昭和の電車 改訂版(192)ー阪急2800系ー 投稿日時: 2021年7月11日 投稿者: 米手作市 これは多くの書き込みがあると思います。 関連記事: 昭和の電車 改訂版(188)ー名鉄モ510型ー 昭和の電車 改訂版(183)ー近鉄“幻の「しまかぜ」ー 昭和の電車 改訂版(160)ー阪和電鉄モタ3000ー 昭和の電車 改訂版(102)ー近鉄モ5621ー 昭和の電車 改訂版(70)ー広島電鉄1040型ー 昭和の電車 改訂版(51)ー神戸電鉄300型ー 昭和の電車 改訂版(33)ー京王帝都デハ2110型ー 昭和の電車 改訂版(20)ー阪和電鉄モタ303号ー
学生時代、大阪へ行く際利用したのはこの阪急2800系特急か京阪の1900系特急でした。 阪急は大阪へ39分がキャッチフレーズ!時たまロングシートが来るとがっかりしたものでした。冷房がない時代、窓を開けて走る夏は高速走行のため走行音が高かった! BOXでやれ阪急や京阪やと阪急の走行音以上の喧噪が思い出されます。剛の阪急、柔の京阪というところでしょうか1? 大宮で「次は大阪の十三まで止まりません」、十三で「次は京都の大宮まで止まりません」というアナウンスも懐かしいですね。 返信 ↓
通学では大阪・京都間を阪急、国鉄、京阪を代わる代わる利用していました、この中で最も多く利用していたのが阪急で、京都市内での学校までのアクセスが便利だったこともあります。大阪へ帰る時は烏丸から一旦河原町まで折り返し、ホームの乗客の冷たい視線を浴びながらクロスシートを転換させてそのまま座って帰っていました。今となっては2800を見ることも出来ませんが模型で懐かしんでおります。 返信 ↓
S.N様より投稿 いつも見て下さっている東京のS.N様から現役時の2800特急の写真を頂きました。 さくらカラーのカビ除去に手間取ったとのこと、ありがとうございます。 さて、撮影場所はどこか分かりますか?1971年(昭和46年)9月8日の撮影です。 返信 ↓
米手作市様、 正解ありがとうございます。小学生頃(?)の記憶なので曖昧ですが、上新庄駅は新幹線の高架下から北陽踏切のカーブ区間にあったような記憶があります。高架工事の関係で移動していたのでしょうか?。それとも、私の脳が壊れてきているのでしょうか。
私なりに少し調べてみました。 交差化工事は昭和47年4月16日着工なので、着工以前の写真です。私の記憶の上新庄駅は、やはり工事に伴う仮駅だったようです。添付写真の赤丸で示した紅白の煙突が決め手ですね。それにしても、島頭踏切(道路幅28m)がもう少しはっきり写ってもよさそうな気もします。 返信 ↓
この写真は西向日町とか総持寺辺りかなと思いました。 上新庄とは!? 四方さんがお書きのように、上新庄なら高架工事の最大ポイント島頭踏切の存在が感じられないのが不思議です。 ちなみに、撮影された時に私は会計部で慣れぬそろばんと格闘していました。 それにしても2811先頭の7連特急の勇姿、素敵ですね! 返信 ↓
米手さん、背景の山に惑わされてしまいました。てっきり京都の山と思っていました。上新庄だとすると背景の山は北摂の山なのですね。あの頃はよく見えたことがわかりました。右側の酒屋も頼りに京都あたりを探ってみたのですがわかりませんでした。ところで昭和39年8月号の「模型とラジオ」にOゲージとHOゲージの両方の寸法入りの阪急2800の作り方を書いた記事がありました。屋根はペーパールーフです。作り方は主にOゲージでの作り方が書かれています。まだOゲージが存在感があった時代だと言うことがわかります。 返信 ↓
S.Nさんからマルーンさん、四方さんへ伝言(その1) 『地上駅時代の上新庄について四方様、マルーン様が島頭踏切に言及されていましたので調べました。2800系特急の写真を拡大していただくと、左側ホーム突き当り奥の手摺越しに水平方向に島頭踏切の道路部分が見え、通過中の特急の6両目の途中から7両目の床下にかけてその続きが見えています。』 《米手作市の説明》 コメント欄では写真が拡大できないので私が拡大して掲載します 返信 ↓
