昭和の電車 改訂版(253)ー南海電鉄2001系ー

これも前回は反応薄でした。南海ファンよ、奮起せよ!

2001型とペアを組むのがクハ2801型ですが、写真がありました。
京都島原の老舗、うすばねで有名な菱屋の藤田さんが撮っていた写真にあったので貼ります。

 ほぼ同月同日 50年前のあの日に還る 〈2〉

東北編① 2月3日(木) まずは只見線へ

(2/2)京都駅14:00→名古屋駅16:22 名神高速バス210便

名古屋駅17:00→東京駅22:40 東名高速バス124便

東京→上野

上野23:50→会津若松5:08(遅れ5:40着) 急「ばんだい5号」「ざおう3号」クモハ455-9

会津若松7:47→滝谷9:26 425レ オハフ61 2169

滝谷13:35→会津川口14:23 429D キハ45 505

会津川口14:27→会津柳津15:20 432D キハユニ26 41

(春江荘Y・H泊 一泊二食650円)

東京までは名神・東名の高速バス、均一周遊券で乗れる急行が、東海道線では「桜島」「高千穂」だけになり、高速バスは有効な移動手段だった。▲▲上野からの急行は30分以上遅れて会津若松に到着、すぐ接続の只見線列車に乗れず、ED77 1牽引222レなど写して時間調整。

只見線425レは会津坂下で8分の停車、車内から驚くほどの高校生が降りてきて、たちまち列車の前を埋め尽くした。坂下には、高校が3校あって、駅は時ならぬ高校生ラッシュ、これは現在も変わらず、最近も只見線へ向かわせる動機となった。

 

 

 

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 ほぼ同月同日 50年前のあの日に還る 〈1〉

はじめに

「市電」はしばらく休んで、また「50年前」シリーズを続けます。今回は、「50年前のほぼ同月同日」シリーズとしました。50年前の昭和47年のことを振り返りますと、市電四条線などの廃止を見届けたあとは、学校の授業は、全学封鎖のお蔭ですべてなくなり、卒業試験は全部レポートに変わり、難なく卒業が決定、あとは入社式を待つのみと言う、趣味人生で最大のチャンスを迎えていました。もう出掛けるしかありません。同年の2・3月には、東北(2/2~2/10)、信州(2/18~2/24)、北海道(3/12~3/24)、ほか近隣へ、計31日に渡って撮影旅行を続けます。

この期間に使った均一周遊券、東北-15日間有効、6000円 信州-7日間有効、3300円 北海道-20日間有効、7040円(いずれも京都発着、北海道は冬期2割引き料金)。鉄道ピクトリアルの今号に均一周遊券の詳しい解説がされている。この時期の表紙には、地域の郷土玩具が描かれているのは知っていたが、バックの白抜きは「しんにょう」であり、これは「遊」の字をデザイン化したものと初めて知った。

当時の国鉄は、幹線ではほぼ無煙化が近づいていたものの、まだ蒸機は1601両(昭和46年4月)が残っていて、それに呼応して、空前の“SLブーム”が起きています。また一般の旅行も、万博後のDISCOVER JAPANの浸透で旅行客が急増、旅客需要もさらに拡大、ダイヤ改正ごとに、優等列車の新設、列車増発が続きます。趣味者にとっても国鉄にとっても、希望のあふれた時期でした。

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2022年新春初旅は、ローカルバス乗り鉄旅 Part2

第2日目 1月8日

朝6時には起床、内湯の岩風呂に入浴して眠気を覚ましました。持ってきた温度計で外温を計測するとなんとー6℃です。コロナ前には中国ウルムチに毎年行っていましたのでー20℃以下はいつも経験していましたので大したことはありませんが久しぶりのマイナス外温です。紀州山地は京都より冷え込むようです。

 

部屋から見える十津川温泉の中心地です。山間に静かに朝がやってきた雰囲気でした。

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立体交差化工事中の阪急上新庄駅付近

2021年7月11日付「昭和の電車 改訂版(192)ー阪急2800系ー」https://drfc-ob.com/wp/archives/125554#comments

のコメントで、上新庄駅の地上駅時代と高架後の写真が披露されました。それに関連しまして、立体交差化工事中に撮影した何枚かをご覧にいれます。1974年4月24日の撮影です。列車はできるだけ2800で揃えました。

1.在来線に沿って東側に仮線を作り、旧線を立体交差化しました。旧ホームがあった北寄りに、内環状線を跨いで新高架ホームを作っています。この時点では高架新線はまだ片側(京都行)しかできていません。2817他梅田行特急。

