Gordon Davis氏の記録の中に、1枚だけ大阪市電1001形(1038)があるので、ご紹介しましょう。原版にキズがあり、お見苦しいですがお許し下さい。それとトラックにチョイト被られているのが、惜しい。撮影は昭和31年です。藤本さまのコメントで気付きましたが、Davis氏は1933年生まれ、89才です。場所はOsakaですが、その何処かは不明。関先生の絵と、この写真を見て思ったことがあります。どちらも旗竿に、旗が翻っています。この写真では向かって左側は、大阪市章のみおつくしのようですが、右側は不明。それはともかく、この電車(1001形)は、旗を掲げて毎日走り回っていたのでしょうか。
関 三平さんの解説を少し補足して1001形のその後について書いてみたいと思います。
大正12年~14年に170両新製されました。(旧番1081~1250→改番後1001~1170)戦災で93両焼失して、戦後車番を埋める形で1001~1097に改番されました。
昭和30年~33年に車体を新製して2501形(2501~2504)、2601形(2601~2693)になりました。
1001形が姿を消した昭和33年は、私含め団塊世代は小学校低学年、戦中派の方でも中学生か小学校高学年ですので、撮影されたことのある方は80歳以上の方になると思います。
車体新製後の2501形、2601形で振り返ってみたいと思います。
昭和42年7月29日、松島公園前、2503です。
昭和30年1月~3月に登場しました。車体は、2101形とほぼ同形ですが、方向幕が大きくなりました。
昭和41年8月25日、肥後橋、2643です。
昭和30年後期から、2201形、3001形と同形の車体になりました。
昭和43年4月30日、京阪東口、2670です。
昭和43年4月30日、天満橋、2634です。
2626~2639はワンマン改造され、港車庫~都島車庫間で使用されました。
廃車後は、全車両、広島電鉄に譲渡され、現在も健在な車両があります。。
鉄道友の会に入っていた頃ですので50年ちょっと前の市電車庫見学会で貸切電車で移動中に撮った写真です。たぶん近鉄上本町駅前ではないかと思いますが、ちょっと怪しいです。遠くに写っているのは1001形かどうかわかりませんが比較的古い車両です。この時代、まだ多くの人が市電をよく利用されていたのがわかりますが、車も増えてきて次第に市電の路線が廃止されていきました。
Gordon Davis氏の記録の中に、1枚だけ大阪市電1001形(1038)があるので、ご紹介しましょう。原版にキズがあり、お見苦しいですがお許し下さい。それとトラックにチョイト被られているのが、惜しい。撮影は昭和31年です。藤本さまのコメントで気付きましたが、Davis氏は1933年生まれ、89才です。場所はOsakaですが、その何処かは不明。関先生の絵と、この写真を見て思ったことがあります。どちらも旗竿に、旗が翻っています。この写真では向かって左側は、大阪市章のみおつくしのようですが、右側は不明。それはともかく、この電車(1001形)は、旗を掲げて毎日走り回っていたのでしょうか。
皆様、失礼しました。Davis氏は、場所もちゃんと記録していました。天王寺です。また撮影は、1956(昭和31)年5月です。
昭和44年3月31日、今里、最終日の2620です。
昭和44年3月31日、守口、最終日の2681です。
大阪駅前の1034号。1950(昭和25)年4月2日、井口悦男氏の撮影。くたびれた電車、人々の様子から、終戦後が感じられる。ポールが切れていてるのは、手前側の地面が広く写り込んでいるから、二眼レフでの撮影だからでしょう。二眼特有のパララックスで、上部が画面外になるクセがあります。ポールと云えば、大阪市電は架線を複線架空式から、単線に切り替えたのが昭和21~23年と遅かったが、集電装置のビューゲル化は、昭和24~28年と間を置かなかった。その為、シングルポール時代の記録は少なく、この写真もなかなか貴重。井口氏は慶応鉄研OBで、東京市電の系統変遷の研究で知られた方。宮松金次郎氏の作品集「東京市電・都電」の編集を小生に委嘱して下さったのは、大変な光栄だった。先年亡くなったのは、とても残念だが、こうしてデジ青に、氏の記録を御紹介できるのは、有難いことです。
