニットを戦後 日国工業が機関車に作り直した寸詰まりの珍奇な機関車です。
なるほど「火気厳禁」のせいで転出ですか!ガス工場ですから火気厳禁は当たり前のはずですが・・・
市電の引き込み線は覚えております。七条線が山陰線の下をくぐって上がったところ(新千本通)から分岐して新千本通を構内へ入っていきます。荷物電車で前後にオープンデッキの運転台があり、中央に集電器用の櫓が立っていました。写真は持っていませんが乙訓の長老あたりがお持ちかもしれません。
西村雅幸さま
大ガス5号機の詳細並びに僚機に関する情報を有難うございました。やはり別にSLが居りましたか。同じような時期にお互いが見ていたのですね。実は小生の本家も当時仕出し料理屋をやっていて、一度だけ父の兄の叔父に連れられて中央市場へ行ったことがありました。料理関係の店といい市電の引き込み線といい、後年DRFCでご一緒できたことに何かご縁を感じますね。
市電の中央市場への引き込み線は確かにありました。七条通りの山陰線を潜った西側の七条千本電停から北東に向けて円弧を描いて伸びていました。度々貨物電車が停まっているのを目撃しました。見かけた貨物電車はカーブが終わったすぐ先にいつも停まっていたので、引き込み線はそう奥までは入っていなかったのではと思っています。このへんの情報は米手作市さまがお詳しいと思います。
因みに七条千本電停の西側に市場への出入りと、山陰線下のトンネル部の浸水非常用の渡り線が設置されていました。
1900生様
仕出し料理屋さんのことは知りませんでした。市場への引込線はやはりあったのですね。元田中の叡電への渡り線が残っていたことはしっかり覚えていますが、高野にも変な引込線があったような漠然とした記憶があります。もう半世紀以上も前の夢うつつの世界です。
米手作市様
出ました! かの飯田線ですネ。
小生の知識は1900生様の解説には及びませんが、コメントで参加したいオッチョコチョイですので、一言二言、いやそれ以上?
『静鉄色』と言うか『飯田線色』と言うか、『快速色』と聞いていた塗分けは1900生様の仰る通り窓周りが湘南オレンジ+上下がスカ線ブルーだったんではないでしょうか。
つまり、80系と70系の混合・折衷色と解釈していました。
残念ながら小生は現認する機会を逸してしまいました。
因みに、これは昔の東横線3000シリーズの色と全く?同様だったような。
その後、自身が目撃できたのは52系のみならず転入した快速用クモハ54も湘南色に変更された姿でしたが、程無く今度は快速云々には関係なく全車がスカ色に変身したようですね。
小生に言わせれば『目まぐるしく』変身を繰り返した印象が強く、気付いたら何時も変っていた感じです。(笑)
そんな訳で残念ながら夫々の変更時期(年月日)も全く不明です。
そうそう、更に遡れば当初の快速色は窓周りクリーム+その上下が茶色だったようで、これが関西急電色とどう違ったのかも解明できていません。
なお、米手様より説明についてご指名いただきました1枚目のクモハ42はたしかに豊橋駅ですね。また、2枚目は後位に乗務員扉が無いのでクモハ43でしょうね。
なお、3枚目の雨樋は標準化改造後の姿で、本来は4枚目の張り上げ屋根だったんだと思います。
河様、
ありがとうございます。
それでこの色は湘南色の退色したモノか、静鉄色なのかの判定はどちらでしょうか?
米手作市様
『退色』の件、いみじくも1900生さんも述べておられるように1枚目と3枚目の写真に色に関して整合性のズレがありますので、退色ではないと考えます。
つまり、3枚目の写真に写っているサハ75のスカ色を基準とすれば、先頭車のクモハ52は明らかに湘南色に見えますし、その湘南色は1枚目の写真のクモハ42に共通しているのではないかと思います。
ありがとうございます。
藤田さんにお尋ねしましたら、静鉄色も知っているが間違いなく湘南色だった、との確認を頂いております。