三江線2題

この冬一番の寒波襲来で全国的に運休やダイヤの混乱が続いているようです。1週間前の古い情報ですが、三江線廃止後の心配事が記事になっていました。

平成30年1月17日 中国新聞朝刊

過疎地では鉄道であれバスであれ除雪が行き届かず、代行輸送もままならないのは宿命のように思えます。道路管理者がどこまでがんばってくれるかにかかっているように思えます。

もう一つの話題は、忘れた頃に登場する連載記事で「式敷駅」の思い出話です。

平成30年1月25日 中国新聞朝刊

三江線2題」への5件のフィードバック

  1. 廃線後の雪対策が不安とのことですが、当たり前だのクラッカー!で当然織り込み済みで無ければなりません。今頃何を言っているのか、と言いたくなります。

    窓の隙間に教科書を落としたとありますが、これは降下式窓と言うことでしょうか?現在65才の方が高校時代ですから50年ほど前、昭和43年頃の三江線は降下式窓の客車が蒸機に引かれていたのでしょうか?興味があります。

    • 米手作市さま
      式敷まで開通直後の昭和31年の時刻表によれば全列車が〇気マークのDCで、式敷まで6往復のほか粟屋往復3列車、船佐往復1列車の設定でした。恐らく開通当時からDCで運転されていたのではないかと想像されます。但しDCの形式は不詳です。昭和47年頃に初めて乗った北線は10系DCでした。小生は10系以前のDCはキハ07しか乗車経験がありませんので、例えば04・06系が落とし窓だったのかどうかわかりません。まさかレールバスではなかったろうと思いますが。ご存知の方のご教示を待ちたいと思います。
      なおご参考までに、36.10改正では式敷7往復、船佐1往復、41.10訂補では口羽まで延長開通していて口羽7往復、式敷1往復になっています。

      • 米手作市様、1900生様
        私も落とし窓の件がひっかかっていて、先日発売されたRMライブラリNo.222 長船友則氏著「三江線88年の軌跡」や安芸高田市歴史民俗博物館の企画展「さよなら三江線」の図録にある写真を見ましたが、客車の姿は全く記録されていません。キハ41000、キハ10系、キハ02と後に続く気動車もすべて上昇窓です。ただ一つ気になるのはキハ41000の運転士側の窓だけが落とし窓です。またキハ10系などの乗務員扉の窓も落とし窓です。連結運転時の中間運転台は我々も良く入り込んでいましたからあるいは運転助士席側の窓かもしれません。「座席窓の隙間」はおばさまの記憶違いかもしれません。あるいは落とし窓の客車を牽く蒸気列車があったが、記録に残っていないのかもしれません。これ以上はお手上げです。

        • なるほど、乗務員窓ですか、あり得ますね。私は日よけのヨロイ窓が付いていてそれが落とし窓では無いかと思いました。でもガラス窓が上昇式でヨロイ窓が落とし窓というのもおかしいかとも思っていました。

  2. 西村雅幸さま
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    乗務員室の扉ですか。そこまでは頭が回らなくて盲点でしたね。詳細にお調べ頂き有難うございました。
    確かに臨時で客レが入ったのも否定はできませんが、あくまで可能性の話です。一方ローカル線の通学列車では乗務員室の車掌側は学生のたまり場になっていましたから、やはりその可能性の方が大きいと思われます。

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