S.Nさんからマルーンさん、四方さんへ伝言(その2) 『2800系特急と同じ撮影日、撮影場所で踏切の映り込んだコマを探しました。添付の3300系動物園前行各停の写真をご覧ください。3300系5連の後部の先に小さく島頭踏切を横断中のタンクローリーが見えます。また踏切小屋も写っています。』 《米手作市の説明》 これは本日送られてきたもので、まずそのまま掲載します。続いて拡大写真を掲載します。 返信 ↓
マルーンさん、 それにしても会員以外の方からこれほど熱心に読んでいただけるとはありがたいことではありませんか!さすがは前会長の活躍の成果ですね。 会員諸氏も負けないで投稿やご意見を書いて欲しいものですね。 返信 ↓
S.N様、米手作市様、マルーン様、 この度は、私の誤答からご迷惑をおかけいたしました。深くお詫び申し上げます。 島頭踏切、車両の後ろに写っていた警報機と誤認(さらに、この踏切を東向日東一番踏切と誤認)していました。さらにこの警報機の奥のあたりで神崎川から降りてきている様子も見られ、これに気付いていればと、反省しきりです。 参考にした資料のアドレスは下記のとおりですが、結構楽しめます。145mのホームに7連(133m=19m×7)を止める運転士さんのご苦労はいかばかりだったのか、とか。(当時、西院が厳しかった印象があります) 諸先輩方には、ご迷惑をおかけいたしましたが、いろいろと調べる機会を与えていただいたことに感謝いたしております。 https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/cmsfiles/contents/0000212/212253/2-1shinnzyouyamatogawa.pdf 返信 ↓
四方誠さん、 とんでもありません。ありがたい限りです。 こうやって会話のようにやりとりすることが私の楽しみなのです。ご存じのように誤解や牽強付会は当会の古き良き伝統です。これからも思う存分書き込んで下さい。 返信 ↓
はじめまして!上新庄に住んでいる者です。私は51才で1971年生まれ、上新庄に住みだしたのが1995年ですが内環(国道479)に島頭踏切があった事は地元の方から聞いています。たしか昭和30年頃かに渋滞で島頭踏切で大きな事故があり、(渋滞の中に電車が突っ込んだ??)多くの人が亡くなった。見に行ったら肉の破片が飛び散ってたと怖ろしい話を聞きました。 ところがその事故や踏切自体の写真を見たことがなかったです。 隣の淡路駅は今まさに高架化の工事が行われております。町の風景がまた大きく変わる時です。 返信 ↓
時計好き様 コメントありがとうございます。 表記の事故はこれですね。 《阪急上新庄駅付近の踏切事故 昭和34(1959)年1月3日午後10時50分ころ、 大阪市東淀川区島頭町の阪急京阪線上新庄駅の北100メートルの踏切で、警手が遮断を怠った踏切内に大阪市営バスが進入、阪急下り梅田行きの急行電車と衝突後、上り京都行きの急行電車と衝突し、バスの乗員乗客7人が死亡し、電車の乗客16人が負傷したもの。 警手(48歳男性)は、日ごろ列車の接近を知らせるブザーが鳴っても電車が来るのが遅いことから、ブザー吹鳴後20秒ほど間隔を置いて遮断機を降ろしていた。 このときも、いつもどおりブザー吹鳴から20秒ほど時間を置いて開閉機を下げようと詰所を出たが、すでに江口橋発大阪駅前行きの大阪市営バス(運転手39歳男性)が踏切内に進入しており、遮断機を降ろす間もなく列車と衝突した。》(重大事故の歴史を探る・大阪府編。交通事故相談所より) 返信 ↓
河原町か烏丸から帰宅中に、地下線内を走っている車内をたまたまカメラを持っていたので撮ってみました。
デデレコデンのどですかでんさんは2800の特急通学でうらやましいです。特急が停まらない駅の私などは、P-6に乗って胃下垂になり、1600で難聴になりました。
学生時代、大阪へ行く際利用したのはこの阪急2800系特急か京阪の1900系特急でした。
阪急は大阪へ39分がキャッチフレーズ!時たまロングシートが来るとがっかりしたものでした。冷房がない時代、窓を開けて走る夏は高速走行のため走行音が高かった!