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 市電が走った街 京都を歩く 四条線⑦

四条京阪前 ②

「四条京阪前」で京阪電車と交差する。当時は遮断機もなく、交通信号と警手の笛だけで行き来していた。京阪電車のすぐ横を、歩行者が横断していった。

「四条京阪前」の北側には京阪電車四条駅、南側には南座があります。四条河原は、出雲の阿国が舞った踊り、つまり歌舞伎の発祥地と言われ、南座は、公認された踊りを舞う劇場として、その歴史をいまに伝えています。明治時代に北側にあった北座もなくなり、南座だけが、歌舞伎の発祥地に残った唯一の劇場です。昭和4年に由緒ある桃山風破風造りの豪華な劇場を竣工させて、京都の代表的な劇場として、多様な演目を採り上げて来ました。とりわけ歳末の吉例顔見世興行は、一度も絶えることなく続けられてきた京都の年中行事です。

そして眼前からは、警笛の音が聞こえて来ます。四条線と京阪電車が平面交差していて、四条線の開通は大正元年、京阪電車は最初に五条まで開通し、三条まで延長されたのが大正4年、以来、京阪電車と市電の平面交差が60年近く続けられて来ました。市電が消えて、京阪電車が地下に潜って、川端通が拡幅されて、すっかり付近の様相は変わったものの、改修された南座、菊水ビル、東華菜館など、また四条大橋から見る右岸の街並みなどには、50年前と変わらない風景があります。これも京都ならではと言えるでしょう。

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 市電が走った街 京都を歩く 四条線⑥

四条京阪前  ①

急行運転がはじまった午前7時過ぎ、街には朝陽が射し込み、そのなか、1系統の赤い系統板がいっそう映える。背後の四条京阪でも人の波が。

祇園を出て、四条線に入ると、そこは祇園の繁華街のど真ん中。一力茶屋の赤いべんがら色の土塀が続き、いまも四条通にその歴史を映しています。花見小路は石畳になり、無電柱化されて、風情のある通りに改修されましたが、当時は変哲もない通りで、馬券売り場へ向かう無彩色の集団が黙々と歩いている通りでした。繁華街はなおも続きますが、鴨川から西の四条通と明らかに違うのは、いかにも祇園らしい、伝統的な食材や小物を扱う店が多いことです。一昨年の冬まで、インバウンド観光客が押し寄せ車道まで人がはみ出すほどだった四条通ですが、先ごろの写真展で、一週間、朝晩、この付近を歩きましたが、信じられないほどの閑散ぶりで、いまとなっては、あの異様な混雑ぶりが懐かしくもあります。やがて市電は「四条京阪前」に到着です。一力茶屋のある花見小路通を過ぎて行く。▲▲門に「節分」の文字が見えるが、市電は節分を待つこと無く、1月22日に廃止されている(昭和47年)。早朝の四条通、人もクルマも少ない祇園を発車し四条京阪前へ向かう7系統。

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2022年新春初旅は、ローカルバス乗り鉄旅 Part1

コロナ感染者数が全国で 2,452人と終息に向かっていた昨年12月4日にいつも中国ナローゲージ鉄賂への訪問お誘いを受けております一路順風さんから「ちょっと面白そうな路線バスの乗車イベントがあります。家内と行こうと思っていたら『興味がないのに長時間小さな路線バスに乗り詰めなのは耐えられない。』と、断られてしまった。代わりにご一緒いただけませんか。ぶんしゅうさんと一緒なら積もる話もありますので長時間の乗車は苦になりません。いかがでしょうか。」とのご要請を受けました。

面白そうなイベントとは、全長169.8㎞、高速道路を使わない路線では、日本一の走行距離を誇る路線バス『八木新宮特急バス』の乗車です。
ちょうどこの時期には十津川温泉の対象の宿に宿泊するとバス往復の運賃 6,900円が無料になるというキャッシュバックキャンペーンが開催されていました。
子供たちが幼少期、毎年正月明けには新宮に近い川湯温泉の大塔川河原に設けられる冬季限定の大露天風呂「仙人風呂でのキャンプ生活を恒例にしておりましたので途中で通る十津川温泉に一度は宿泊したいと思っていました。勤務時代は十津川村はクライアントでもありましたので年に2~3回は訪問していましたが宿泊の機会はありませんでした。マイカーや社用車では来ておりましたがこんなに長い路線バス乗車の経験はありません。今は暇だしコロナ騒動も落ち着いてきた様子なので行ってみるかと即決OKを出しました。

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昭和の電車 改訂版(251)ー大阪市電1001型ー

京都市電に続いては大阪市電1001型です。

2018年の初回投稿時には車両を差し置いて、バックに描かれているOSミュージックに関するウンチクが書き込まれ、品位が崩れた苦い思い出があります。
今回は“絶対に”書き込まないでください。“絶対に”ですぞ!

井原さんの投稿です。

私も撮っていた阪急東口

前回の投稿

大阪市電1001型