宮崎繁幹さん、
いつも貴重な記録を見せて頂き、ありがとうございます。
この時代の大阪駅の記憶が少し残っています。
まだ戦災の傷跡が残っていた昭和25年から30年頃に、父親に連れられて大阪駅に降り立ったことが何度もあります。
この写真の右側、南側には闇市が密集していてすごい雑踏で混み合っていました。駅の玄関口から市電の停留所までの広場にはタクシーもありましたが、幌をつけた人力車がズラッと並んでいました。そこでこの破風造りの市電を見たことがあります。
回数券ばら売りのおばさんの白い割烹着、傷痍軍人の白い傷病衣、なぜかこの頃の思い出は白い色と共によみがえります。
時代は3年下った、1953(昭和28)年5月12日。米手さまが実見された大阪駅前も、この間に随分と変わったことでしょう。市電も塗色はツートンカラーに、集電装置はビューゲルに載せ替え、近代化されました。車番は1028らしいが、はっきり読み取れません。阪急百貨店の3階から俯瞰したこの写真を撮影したのは、国電研究家だった、吉田明雄氏です。亡くなって10年近くなりますが、思えばこの写真が貼られたアルバムを小生に下さったのは、終活の一環だったのでしょう。せっかく纏められたものを頂いて良いものかと、ちょっと躊躇したものです。いま考えてみるに、これは貰ったのではなく、小生に託されたと云うことなのでしょう。そしてデジ青の御蔭で、出番がまわってきたと。これからも、折に触れてお目に掛けたいと存じます。
これが昭和28年の大阪駅前ですか。
「みのお観光博覧会」の看板があるので、調べたら1953年となっていました。
私の記憶にある駅前は、数年前のようです。駅前がきれいすぎるのと、中央上部にオート三輪のタクシーが走っていますが、人力車の姿が見えません。この頃は急速に復興が進んでいたのかも知れませんね。
大阪通信員さんの感想も聞かせて頂きたいと思います。
米手さま、あのオート三輪は、タクシーだったのですか。そんなのがあったとは、知りませんでした。いっぽう人力車は意外と長い間使われた、交通手段だったようですね。私の母は、昭和20年代初め、東京で下宿生活をしていた頃、駅に着いた荷物(行李)を下宿に持って帰るのに、人力車で運んだと言って居りました。
さて、時代は更に下って、昭和30年頃の阿倍野橋。撮影者は、小生の友人だった山本明弘さんです。初号車が良い角度から捉えられています。1001形は、お椀に穴の開いた独特な形態のベンチレーターを屋根上に載せているのが特徴のひとつでした。製造時は左右6個づつでしたが、後に2個減らして4個としたものや、この1001号のように、ガーランド形に換えてしまった車もあるようです。そういや、この車は日の丸を掲げていますね。偶々、旗日だったのか、それとも年がら年中、旗を翻して走っていたものか。どなたか、ご存知ありませんか?
宮崎繁幹さん、
私も子供の頃のおぼろげな記憶ですから、人力車と書きましたが人力車だったか、人力自転車だったか怪しくなってきました。市電の日の丸と共に大阪通信員さんに答えて貰いましょう。
もう1枚、山本明弘氏撮影の写真をお目に掛けます。1063号です。時期は、前掲の1001号と同じ、昭和30年頃と思われます。この車も通風器はガーランド型に換装されています。右端のドアの「〆切」表示が目立ちます。もともと、大型3扉の1001形は、車掌2人乗務で運行されていたが、この頃には車掌1人乗務とし、前と中扉のみ使用、後扉は閉め切って運行していたことを示すものです。