米手さまがお尋ねの高架前の山陰線四条踏切について、たまたま横が以前の勤務先の本社工場だったため、いくつかの記録を残していました。
▲写真1 四条踏切を行くDF50。 ちなみに四条大宮~西大路四条間に、市電ではなくトロリーバスが走ったのも、この踏切が原因
▲写真2 山陰線高架化の前日、同踏切を行く特急「あさしお」
まず踏切ですが、ウンと以前のことは知りませんが、私の知る限りでは、通常の第一種踏切で、特殊なものではなかったようです。写真1は高架工事が始まる前の昭和48年4月の同踏切で、腕木式の遮断桿が見えます。左に見える塔屋は、この地下を走る阪急京都線の排気塔で、ここを通ると、地下鉄特有の熱気を伴った匂いが漂っていたものでした。写真2は、山陰線高架完成の昭和51年3月16日の前日、最終日の四条踏切で、高架橋が頭上を覆います。その翌日、C11の牽く記念列車が京都~二条間を走りました。
▲写真3 地上の山陰線をオーバークロスする京福のポール電車
▲写真4 高架化前日の様子。この日、一晩で上下が入れ替わってしまう
いっぽうの山陰線高架化による京福嵐山線の処遇ですが、写真3は高架化前の様子。山陰線は地上、京福はその上を越えています。確かに、このまま高架化してしまうと、京福側のクリアランスがなくなってしまいます。そこで採ったのは、京福の盤下げ化でした。写真4は2と同じ高架化前日で、中央の複線の両脇に、路盤が下げられた仮線が見えます。翌日から、この仮線を電車が走り、平行して中央の現在線を盤下げする工事に掛かり、現在見られる関係になりました。