BOXでやれ阪急や京阪やと阪急の走行音以上の喧噪が思い出されます。剛の阪急、柔の京阪というところでしょうか1?
大宮で「次は大阪の十三まで止まりません」、十三で「次は京都の大宮まで止まりません」というアナウンスも懐かしいですね。
通学では大阪・京都間を阪急、国鉄、京阪を代わる代わる利用していました、この中で最も多く利用していたのが阪急で、京都市内での学校までのアクセスが便利だったこともあります。大阪へ帰る時は烏丸から一旦河原町まで折り返し、ホームの乗客の冷たい視線を浴びながらクロスシートを転換させてそのまま座って帰っていました。今となっては2800を見ることも出来ませんが模型で懐かしんでおります。
だれも現役時代の2800特急の写真を持っていないのですか?
1971年に山崎で撮った2800特急の写真があります。写真屋の現像ムラがあったので今まで世間様にお見せいたしていませんでしたが、近年のデジタル画像処理でなんとか見られるようになりました。
どですかでんさん
ありがとうございます。
ところでこの場所は大山崎の京都寄りですね?こんな写真が撮れる跨線橋がありますか?
今でもあります。探してみてください。
今日は。たぶん同じ場所だと思いますが、昭和60年に2814を写しています。
空気バネの台車をはいた2814が3扉改造されて普通電車で走っていたのですね。初めて見ました。見せていただきありがとうございます。
S.N様より投稿
いつも見て下さっている東京のS.N様から現役時の2800特急の写真を頂きました。
さくらカラーのカビ除去に手間取ったとのこと、ありがとうございます。
さて、撮影場所はどこか分かりますか?1971年(昭和46年)9月8日の撮影です。
特に決め手がある訳でもないのですが、東向日町のような気がします。違っていれば、すいません。
残念!違います。
正解は
S.N様のコメントによると『地上駅時代の上新庄にて1971年(昭和46年)9月8日に撮影』が正解!
マルーンさん、毎日運転して通ったんとちゃうの?
米手作市様、
正解ありがとうございます。小学生頃(?)の記憶なので曖昧ですが、上新庄駅は新幹線の高架下から北陽踏切のカーブ区間にあったような記憶があります。高架工事の関係で移動していたのでしょうか?。それとも、私の脳が壊れてきているのでしょうか。
四方誠さん、
この答えは私には分かりません。
地主のマルーンさんに聞きましょう。
私なりに少し調べてみました。
交差化工事は昭和47年4月16日着工なので、着工以前の写真です。私の記憶の上新庄駅は、やはり工事に伴う仮駅だったようです。添付写真の赤丸で示した紅白の煙突が決め手ですね。それにしても、島頭踏切(道路幅28m)がもう少しはっきり写ってもよさそうな気もします。
この写真は西向日町とか総持寺辺りかなと思いました。
上新庄とは!?
四方さんがお書きのように、上新庄なら高架工事の最大ポイント島頭踏切の存在が感じられないのが不思議です。
ちなみに、撮影された時に私は会計部で慣れぬそろばんと格闘していました。
それにしても2811先頭の7連特急の勇姿、素敵ですね!
米手さん、背景の山に惑わされてしまいました。てっきり京都の山と思っていました。上新庄だとすると背景の山は北摂の山なのですね。あの頃はよく見えたことがわかりました。右側の酒屋も頼りに京都あたりを探ってみたのですがわかりませんでした。ところで昭和39年8月号の「模型とラジオ」にOゲージとHOゲージの両方の寸法入りの阪急2800の作り方を書いた記事がありました。屋根はペーパールーフです。作り方は主にOゲージでの作り方が書かれています。まだOゲージが存在感があった時代だと言うことがわかります。
Oゲージで6連!
