小海線合宿のご案内

どですかでんさんが1970年夏の小海線合宿で撮影されたC56149を紹介して頂きました。この合宿記は青信号25号に詳しく述べられていますが、この合宿の案内パンフが手元にありましたので、当時を思いだす意味でご紹介します。なお私はこの合宿には不参加でした。

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当時 旅行班、車両班、写真班、模型班があり 複数班重複もOKだったと思います。毎週水曜日2講時のチャペルアワーに至誠館1階1番教室(S1)で例会があって、このような行事予定の説明や協議、情報交換をしていました。室町ボックスでのワイワイガヤガヤとはひと味違った公式の場という雰囲気だったように思います。いかにも同志社らしいチャペルアワーは今でもあるのでしょうか。

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この合宿は大阪発の夜行列車ちくまで信州入りです。京都からでは絶対に座れないので大阪駅集合。それも「発駅着席券」50円を奮発しての座席確保です。ちなみに信州均一周遊券が学割で3,300円だったようです。

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こうしたパンフや「青信号」「補機」などすべての印刷物はボックスにある謄写版印刷いわゆるガリ版刷りでした。インクで手を真っ黒にして1枚1枚刷ったものです。紙も今ではもう見られなくなったワラ半紙でした。コピー機が世の中に出始めた頃だったように思いますがまだまだガリ刷りが幅をきかせていた時代です。学校の周辺にコピー屋が出現し 友人のノートをコピーさせてもらって便利な世の中になったなと思ったものでした。でもコピーは高価なものでした。DRFCに入会して最初に覚えたのはガリ切りとガリ版刷りでした。ガリ切り名人という人たちがいて、「字書き」と呼ばれる読みやすい字が上手な人、「絵書き」と呼ばれる絵の上手な人に仕事が集中していましたね。特派員氏は「字書き」さんでしたね。ちなみにこのパンフはぶんしゅう氏の文責です。ガリ切りはご本人でしょうか。

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ユースホステルが1泊600円。Y.Hにも公営と民営とがあって公営は規則がうるさく 民営に人気があったように思います。ただ民営は旅館が兼業していたり、荒れ寺であったりでバラツキが大きく、前までたどりついて泊まるのをやめようかと思うようなY.Hもありました。確か三条京阪のバス乗り場に 狭い階段を上ったところに京都のY.H協会の事務所があって会員証の更新に行ったものでした。旅行の計画をするにはまずY.Hの予約からですが、電話は遠距離ほど高くつくのでたいていの場合往復ハガキを出していました。返事が返ってくるまで数日かかり、OKなら良いのですがダメな場合は夜行連泊に変更するなどしたものでした。

このパンフレットを見返しながら、携帯電話もインターネットもコンビニもないあの時代によくぞ全国を歩き回ったものだと40年前を思い出しました。

7 thoughts on “小海線合宿のご案内

  1. 西村様 清里合宿の案内パンフが残っているとは思っていませんでした。ほとんどの人はパンフ計画通り夜行急行の「ちくま」で信州に入ったのですが、私は飯田線で信州入りをして小淵沢で合流しました。合宿終了後はどのようにして帰ったかはっきりわかりませんが再び飯田線に乗ったようです。家の片付けをしていると当時のYH会員証があったので、泊まったYHの印が押されているのでわかるのですが、見つけてからどこに置いたかわかりませんので再び発見できたらどうしたかわかると思います。西村さんも書かれているように「青信号」「補機」の謄写版印刷ですが「補機」は誰でも筆耕させてもらえました。「青信号」は筆耕もでしたが刷り師?もなかなかなれませんでした。まずは紙めくりからの修行でこれも手際よくめくらないと刷り師からご指名がかかりません。紙折りもうまく折らないと製本をした時にページがずれてしまいました。刷り師は原紙の位置あわせ(裏表印刷をしている為)難しく、またインクローラーのインクのつけ方と原紙への押さえつける力加減とローラーを送るスピードもうまくやらないと原紙が破れてしまいます。印刷は180枚前後だったと思います。ひょっとしたら200枚かもしれません。ページ数は私の知っているのは27号の本文208ページが最高でした。全て手づくりで裁断だけ頼んでいました。用紙は俗にいうワラ半紙でなくサンゲスタイプ紙というもので紙問屋から大量に買っていた様です。色は少し茶色をしていたのでワラ半紙と勘違いされたのではと思います。考えてみたらよくやっていたと思いますが、とにかくしんどいが面白かったです。そして清里の次の年に行われた夏期合宿は飯田線温田と阿仁合線という当時としたら非常にマイナーなところで行われました。

