宇都宮LRTについて

今朝の中国新聞朝刊を見て、宇都宮にLRTが建設中であることを初めて知りました。

2020-5-9 中国新聞朝刊

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今朝の水鏡

仕事も5月末まではテレワークとなり、昨日は打ち合わせもあり東大阪まで出掛けてきました。行きはいつもの乗車率の半分くらい、5200のクロスシートでしたが立ち客が居るにも関わらず、鶴橋到着まで隣には誰も座ってこられませんでした。帰りはいつもの7割くらいの乗客数です、エアコンは換気しているし窓は開けられているので「密室」とはならず多少は安心して乗っていられます。ただ特急の車内に人影が殆んど見られないのは寂しい限りです。こんな状況ですが通勤途中眺めていると、赤目口はまだ田んぼに水も張られていませんが美旗~名張間ではそれなりの場所がありました。名張市内での行動ですので許してもらえるでしょう。桔梗が丘から名張寄りに10数分の場所です。「ひのとり」も来ましたがこの「赤」はなかなか綺麗に出ないです、腕のせいもあるでしょうが。

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 新緑に浸る ~早く外で撮りたいょ~ ③

水鏡を求めて

この時期、新緑とともに、沿線で写材を提供してくれるのが“水鏡”ですね。先ほど、WAKUHIROさんからもコメントで、近鉄沿線では水鏡が見られることレポートしていただきました。水を張った水田などに車両が映り込み、条件が良ければ、シンメトリーな上下像ができます。ただ新緑に比べると期間限定で、どこでも見られるわけではなく、水鏡となる条件もあって、なかなか遭遇できません。私もまだ完璧な水鏡に出会ったことはありませんが、それだけに、この時期にぜひ撮りたいテーマのひとつです。
今まで、保存蒸機の動態運転についてぱ、自分の意志では行ったことがないものの、人に誘っていただいて何回か行ったことがある。この時もTさん親子とともに、クルマに乗せてもらい、「北びわこ」を撮りに行った日だった。まず運転当日に梅小路から回送されるC56を撮りに、東海道線安土~能登川の水田の横へ向かった。この日のC56160を牽引したのは「特別なトワイライトエクスプレス」運転用にトワイライト色に塗装変更されたばかりのEF65 1124だった(以下2016年5月)。

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昭和の電車 改訂版(71)ー大阪市電751型ー

この画は、ちょうど私が産まれた頃の大阪の風景です。
千日前にあった店から、両親が命からがら逃げてくれたお陰で今日の私があります。幾度となく聞かされた三月の空襲。逃げ込んだ大劇から這い出たときに見た数時間前とは真逆の地獄絵。その恐ろしさを追体験したのが阪神淡路大震災直後の三宮でした。聞こえるのは鳥の声ばかり。時折遠くから響くサイレンの音。見えるはずのない海が見えたこと。みんな聞いていた大阪空襲と重なりました。

 新緑に浸る ~早く外で撮りたいょ~ ②

近鉄特急を新緑のなかで撮る

“新緑めぐり”続けます。新緑の撮影は、デジカメならではと思います。フォトスタイルを「ヴィヴィッド」や「風景」にするだけで、あざやかな新緑になりますから、便利になったものです。近鉄大阪線については、WAKUHIROさんらから、季節感あふれるレポートを拝見しています。大阪線の勾配区間へは、依頼された単行本の撮影もあって、私もよく行きました。最初に行ったのも、季節も今ごろの暑いぐらいの日で、乙訓の老人さん、本を執筆中のTさん、東京から来られた準特急さん、4人で三本松駅に集合して、室生東小学校横の大築堤へ向かいました。三人とも、いずれ劣らぬ博識をお持ちの方ばかり、口角泡を飛ばしての電車談義の賑やかなこと、改めて調べるともう20年も前のことで、懐かしく思い出しました。その後も、また近鉄関係の本の編集・撮影することになり、集中的に三本松付近を訪れることになりました。“特急のイメージが大きく変わります”と会社のリリースが出て、汎用特急の新色が出始めた頃でした(以下2016年4月)。
当時はまだ当たり前だった、汎用特急の旧色も、新緑バックによく映えていた。

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924レ はやたま号

はやたま号には、昭和58年の3月と8月、2度乗ったことがある。といってもオハネフ12の寝台車ではなく座席車だけだったが。この頃、国鉄では鈍行列車で寝台車を繋いだ夜行列車として、この、はやたま以外にも、からまつ、山陰、ながさきを運行していたが、はやたま以外は乗ったことがない。昭和50年代の終わりにあれよあれよと無くなってしまった。後のブルートレインもそうだったが、そのうち乗っておこうと考えていたものが、消えるときはあっという間に消滅する。後で悔いても仕方ないのだが、今もってその教訓?は活かせていないような気がする。最後尾のオハネフ12