これを走らせたら地響きするでしょうねぇ。
ちょうど正雀車庫の横をP-6特急で通過する時のように。
S.Nさんからマルーンさん、四方さんへ伝言(その1)
『地上駅時代の上新庄について四方様、マルーン様が島頭踏切に言及されていましたので調べました。2800系特急の写真を拡大していただくと、左側ホーム突き当り奥の手摺越しに水平方向に島頭踏切の道路部分が見え、通過中の特急の6両目の途中から7両目の床下にかけてその続きが見えています。』
《米手作市の説明》
コメント欄では写真が拡大できないので私が拡大して掲載します
S.Nさんからマルーンさん、四方さんへ伝言(その2)
『2800系特急と同じ撮影日、撮影場所で踏切の映り込んだコマを探しました。添付の3300系動物園前行各停の写真をご覧ください。3300系5連の後部の先に小さく島頭踏切を横断中のタンクローリーが見えます。また踏切小屋も写っています。』
《米手作市の説明》
これは本日送られてきたもので、まずそのまま掲載します。続いて拡大写真を掲載します。
拡大写真
マルーンさん、四方さん、ガッテン頂けたでしょうか?
S.N様、米手作市様
恐れ入りました。「ガッテン」でございまする。
「ボーッと生きてんじゃないよ!」と聞こえてくるようです。
マルーンさん、
それにしても会員以外の方からこれほど熱心に読んでいただけるとはありがたいことではありませんか!さすがは前会長の活躍の成果ですね。
会員諸氏も負けないで投稿やご意見を書いて欲しいものですね。
S.N様、米手作市様、マルーン様、
この度は、私の誤答からご迷惑をおかけいたしました。深くお詫び申し上げます。
島頭踏切、車両の後ろに写っていた警報機と誤認(さらに、この踏切を東向日東一番踏切と誤認)していました。さらにこの警報機の奥のあたりで神崎川から降りてきている様子も見られ、これに気付いていればと、反省しきりです。
参考にした資料のアドレスは下記のとおりですが、結構楽しめます。145mのホームに7連(133m=19m×7)を止める運転士さんのご苦労はいかばかりだったのか、とか。(当時、西院が厳しかった印象があります)
諸先輩方には、ご迷惑をおかけいたしましたが、いろいろと調べる機会を与えていただいたことに感謝いたしております。
https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/cmsfiles/contents/0000212/212253/2-1shinnzyouyamatogawa.pdf
四方誠さん、
とんでもありません。ありがたい限りです。
こうやって会話のようにやりとりすることが私の楽しみなのです。ご存じのように誤解や牽強付会は当会の古き良き伝統です。これからも思う存分書き込んで下さい。
はじめまして!上新庄に住んでいる者です。私は51才で1971年生まれ、上新庄に住みだしたのが1995年ですが内環(国道479)に島頭踏切があった事は地元の方から聞いています。たしか昭和30年頃かに渋滞で島頭踏切で大きな事故があり、(渋滞の中に電車が突っ込んだ??)多くの人が亡くなった。見に行ったら肉の破片が飛び散ってたと怖ろしい話を聞きました。
ところがその事故や踏切自体の写真を見たことがなかったです。
隣の淡路駅は今まさに高架化の工事が行われております。町の風景がまた大きく変わる時です。
時計好き様
コメントありがとうございます。
表記の事故はこれですね。
《阪急上新庄駅付近の踏切事故
昭和34(1959)年1月3日午後10時50分ころ、 大阪市東淀川区島頭町の阪急京阪線上新庄駅の北100メートルの踏切で、警手が遮断を怠った踏切内に大阪市営バスが進入、阪急下り梅田行きの急行電車と衝突後、上り京都行きの急行電車と衝突し、バスの乗員乗客7人が死亡し、電車の乗客16人が負傷したもの。
警手(48歳男性)は、日ごろ列車の接近を知らせるブザーが鳴っても電車が来るのが遅いことから、ブザー吹鳴後20秒ほど間隔を置いて遮断機を降ろしていた。
このときも、いつもどおりブザー吹鳴から20秒ほど時間を置いて開閉機を下げようと詰所を出たが、すでに江口橋発大阪駅前行きの大阪市営バス(運転手39歳男性)が踏切内に進入しており、遮断機を降ろす間もなく列車と衝突した。》(重大事故の歴史を探る・大阪府編。交通事故相談所より)