  2. どですかでん様
    早速のコメントありがとうございます。「筆耕」という廃語を忘れておりました。「サンゲスタイプ紙」そうでした。よく覚えておられましたね。原紙やインクはバンコでしたね。修正液もありました。刷り方、折り方にもコツがありましたね。表紙を付けて裁断されて出来上がった「青信号」。通し番号が入り、手に取ったときの達成感は格別でした。手元にある「青信号」は紙こそ黄ばんでいますが、各号ともしっかりとした「本」の姿です。当時のことを調べるのに「青信号」の記事は何よりの確かな資料です。よくあれだけのものを手作りしていたものだと今になって拍手を送りたい気持ちです。ところで近江鉄道を撮りに沿線を巡ったとき、東近江市蒲生岡本町に「ガリ版伝承館」といういかにも明治時代の建物にでくわしました。残念ながらその日は休館日でしたが、この地の出身者である堀井新治郎が明治27年に謄写版を発明し、東京神田で堀井謄写堂を立ち上げたとありました。確かに画期的な印刷方法で一世を風靡したのもうなずけます。キーボードをたたけばどんな漢字でも出てくる便利な時代ですが、誤字がないように辞書で確認しながら「筆耕」したものでした。字を見れば誰の字かもすぐわかったものです。なつかしい話をありがとうございました。飯田線温田合宿は私も行きましたので、当時の写真を見てみることにします。ED19やED26が印象に残っています。

  3. 懐かしい案内パンフをご掲載いただきましてありがとうございます。確かに私のガリ刷り原稿です。あの頃はよく清里に行っていました。青春の日々が思い浮かびました。
    ただ今、ダブルデッカーエキスプレスがすぐそばに走る、ドライブイン駐車場にて熱燗をしながら野宿中です。明日はこのまま清里へ走ろうかと思いました。

  4. 小西様
    一体どこにいらっしゃるのですか?夜は結構冷える今日この頃です。酔いが冷めぬうちに夢路についてください。お休みなさい。

  5. ガリ切りと言ったように思いますが、ヤスリと鉄筆の心地よい音と原稿用油紙の感触を思い出しました。牢名主のようなY先輩の罵声を浴びながらカリカリと筆耕したのを昨日のように懐かしんでおります。
    ところで「修正液」の話が出てきましたが、修正液はボタ落ちが多くて、その上に訂正文字を書くのは難儀でした。そこで蝋燭をこすりつけておいて、その上にマッチを擦って吹き消して、すぐに近づけると蝋が溶けて薄く広がり、ほとんど元通りになって上書きが楽にできる技を使っていました。誰かに教えてもらったのか覚えていませんが熟練工になった気分がしたのでした。
    懐かしい話題をありがとうございました。

  6. ガリ切り、ヤスリ、謄写版、四国原紙、坂田インキ、堀川謄写堂、3,4、5ミリ方眼、雑誌罫、鉄筆各種など、すべて思い出しました。老人には10歳から43歳まで密接な関係にありました。小学校4年の時、担任の先生から手ほどきを受けました。それは「は組学級新聞」を発行するためでした。トップに掲載したのはクラスメイトの身長、体重発表です。中学2年の時に「は組クラス同窓会」を開催したのですが、それを持ってきた女の子が居り、「4年間でこれだけ背が伸びた」と言ってくれました。その子はチビッコでしたので、自分の成長振りをみんなに披露したかったのだと思います。今もうれしい思い出です。担任の先生は読めない字を書く老人を、読める字が書けるように矯正手段として、ガリ切りを命じたのです。その後、小学5年から高校3年卒業するまで新聞部に席を置いておりました。その時代に、実兄の大学同級生が北大路堀川上る西入る「片桐軽印刷」でガリ切りのアルバイトをしており、ヤスリ、原紙の種類、鉄筆(硬筆が正しい)の種類と使い方などを教えてくれました。高校時代は学校の道具を使い、クラスメイトに教わったことを伝授してクラス新聞、文集作りに邁進しました。
    さてDRFCではどうであったか、発足(1958年)半年、秋の例会で1年上(3回生)重沢君が会誌を作ろうと提案、高橋正雄君と私が賛同、重沢、沖中の所持するヤスリと鉄筆でガリガリが始まりました。印刷、これは重沢、沖中に心当たり有りで、同志社本部(有終館)庶務課勤務の大西友三郎(後の顧問)氏に話しに行ったところ、いとも簡単に「ああいいよ」といって有終館地下の謄写版(インクとも)貸してくれました。紙は沖中のバイト先の向かい「紙泉堂}、原紙は河原町荒神口の文具兼謄写用具販売店(名が思い出せない)で調達しました。大西さんは松本模型店を通じ両名が知っておりました。その後、謄写版は京都鉄道同好会の中古品を頂きました。これらが揃ったときに「鬼編集長」が登場です。それが「須磨の大人です。1959年から青信号は大変身しました。ヤスリや硬筆も兄の同級生のお下がりを活用しました。こうして1957年度生は10号を後で作るといって社会人になってしまいました。残った皆さんは「青信号」を引継ぎ育ててくれました。「青信号」の命名者は言いだしっぺの旦那コト重沢君、手を上げた2人の内、1956年度高橋君はマルーンの台車とともに手の届かないところに行ってしまいました。
    「青・3号」以後については鬼編集長の出番である。よろしく!

  7. C56が思わぬ方向に走り出しましたが、青信号草創期の様子を初めて知りました。デジ青のルーツをたどる旅が更に続きますように。

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