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 マシ29の輪に 入れてください

準特急さんのマシ29 2を連結した「玄海」、惚れ惚れするような編成ですね。優等列車にWルーフ、三軸台車の客車が連結されていた例は、この昭和40年代では「玄海」だけだったのではと思います。しかも前後は10系客車というのも愉快です。私も一度だけですが、マシ29 2を撮っていました。高校2年生、初めての向日町運転所(当時)に恐る恐る入って行った時で、「玄海」の仕業を終えて、妻面を見せて休んでいました。冷房を備えているスシ37・47がマシ29に改称され、二重屋根車は0番台1~4となったが、昭和40年代に生き残っていたのは、向日町運転所のマシ29 2だけだった(昭和41年4月)。

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老いたるものに過ぎし日の思い出を・・

準特急さんと行った尾久機関区で撮ったEF57(宇)EF571を探したけれど見つからなかった

ありがたいことに客車の話で持ちきりとなっています。
過ぎ去ってしまった思い出に浸っておりましたが、血が騒ぎました!

古い写真をあさって、ここで話題になっている旧型客車を探し出しました。
酒の肴にしてさらに盛り上がれば、前立腺沿線の肥大前駅の団地にお住まいの方も参加してくださるでしょう。

解説は書きませんので皆様の思い出話を思う存分書き込んでください。

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 新緑に浸る ~早く外で撮りたいょ~ ①

新緑の保津峡で

“出口戦略”が示されたとは言え、まだ外出自粛は続きそうです。この時期、気が付けば新緑の真っ只中、撮影には一年を通じて最適の季節です。こんな時に限って、外は晴天が続き、カメラを持って飛び出したい衝動に駆られますが、グッとこらえて、家に籠もってスキャン三昧の毎日です。ならば、せめて新緑の頃に出掛けた、思い出のシーンを綴ってみようと思い立ちました。クローバー会の活動でも、昨年の天竜浜名湖鉄道、一昨年の明知鉄道と、快晴に恵まれた新緑の頃の撮影旅行ほど、心動かされる季節はありません。桜など“花もの”に比べて、十分な撮影期間があり、連休期間以外では、人出も少なく、とくに高齢者にとっては、自分好みの期間、場所が選べたもので、好んで各地へ出掛けたものでした。新緑まぶしい保津峡を渡って行く287系「きのさき」、ちょうど保津川下りの船と出会う(2015年5月、以下同じ)。

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マシ292

温かい大阪通信員さんのコメントをいただきマシ292を探してみました。冬の陽で影が映ったりしてあまりいい写真ではありませんが、当時は夢中で撮ったものです。

「玄海」! いい響きですね。向日町付近で撮って京都まで国電で追っかけたものです。1967年12月の撮影です。▼

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45年前のゴールデンウイークのこと

 準特急さんの「最後のころの旧型客車」にあったEF57牽引の津軽の写真を見て思い出したのが45年前の1975年のゴールデンウイーク。勤め人になっての最初の連休なのでK君が東北の私鉄めぐりを・・・ということで上野発の夜行列車に乗ることになったのである。ところが予定していた列車はえらい混んでたので臨時の夜行急行津軽に乗ることになった。やって来た臨時夜行急行津軽を引っぱっていたのは・・・

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最後のころの旧型客車

旧型客車は10系までのことのようですが、熱烈な客車ファンの中には43系までが伝統的な旧型客車だと言われる方もおられます。43系はかつての国鉄型客車を集大成したもので外観を含め魅力的であることに全く異論はありません。10系はスイススタイルとも言われ外観などが43系とは大きく異なっています。しかし、私は10系と43系が混在した所謂急行客車列車が好きでした。特に夜行となると寝台車や食堂車を連ねてそのデコボコした編成に急行らしいものを感じたものです。これに対して昼行急行列車は編成がそろえば綺麗ですが、へそ曲がりの私は3軸の食堂車やオシ16、オシ17、リベット付きのスハネ30、スハネ16、スロ54等ごちゃごちゃした編成が案外よかったと思っています。写真2枚を用意しました。

昼行急行の立山(撮影地田村1964年3月19日ED301牽引富山行き)と津軽(撮影地白岡ー蓮田1966年12月30日EF578牽引上野行き)

昭和の電車 改訂版(70)ー広島電鉄1040型ー

広島は父の故郷と言うことで、小さい頃からよく行っていましたが、それは北部の県境地域で、南部の県都・広島市は中学に入ってから初めて行きました。それも広一や広転のC62・C59狙いなので広電には乗ったことはもちろん、見たこともありませんでした。(西村さん、ゴメン!)
今となっては残念至極です。

2012年7月に藤本さんの解説が投稿されています。

広島電鉄の改造連接車

 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線㉑

伏見・稲荷線を送る 昭和45年3月31日

伏見・稲荷線は、前回の「中書島」で終わる予定でしたが、改めて、ネガを調べてみると、最終日の送別式の様子をかなり撮影していることが分かりました。式は京都市の主催で、京都市長、交通局長も出席した盛大なものでした。その後に行なわれる京都市電の廃止最終日は、世論も考慮して、ささやかなものとなり、その意味でも、記録に残しておくこともありかと思い、最後に紹介します。

中書島で最終電車を待っていると、DRFCのヘッドマークを掲げた501号が、待ち受ける市民の前に姿を見せた。

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