もう1枚、米国で入手した記録をお目に掛けます。424号です。尻切れトンボになっているのが残念、でも、車輛の形態は、よく判ります。ガラス不足で、板張りになった窓が、戦後を感じさせます。この写真は裏に”Stephen D. Maguire”のゴム印があります。この人は、電車ファンとして米国では知られているが、来日したと云う話は聞かないので、所蔵(旧蔵)者かもしれません。場所、時期とも不明ですが、山容から布引辺りのように、思われます。時期は、前期のガラス事情と車番より、昭和20年代前半かと。この424号も、昭和25年の改番で、404号となりました。
昭和43年4月20日、三宮駅前の350です。
イラストの400形は、探しましたが、撮影していませんでした。
昭和38年6月時点で、300形(昭和6年、木製車の車体新製)は、301~356の56両、400形(昭和7年、同)は、401~418の18両在籍していました。
同じ頃、横浜市でも単車が健在で、東西の港町で単車の活躍を見ることができました。
藤本哲男さんより横浜にも単車が多くいたことが説明されています。本来は神戸の話のことで恐縮ですが、当時横浜に多数いた単車のうち500形を添付します。ダブルルーフの400形と600形も撮っておりますが、多分皆さん興味がないと思いますので1枚だけ用意しました。このトンネルは根岸線の石川町から元町商店街に向った所の直ぐ右手です。
昭和43年4月20日、湊川公園西口、717です。
イラストに描かれている700形です。
昭和39年12月23日、三宮駅前、115です。
解説文中の元大阪市電800形の100形です。
昭和43年4月20日、須磨駅前付近、217です。
同じく解説文中の元大阪市電900形の200形です。
乙訓の長老様から預かった写真の中に、神戸市電が2枚だけありました。単車では無いボギーの大型ですが、せっかくの記録ですからここにご覧頂きます。撮影場所や撮影日時の記載はありませんので、お考えください。
580号と916号
撮影場所は須磨駅前です。580に丸窓がありますので、更新前です。ただ更新が昭和33年から37年にかけて行われ、580の更新時期が特定できませんので、昭和37年以前としか言えません。
紫の1863さま
ご投稿に気づかず、被ってしまい失礼しました
系統番号から大体の見当をつけ、本で似たようなカットを探すと「須磨駅前」が見つかりました。
後ろの架線柱は山陽電鉄のものですね。私は神戸の地理に疎く、国鉄かと思っていました。
これで、良く判りました。ありがとうございます。
市電屋根の後方、小高いところに架線柱みたいのが写ってます。おそらく山陽須磨駅で、場所は須磨駅前ではないでしょうか?
紫の1863さん、宇都家さん
ありがとうございます。さっそく記載しました。
もう一枚は916号と551号
400型の写真を探してみたが、見つかりません。しかし皆さまが各形式の写真を見せて下さるし、関先生も「700型を無視することは許されないだろう」とおっしゃっているので、取上げてみます。宮松コレクションに素晴らしい706号の写真があるのです。ご覧ください。昭和13年3月22日、須磨車庫での撮影です。
前掲の706号は、形式写真と同時に、クロスシート装備の車内も記録されています。700型は、今でも唯一705号が復元され保存されているようですが、この写真と復元車のシートを較べると取っ手の形態が異なっています。しかし、戦前にこんな路面電車があったなど、夢のようです。今だって、転換クロス装備のLRVなんて無いのでは。
宮崎繁幹さん、
これは転換クロスなのですか!
でも通路は通りにくそうですね。今なら一人掛けのところがロングで、二人掛けが一人用と言うところでしょうか。
こんなシートに座ったら、もったいなくて途中で下車出来ず、終点まで行きそうです! 700型の正面上部には、方向幕表示窓とその隣に、経由地を表示する窓があります。706号の写真から、その部分を拡大したのがこの写真。「松原を経て」とある。普通なら「松原経由」と端的に記すのでは。「松原」は、もちろん電停名か、経由地でしょうが、こう書かれると白砂青松の地を通って、観光させてくれると勘違いしそうです。実際の終点はどこか? 残念ながら、方向幕の表示は、漢字2字は判るが読めません。
乙訓の長老様の撮られた「580号」の表示は「松原経由」となっており、行き先は「三宮◯」(たぶん驛)と書いてあります。
神戸大丸前に展示されていた705です。1971年3月9日の撮影です。6階催場で3月14日(日)まで開催されていた「さよなら神戸市電展」の客寄せとして置いてあったようです。今は名谷にいるのでしょうか。
昭和43年4月20日、湊川公園西口、581です。
この時点でも、500形の未更新車があり、更新されることなく廃車されました。
昭和46年3月14日、板宿、575です。
18両が車体更新で前中扉になり、事故で廃車になった1両を除きワンマン化されました。
廃止後、全車両が広島電鉄に譲渡され、現在も1両現役で残っています。
昭和43年4月20日、須磨駅前、604です。
昭和43年4月20日、須磨駅前、901です。
中央の4枚折戸は、締切扱いになっています。
因みに京都の3扉車も中扉を締切、大阪は後扉を締切、名古屋と横浜は、中扉を車掌扱いの自動扉にして乗車専用として活用しています。名古屋は後日ワンマン化の際、後扉を締切にしています。横浜はワンマン化されることなく廃車されました。
このスレッドでは、多くの神戸市電が紹介されましたが、お題の400型は1枚も登場しませんでした。これでは寂しいので、小生のコレクションを徹底捜索したところ、忘れていた写真も含め何枚か発見したので、遅ればせながら、お目にかけたく存じます。一番旧い記録が、この絵葉書でした。瀧道の分岐点に418号が停車中、後ろの電車は422号のようです。大きなビルは阪神の瀧道駅で、神戸市内地下化のため、昭和8年6月17日に廃止された由。400型の登場とほぼ同時期です。従いこの絵葉書も、昭和8年頃の情景なのでしょう。神戸市電の架線単線化は、昭和19年のことなので、未だダブルポールです。神戸の複線架線は他都市に較べ間隔がやや広いのが、正面から見たこの絵では判ります。なお418,422号とも、戦災に遭い戦後まで残らなかったようです。
2枚目は、三ノ宮駅前の442号です。印画が大分痛んでいますが、お許しください。何せ『省線』三ノ宮駅ですから。撮影は、恐らく昭和21年と思われます。既に単架線になっています。撮影者は、Frank DeGiacomoと云う米兵で、終戦後に神戸に駐留された方です。35年ほど前、小生が米国駐在のとき、譲って頂いたものです。400型は戦前58輌もあったが、戦災で多くが失われ、昭和25年に間を詰め改番し、401~421号となります。この442号は、412号となったそうです。
もう1枚、米国で入手した記録をお目に掛けます。424号です。尻切れトンボになっているのが残念、でも、車輛の形態は、よく判ります。ガラス不足で、板張りになった窓が、戦後を感じさせます。この写真は裏に”Stephen D. Maguire”のゴム印があります。この人は、電車ファンとして米国では知られているが、来日したと云う話は聞かないので、所蔵(旧蔵)者かもしれません。場所、時期とも不明ですが、山容から布引辺りのように、思われます。時期は、前期のガラス事情と車番より、昭和20年代前半かと。この424号も、昭和25年の改番で、404号となりました。
漸く関先生の絵と同様の形態になった、419号です。昭和34年9月、原田での撮影と裏面に記載がありますが、撮影者は不明です。神戸市電の集電装置が、全車ビューゲル化されたのは、昭和26年3月。更に、この写真では架線がカテナリーになっています。藤本さまの写真を拝見しても、神戸市電はかなりの区間で、そうなっていたのでしょうか。なお419号は、改番時も旧番号をそのまま引き継いだようですが、撮影の翌年、昭和35年には419~421号は、他の400型より一足早く廃車となった由です。
でわ最後の1枚を。昭和34年10月に、王子動物園(電停)辺りで撮られた412(旧442)号です。脇に見える立派な建物は、関西学院の旧チャペルで、今もあるとか。並んで走っているダットサンのタクシーが、懐かしいです。神戸のことは知りませんが、この頃東京では、タクシーが大・中・小型の三区分で、対応する初乗料金は、80・70・60円でした。中型・70円は、最も台数が多く、殆どがこのダットサンでした。
宮崎繁幹さん、
ありがとうございます。
こんな写真をアメリカまで持ち帰った方がいたのですね。
おかげで貴重な記録を見る事ができます。